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イギリス海軍の疫病神  作者: 通りすがりの野良猫
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1970年3月15日、大阪にて

第2次大戦が歴史となった後も、生き残れた人たちがいます。

2018年の大阪府吹田市北部の様子からは、たぶん想像できないだろうが、1970年の3月はそりゃもう大変な騒ぎであった。

大阪で万国博覧会があったのだ。

筆者はまだ今のようなくたびれたオッサンでもなく、小学1年生だった。

ウルトラセブンの本放送を見ている時に、伊丹空港に進入してくるANAのフォッカーF27フレンドシップの騒音を腹立たしく見上げるガキであった頃である。

万博会場では初老の日本人、ドイツ人、そしてロシア人がビールを酌み交わしていた。


「あのとき、互いに撃ち合いしたのが嘘みたいだな」

ロシア人がしみじみ言う。


「あれは皆、仕事でしたから」日本人もうなずきながら言う。

「もうたくさんだね」

ドイツ人の言葉にロシア人も日本人もうなずく。


彼らはあのモスクワ正面での「史上最大の乱戦」と呼ばれる戦いに参加させられかつ、生き延びたのである。


「生き延びたからこそ、こうして飲める。この場でこのように飲めずに逝った戦友に乾杯しよう」日本人がジョッキを掲げると2つのジョッキが「唱和」した。


さて彼らが否応なしに放り込まれた「モスクワ正面の史上最大の乱戦」について述べていこう。


時に1948年晩秋のモスクワのソ連軍最高司令部、スタフカにて。

スターリンはかなり憔悴していた。

ゆっくり休めないのである。

以前も述べたBー36を使ったアメリカ空軍のスレッジハンマー作戦、特大の爆弾によりスターリンの行きそうな場所をまとめて爆撃した、とんでもない爆撃作戦のお陰で、衝撃を受けたからである。


彼はたまたま、スタフカに戻るのが、車両故障で10分ほど遅れたのである。

もし故障がなければスタフカの地下に彼も埋葬されていたのである。


それからと言うもの、スターリンは野戦指揮所のトレーラーハウスを毎日移動させながらの執務を続けているのである。


さすがにスターリンも頭に来ている。

信頼しているスタッフはスタフカと共にかなり殺られてしまった。

また上がってくる報告はろくなものがない。

もう粉飾しょうがないのである。

キエフやオリョールはたまたサンクトペテルブルグとかいった地名ではなく、モスクワ近郊の地名が出てくるに至り、もうごまかしようがないのである。


「ソビエト連邦はモスクワを失いかけている」事実がスターリンに突き付けられているのである。


幸い頼りになるジューコフはまだそばにいるので、ここ一番、敵の戦意を喪失させるような大反撃を立案するだろう。

もう失敗は許されないのだ。




昨日、休みにいろいろ整理していたら1970年の大阪での万博の記念スタンプ帳がありました。今は亡き両親とあちこちいった中にソビエト連邦館がありました。内容は覚えてませんが独特の建物は今でも印象に残りました。

そこからの連想で書いてます。

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