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弥枝


 『君の歌には感情がない。これは愛の歌なんだ。君には愛という感情がないのか? それじゃあロボットが演った方がマシだ』


 ……泣きたい。

 恋愛なんて、もうとっくの昔に諦めてた。仕事だけのために、音楽だけのために生きてきた。それなのに。

 私から歌を取ったら、何が残ると言うんだろう。


 ゴー、とものすごい音を車内に響かせ、電車が走っている。ドアに預けた頭に、小さな振動が響く。いつもは煩いと思うそれも、今はなんだか心地好い。


 こんな時、愛する人がそばにいてくれたら、やっぱり心強いものなのだろうか。何も変わらない気がするのは、私が誰も愛していないからだろうか。


 恋人がいたことはある。でも、大したことは無かった。ただ手を繋いで、キスをして、たまに体を重ね合った。それだけ。


 本気で愛していなかった?

 じゃあ、愛すって何? 愛って何よ? この問いに答えられる人がどれだけいるって言うの?

 偉そうに語らないで。


 音楽、特に声楽は、恋人に向けた歌や愛を歌ったものが多い。……それだけに、技術だけじゃ間に合わないということか。じゃあ、私が今本気で恋をしたら、あのアリアが上手く歌えるの? 人の心を打てるの?


 限界、という文字が頭をちらつく。

 ダメだ。考えるな。私はまだ出来る。そうやって今まで、しがみついて来たんでしょ?


 出ないと思っていた涙が、次から次へと落ちてくる。


「あ、ママ、あのおばちゃん、泣いてるよ」


「こら、しーっ、近付かないの! 行くよ、ほら」


 手を引っ張られ、男の子が離れて行く。

 恥ずかしい。そっとしておいてくれれば良いのに。あの母親も、もっと言い方があるだろうに。


 惨めだ。


「あの、すみません」


「えっ? あ、す、すみません」


 誰? どうして放っておいてくれないのだろう。知っている相手だろうか。顔を見たいが、視界が滲んでよく見えない。


「これ、どうぞ」


 ハンカチを渡された。紺色のタオルハンカチ。


「あ、ありがとうございます」


 眼鏡を取り、目元を押さえる。やっと視界は良好になった。……誰だろう。見覚えはない。


「あの……これ、洗って返します」


「いえ、私に譲ってください」


「……え?」


 譲る?


「副島弥枝さん、ですよね。私、実は大ファンで……」


「えっ?」


 ふ、ファン? 誰の? 私の?

 さっきから驚かされてばっかりだ。


「あの透き通るような声と言い、その素敵なお顔と言い……大好きなんです。ですから、お会い出来たことが夢みたいで、きっと後から夢だと思ってしまうから、このハンカチを証拠に」


 照れたように笑う彼女は、私が涙を拭いたそのハンカチを、きゅっと握りしめた。


「すみません、こんなの、気持ち悪いですよね」


「い、いえいえ、そんな……ありがとうございます。ひとりでもそう言ってくださる方がいらっしゃるなんて……」


「あの、無理はなさらないでください。って、私のせいですよね。すみません。もう降りますんで」


「待って」


「……え?」


 驚いたように私を見る彼女。


「あ、すみません……何でもないんです」


「……私に出来ることがあるのなら、あ、おこがましいですけど……話を聞くくらいなら、喜んで……」


 目の前におずおずと差し出された手は、まさに私が追い求めるそれで、


「よろしく、お願い、します」


 私はゆっくりと、しかし確実に、彼女の手を取った。


◇◇◇


 「そうそう、それでさぁ、だって音大なんかほとんど男いないし、私みたいな人間、相手にもされないし」


「それは男性の見る目がないんですよ」


「そう思う? ありがとーそう言ってくれるのはゆうちゃんだけよー」


 人のぬくもり、暖かさ。久しぶりだ。ガヤガヤとした居酒屋の喧騒が、私の愚痴を隠してくれる。

 私はひとりじゃない。


 見れば、ゆうちゃんのコップに入ったオレンジジュースがほとんどなくなっている。


「ほらほら飲んで飲んでー!」


 コップにオレンジジュースをなみなみ補充する。


「わぁぁあ~ありがとう~! 弥枝ちゃんも飲んで飲んで~」


「いぇーいありがとーかんぱーい!」


「乾杯ー」


 カンッ、と響く音は安物のコップのそれだけど、気持ちは今までにないくらいに満ち満ちていた。


「……ねぇ、恋で人って変わると思う?」


「どうしたの急に?」


「私の歌に、感情がないんだって。愛がないんだって。……どうしたら良いか分かんなくて」


「そんな……」


 ゆうちゃんの視線が、みるみるうちに下がっていく。


「でも、大丈夫」


 バッと顔を上げた彼女は、窺うように私を見る。

 心配してくれているのだろうか。


「ゆうちゃんのおかげで、まだ頑張れる」


「本当に?」


「うん。ありがとう」


 深々と頭を下げる。

 私があのままひとりでいたら、生きていなかったかも知れない。


「そ、そんな……私はただ……」


「ねぇ、お願いがあるの」


「……お願い?」


 ゆうちゃんの悩みを聞かせて。


 そんなこと、言って良いのだろうか。

 どんなに親密そうに話していても、所詮今日知り合ったばかりの人間。


「……どうしたの?」


 心配そうに顔を覗き込まれる。


「あ、えっと……その、出来たらで良いんだけど……ゆうちゃんの悩みも、聞かせてくれないかなって……」


 つい、語尾が逃げてしまう。

 あつかましいと思われた? 嫌われた?


「…………」


 無言の空間がつらい。

 突き放すなら早くして。


「……母に病気が見つかったの」


「え?」


「たったこの間、母が病気で倒れて……」


「そ、そうなの? 治るって?」


「大きな手術が必要らしいんだけど……よく分かんなくて……お金もないし……」


「そんな……」


 彼女の瞳が濡れているように見えるのは、気のせいではないだろう。


「ゆうちゃん、私に考えがある」


 私は十分過ぎるくらい彼女に助けられた。

 次は私が助ける番だ。少しでも力になれたら、なんて悠長なことは言ってられない。


「ゆうちゃん。私に任せて。絶対、助けるから」


 彼女の手をしっかりと握った。


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