ソ連軍の攻勢準備
日本軍を狙ったソ連軍からの攻勢準備の様子が伝わってきまましたが
モスクワ北方でイギリス軍、アメリカ軍の進撃が巧みなソ連軍の防御戦で、食い止められている間、南方のドイツ中央軍集団の左翼を固めている日本陸軍ウクライナ支隊は、日に日に圧力を感じている。
「情報要約を読んだか?」
「はい、モスクワ北部の件でしょうか?」
「そうだ。あちらはイギリスからの支援物資の戦車やらが主体で、戦車も履帯辺りまで埋めて待ち伏せ体制をとるなどしとる。一方で、我々にはだ」
「えっと、ISー2やISー3さらにISー4までの重戦車、ISUー152やらISUー122が出てきました。
さらに、砲兵も203ミリやらの重砲や多数のスターリンのオルガンや。
まあ、簡単にいえばソ連軍の重装甲の戦闘車両や重砲がうちに向けられているってことですかね。」
「早い話がノモンハン再びだよな」
「あれは見たくないな、二度と」
ノモンハンの戦闘は後に、現実の数字が後年、公開されるまでは、我が軍の甚大な損害ばかり目立っていたのだ。
装備で劣り、火力の集中度合いでも劣る日本軍は、現実には苦しい戦局でもソ連軍相手に敢闘していたのであった。
ただ、戦果の陰では、航空戦で多くの熟練した戦闘機の操縦士を喪ったのは大東亜戦争開戦時点での陸軍航空隊にも影響があったという。
また戦車戦についてもはっきりした不利が明確になったが、大東亜戦争までには十分にその教訓を生かせなかったのは残念なことである。
フィリピンでの戦車戦では、M3「軽戦車」にチハ車つまり97式「中戦車」が苦戦するなどの羽目にもなっている。
ノモンハンにおいては、日本軍は戦術的には強力なソ連軍を苦しめたが、戦略的に見たら、日本の一部にあった北進の意図をくじかれ、ひいては、極東方面の部隊を引き抜いて第1次のモスクワ攻防戦に間に合わす ことができたことにつながるから、ソ連軍の戦略的な勝ちと言える。
「今回は違うってことを露助に見せつけないとな」
「当然です。友軍のドイツ軍の側面をきっちり守って、ついでにノモンハンの借りを利息を着けて返しましょう!」
この後に、ウクライナ支隊の司令部では、作戦の原案を引っ提げて、ドイツ中央軍集団司令部と協議となったが、司令官のマンシュタイン将軍は、「弟弟子のできを見るかのごとく」であったとか。
そもそも、日本陸軍の参謀本部はプロイセン軍参謀本部から来たメッケル少佐の「弟子」みたいなものだからだ。
「兄弟子」が今のドイツ参謀本部であるから、気にはなるのだろうが、最終的にはほぼ原案通りに承認されている。
弱体な日本軍がロシア軍を「敗退」させて行った日露戦争での満州軍の戦いが再現されるか、はたまたノモンハンでの苦戦が繰り返されるかは、今後の戦局如何である。
さあ、どうなることやら




