第二十九話 市の崩れ
安土からの使者が、京へ到着した。
だが、持参したのは詰問状ではなかった。
布袋から取り出されたのは──米切手(米の引換証)。
「安土の蔵より、米を放出するとのこと」
使者は淡々と言った。
京の商人たちは、一瞬、呆然と顔を見合わせた。
翌朝。
京の市に、巨大な白い山が積まれた。
安土産の米。
しかも──。
「……安い」
「ただ同然やないか、これ!」
掲げられた値札が、信じられないほど低い。
商人たちは、我先にと歓声を上げた。
「買え! 全部買え!」
「今のうちや! 蔵を空にしてでも積み込め!」
義昭が整えたはずの“高値による安定”は、
安値という名の、抗えぬ奔流に飲み込まれていった。
米俵が次々と崩れ、
真っ白な粒が、無残に地面に散る。
昼が過ぎる頃には、京の相場が完全に底抜けした。
昨日まで「資産」だった蓄えは、
紙屑同然に価値を失い、市場はパニックに陥る。
「う、嘘や……」
「昨日の値の半分以下やぞ……! 破産や、おしまいだ!」
商人の顔が、みるみる青ざめていく。
朝の熱狂的な活気は、
夕方には、絶望と混乱へと変わっていた。
秀吉は、市の端で積み上がる米俵の山を見つめていた。
積み上がる白。
崩れ落ちる白。
泥にまみれて奪い合う、無数の手。
その光景を前に、秀吉は喉の奥で小さく呟いた。
「……信長様は、堤を壊しはった」
「流れが、完全に逆になったわ」
勝家の怒号も、商人の悲鳴も、
秀吉の耳には、遠くの波音のようにしか聞こえなかった。
光秀は、安土から届いたばかりの米を、一握り手に取った。
白い。
やけに、白い。
(……死装束の色だ)
胸の奥が、氷を当てられたように冷えた。
京に溢れる白。安土へ戻らぬ白。価値を失った白。
(信長様は……米そのものを、弾丸として京へ叩きつけたのだ)
義昭が緻密に積み上げた“静かな均衡”が、暴力的な物量によって一瞬で崩れ去る。
光秀は、その圧倒的な破壊の速さに、ただ言葉を失った。
二条御所。
喧騒の届かぬ、静謐な奥座敷。
藤孝が報告を終え、音もなく静かに下がる。
義昭は、それに応えない。
ただ、運び込まれた安土の米を一掴みし、
指の間からさらさらとこぼれ落ちる白い粒を、
吸い込まれるようにじっと見つめていた。
畳に落ちる音は、驚くほど静かだった。
外からは、
京の市が、内側から崩壊していく音だけが聞こえていた。
「1日2回公開キャンペーン」、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
信長という男は、刀を使わずとも街を殺せる。
キャンペーンとしての連打はここまでですが、物語の熱量はここからさらに上がっていきます。
明日、第30話「白の沈黙」をもって、第6章『政治戦の開幕』は完結。
崩壊の底で、義昭が何を掴み取るのか。
明日からは通常通り、21時10分にお待ちしております。




