日本共産党の焦り
ウラジオストク攻撃はソ連共産党に危機感を与えました。
その対応は?
1946年当時、結成以来ずーっと日陰者の日本共産党、は焦っていた。
戦前、戦中の日本で「天皇制打倒」を夢想すること自体、無茶な話であり、非現実的な妄想に近いものであるのに、である。
また、滑稽な話であるが、日本人が天皇制に盲従していることを、批判しつつ、ソ連共産党や後に中国共産党の「ポチ」である日本共産党は、コミンテルンやらを通じた「指導に盲従して」振り回されていた。
いくら、活動家たちが虚勢を張ろうとも、現実には、党組織は特別高等警察、特高に浸透されるわ、10人捕まれば8割近い転向者が出るわで青色吐息であるのが実態である。
そんな時にである。コミンテルンはウラジオストク攻撃に続き、地中海への特務艦隊の派遣などから、日本の本格的な対ソ参戦間近とみて、日本国内での「武装闘争」を「命令」してきた!
これはコミンテルンの機関誌に「日本の情勢について」という記事が出された。
これは、スターリンの意向を「忖度」して書かれたもので、早い話が日本共産党に武装革命を焚き付けるものである。
これが大混乱を引き起こす。
忠実な一派は大陸で中国共産党関連から武器を仕入れ、国内に持ち込もうとした。後に公開されたのを見ると、当時のソ連軍狙撃兵大隊まるごと装備できるくらいの小火器と弾薬が提供されていたらしい。
朝鮮半島の釜山を出てこっそり漁船で持ち込もうとしたが、情報を得て警戒中の海防艦に捕捉、臨検され、逮捕された。
国内では無理と海外に根拠地を設けるべく亡命しようとしたものは、こともあろうにソ連の国境警備隊に誤認され、射殺される。
一説にはこれは誤認ではなく、これ以上日本とのトラブルに関わりたくない、上司の意向で下級将校が射撃命令を出したとも言われている。このあと彼がなんら処罰を受けなかったことがこの説の信憑性を高めている。
結局この「命令」は現場を混乱させ、組織をさらに弱体化させたと記録されることになる。
史実でも「所感派」「国際派」だとか分裂した挙げ句武装闘争に走っちゃった党ですからね(^-^)!




