第38話 子弟の大事なお約束
「……?」
気づくと、リナの目はしっかりと覚めていた。
いや。
そうではない。
気絶など、おそらくはしていなかった。
そういう感覚がある。
では、どうしてこんな、寝覚めのようなすっきりとした気持ちがするのか。
それは、シバルバーから何かをされた直後、リナの心の中が、空っぽになったからだった。
感情を失ったとか、記憶がなくなったとか、そういうことではない。
そうではなく、頭の中で考えていたこと……たとえば、シバルバーの格好に対する生理的な忌避感とか、今日の夕飯はなににしようかなぁ、ということに始まり、右足がちょっとかゆい、とか髪が目に少しかかっているから髪をとかそう、とかそういう色々なことが、ぱっと、シバルバーにからけられたステッキから放たれた光を浴びた瞬間に消失してしまったのだ。
なにも心の中にない、という感覚は新鮮であると同時に、不安であり、また、酷く深い谷底に放り投げ入れられたような気持ちもするものだった。
そんな感覚は、リナが生まれてこの方、一度も経験をしたことのないものであり、意識してそういう心持ちになれるような気のしない、不思議なものでもあった。
ただ、恐ろしいほどに解放されていたことだけは確かで、今まであった不安のすべて、悩みの全てがなくなってしまったのだった。
そんなリナに、声がかかる。
「……さて、リナ。お前の心の中には、いま、なにもないな?」
「……ぁ……」
返事をしよう、と思ったのはずなのだが、それすらも出来ない。
リナのそんな状態をシバルバーは理解していたらしく、
「それが、"無"だ。完全な無心、という奴だな。それを常に、自分で作り出せるようになれば、お前は神として一段階、上に上れる……が、まぁ、それは後でいいだろう。今、重要なのは、お前が神力を感じられるかということだ」
言われて、リナが薄くなった自意識を必死にかき集めてスクルドの方に意識をやった。
すると、そこには確かに神力があるのが理解できた。
しかし、その存在感は先ほどまでとは段違いだった。
恐ろしいほどの力の集合がそこにはあった。
それはスクルドを中心にして渦を巻いており、さらにゆっくりと外側に流れて世界に溶けていっている。
世界に神力を薄く広げると言っていたが、なるほどこういうことをしていたのかとやっと理解できた。
それと同時に、リナは、スクルドの周りに広がる力に触れようとした。
なぜ、そんなことをしようとしたのかは、分からない。
しかし今ならそれが出来るような気がしたのだ。
実際、リナの手は僅かにスクルドの力に触れた。
そこから雷が通るように、リナの体に衝撃が走った。
そしてそこから、巨大な知識と、深い思索が流れてくる。
これは、スクルドの自意識そのもの。
そう、リナには感じられた。
今まで知らなかったものが、頭の中に焼き付けられていく。
神というもの、魔力の本質、神力の使い方……。
口で説明されても身になっていないような感じられていたものが、今、リナにはしっかりと理解できていた。
はっとしてシバルバーの方を見れば、彼は微笑んでリナを見ていた。
「どうやら、分かったようだな?」
「……はい。でも……」
知識として知っていることと、実際にやってできるかどうかはまた別の話だ。
それはシバルバーも分かっていたようで、
「ここからが、修行の始まりという奴だな。神力の使い方を、叩き込んでやる。さぁ、かかってこい」
そして、本当の修行が始まった。
◆◇◆◇◆
「これで、修行は終了だ。神力の使い方、理解したな?」
シバルバーがそう言ってリナを見た。
そこには、以前とは比べものにならないくらいに自信に満ちあふれたリナがいた。
ふわふわと彼女の周りを浮かぶ精霊も静かにしている。
それは彼女が落ち着いていることを示している。
「はい。なんとか……でも、まだまだで……」
ただ根本的な性格が変わったわけではなく、そう言ったリナの表情は不安そうである。
精霊も動き出して、シバルバーに攻撃を加えようとするが、
「めっ!」
とリナが言うと、しゅん、とした様子で精霊たちは動きを止めた。
精霊の完全な制御、とまではいかないが、それでも唐突に他人を攻撃しようとすることを止めることは出来るようになったのだ。
それだけでも大したん進歩である。
「よく、やったね……リナ。途中から指導に参加した僕が言うのもなんだけど、君の成長には目を見張るものがあったよ。これからも精進するといい」
そう言ったのは、シバルバーでもスクルドでもない、もう一人の神だ。
イシュタム、という名の細身であるが筋肉質な青年である彼は、シバルバーと並んで天界の武闘派の筆頭だという。
しかしそんな彼の容姿に、リナは未だに慣れていない。
なぜなら、イシュタムの格好はほとんど裸であると言っていいものだからだ。
