親衛隊の内紛
ドイツ占領下での親衛隊の「特別行動隊 」の活動は、さすがに問題化してきたのである。
ドイツ占領下のエジプトでは、今までと違い「緩やか」な占領政策が取られていた。
理由は簡単、押さえ込めるだけの兵隊がいないのである。
カイロなども大使館に名目上の「総督府」をおいているだけである。
以前のエジプト大使館とほぼ同じ業務をしていると言って過言ではない。
以前のような「親衛隊の特別行動隊」が暴れるようなこともなくなった。
なぜか?
親衛隊内部の内紛である。
武装親衛隊は最近はもともとの、「選ばれたドイツ人から編成されたエリート」ではなく「占領地区からの義勇兵」のような部隊「義勇SS」のような部隊のほうの割合が増えてきたのである。
特にソ連侵攻で得た膨大な捕虜など今さらソ連に返されても、良くてシベリア送り程度の扱いとしれていた。
それに目をつけてドイツ軍は多数の義勇兵部隊を武装親衛隊に設けるようになったのだ。
行き場のない彼らは、東部戦線の前線に展開したが、次に捕虜になれば命はないから、勇戦敢闘する。これによりドイツ人部隊が何度も危機を救われたりして、段々と武装親衛隊内部でも発言権が増してきたし、指揮官たちも彼らを擁護するようになってきた。
一方で親衛隊の特別行動隊などは、占領地域で、ユダヤ人狩りなどの蛮行を続けようとしていたため、武装親衛隊からしたら邪魔な存在と認識されてきた。
また国防軍からも、後々占領行政に無用の混乱を起こすことから反対の立場を唱えるようになった。
決定的なのは、秘密警察までもが、特別行動隊などの身内を切り捨てることにしたことだろう。
理由はこれまた簡単、総統閣下が療養中、デーニッツ大統領が「代理」として国政に出てきて以来、国内の風向きが大きく変わったことをいち早く察したからだ。
特に英米との連携が始まった以上、ユダヤ人狩りなどしていたことは、「戦争犯罪」を問われかねないと、内部の法務担当から声が上がったのである。
そして1945年末、親衛隊の特別行動隊は各地で「特別行事」の名目で召集され、その場で武装解除され逮捕された。
逮捕されたうち、直接戦争犯罪に関わってたものは、即日収監され今まで彼らが送り込んでいた強制収容所に入れらた。
抵抗して各地の本部などに立て籠った幹部連中には、容赦なく武装親衛隊の重戦車大隊が差し向けられて、ビルディングに71口径88ミリ徹甲榴弾が叩き込まれ、処分された。
かくして、親衛隊による「戦争犯罪」はドイツ国内においては「最終的解決」をみたのである。
なお強制収容所に入った者も、安全な生活を保障されたのではなかった。
後に「懲罰大隊」に配属され最前線で過酷な任務を味わうのであったが、占領地域でやり過ぎた彼らを擁護するものは、いなかった。
このような結果、エジプト国内は以前のイギリス統治下と変わらぬ体制で安定するのであった。
かくして親衛隊は見事なとかげの尻尾切りに成功したのである。