隠すべきところは一応隠されているが、幅広ではあるが小さな葉っぱで隠されているに過ぎず、また頭部には女性ものの下着を纏っている。
胸も同じく、必要もないだろうに、女性ものの下着が……。
初めて引き合わされたとき、今まで出したこともない断末魔と言ってもいいかもしれない悲鳴が自分の喉から出たのを覚えている。
そんなリナに、
「……シバルバーになれたから行けるかと思ったんだけど、さすがに刺激が強すぎたわね……」
とスクルドが顔をしかめて呟き、
「……俺は服を着られているだけ、マシなのかも知れぬとこいつを見るといつもも思う……」
と心底同情的な声でシバルバーがささやいた。
悲鳴と同情と哀れみを一身に向けられたイシュタムは、絶望的な様子でひざをつきつつ、
「……僕だって、こんな格好はしたくはない。したくは、ないんだ……」
と言いながら涙を流していた。
顔に被った下着が涙に濡れていた。
気持ち悪かった。
もちろん、神力を発揮しなければ、普通の格好の、むしろかなり整った顔立ちをした優しげな雰囲気の青年であり、その状態で顔を合わせたときはリナも当然、なんの問題もなかった。
しかし、いざ神力の指導だ、というときにいたって、イシュタムはそんな格好になってしまったのだ。
当然、自分でそうしたかったわけではないというからには、これもあの娘の仕業と言うことになるだろう。
あまりにも酷い所業である。
これなら確かにシバルバーの方がまだ、マシだった。
けれど、そんな相手であっても、天界においては神力の第一人者なのだ。
教えを請わないわけには行かず、非常に近づきがたくても、近寄って話を聞かなければならなかった。
そのたびに、イシュタムはリナに言った。
「……その軽蔑したような視線は、傷つくから、やめてね……」
もちろん、泣きながら。
イシュタムが自分でやっているわけではないとは頭で理解しつつも、その見た目の衝撃はそういう細かい事情全てをリナに忘れさせる威力があって、表情に生理的嫌悪感が出るのは避けられなかった。
そのときのことは、本当に今にして、申し訳なく思う。
今は、もう、慣れた。
心を殺し、死んだような気持ちになれば、イシュタムのその格好ですら、何の問題もないように思えるようにまでなったのだ。
笑顔でリナはイシュタムに握手を求める。
「イシュタム様のおかげで、私……強くなれたと思います! 本当に、ありがとうございました!」
どういう意味で強くなれたのかは言わない。言えない。
しかしそんなリナの顔を見ながら、イシュタムは察したのか、言う。
「……女の子に目が死んだ笑顔を向けられると、それこそ死にたくなるね……」
そんなつもりは一切無かったつもりのリナだったが、イシュタムにはそう見えたらしい。
「まぁ……いろんな意味で仕方ないわ。とりあえず、あなたについては置いておきましょう。それよりも今、大事なのは……」
スクルドがそう言って、空中に鏡のようなものを出現させた。
不思議に思ってリナが首を傾げると、そこには数日前まで自分が住んでいた街を、誰かが襲っているのが映り始めた。
「これは……?」
「ふむ、妖魔に悪魔、それに……獣魔であるな。これは珍しい、上位種の奴らばかりではないか」
シバルバーの言葉に、それは魔物とは違うのか、と聞こうと思ったリナだったが、スクルドが出し抜けに言う。
「今、街に帰るとこいつらのうちのどれかと闘うことになるけど、頑張れるわよね?」
「えっ?」
首を傾げたリナだったが、すでに彼女の首根っこはスクルドに捕まれていた。
何か、覚えのある感覚に困惑は大きくなる。
そして、体が揺らぐ感覚がした。
視線の先には、ハンカチを持って涙を拭うシバルバーと、女性ものの下着で涙を拭うイシュタムがいた。
どうやら、イシュタムがハンカチを握ると、全て女性ものの下着に変化してしまうらしい。
「ではな、リナ。健闘を祈っているぞ。また、そのうち天界に修行に来るといい。そのときには、もっとマシな格好で迎えられるとよいものだ……」
「……僕はせめて服が着たいよ……リナ、またね……また、僕に会いたいと思うかどうかはあれだけどね……」
と気の抜けるような別れの挨拶だった。
内容はともかく、リナは二人に世話になった感覚がある。
どこかに運ばれていくような感覚がする中で、リナは精一杯声を上げて、
「お二人とも! 本当にありがとうございます! 格好は! その格好はやめてもらえるように! あの人に一生懸命お願いしてきますから、期待しておいてください!」
その台詞に、本当に救われたような顔をした二人を見たリナ。
「おぉ……なんて、なんて晴れやかな気持ちなのだ……お前を弟子にしたこと、俺は永遠に誇らしく思う!」
「今なら言える……君のためなら何だってしよう! がんばってきてくれ! 本当に……がんばってきてくれっ!!」
悲痛な二人の声を聞きながら。
そしてリナとスクルドの姿は天界から消滅したのだった。




