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後編 あの日の約束と、待ち続けた女の子

 週末の土曜日。


 アルバイトを終えた俺は、大学の最寄り駅にある時計台の前で、一人の女の子を待っていた。


 時刻は午後四時を少し回ったところ。駅前の広場には買い物帰りの家族連れや待ち合わせをするカップルの姿があり、休日らしい賑わいを見せていた。


 今日は詩織と映画を見に行く約束をしている。


 先日、大学の部室棟の裏で再会した彼女から誘われたのだ。何でも、前から見たかった映画があるらしく、一緒に付き合ってほしいとのことだった。


 正直なところ、少し迷った。


 恵美と別れたばかりだというのに、別の女の子と二人きりで出かけるのはどうなのだろう。それも、詩織は俺に対して少なからず好意を抱いてくれているらしい。


 しかし、彼女には小学生の頃の借りもあるし、何より今の俺にとって、誰かと一緒に過ごせる時間はありがたかった。


 そんなわけで、こうして待ち合わせ場所までやって来たのだが。


「……遅いな」


 腕時計を確認する。もっとも、約束の時間まではまだ十分ほどあるので、遅いというのは俺の方が早く来すぎただけなのだが。


 ぼんやりと改札口を眺めていると、見覚えのある女の子が人混みの向こうから小走りで近づいてきた。


「圭吾先輩!」


「おう、詩織」


「すみません、お待たせしました!」


「いや、俺が早く来ただけだから。サークル、お疲れさん」


「ありがとうございます。先輩もアルバイトお疲れ様です!」


 詩織は嬉しそうに笑った。


 今日の彼女は、白いブラウスに紺色のジーンズという飾らない服装だった。頭には小さなベレー帽を被り、肩からは茶色いショルダーバッグを提げている。


 大学で見かけるときとは少し違った雰囲気だが、気取ったところがなく、いかにも彼女らしい格好だと思った。


「どうですか? 今日の私」


「うん、似合ってると思うよ」


「えへへ。ありがとうございます」


 詩織は照れくさそうに帽子の縁を触った。


 その仕草を見て、俺はふと恵美のことを思い出した。


 恵美は服や化粧品にこだわりが強く、デートのたびに新しい服を着ていた。俺にはよく分からないブランドのバッグやアクセサリーも好きで、一緒に買い物へ行くと、決まって何かを欲しがったものだ。


 それに比べると、詩織はずいぶんと違う。


 もちろん、どちらがいいという話ではないのだが。


「……先輩?」


「ん?」


「今、別の女の人のこと考えてませんでした?」


「えっ」


 思わず声が裏返った。


 詩織は頬を膨らませると、俺の顔を覗き込んできた。


「やっぱり」


「いや、その……」


「今日は私だけ見て下さい」


 そう言った詩織の頬が、ほんのりと赤く染まる。


 自分で言っておいて恥ずかしくなったらしく、彼女は慌てて視線を逸らした。


「……せっかく二人でお出かけするんですから」


「ああ。そうだな、ごめん」


「分かってくれたならいいです」


 詩織は満足そうに頷いた。


 そんな彼女の様子が何だか可笑しくて、俺は久しぶりに自然な笑みを浮かべていた。


 映画館は駅から歩いて十分ほどの場所にある、大型ショッピングモールの中に入っている。


 並んで歩きながら他愛もない話をしていると、ふと気になることがあった。


「なあ、詩織」


「はい?」


「俺なんかと一緒にいるところ、サークルの仲間に見られたら気まずくならないか?」


「どうしてですか?」


「いや、恵美と同じサークルだろ? この前のこともあるし、変な噂が立ったら困るんじゃないかと思って」


 俺がそう言うと、詩織は不思議そうに首を傾げた。


「別に困りませんよ」


「そうなの?」


「はい。だって私、元カノさんがいるからあのサークルに入っただけですし。他の人達には興味ありませんから」


「……え?」


 思わず足を止めそうになった。


「恵美がいるから入ったって、どういうこと?」


「そのままの意味ですよ」


 詩織は悪びれる様子もなく答えた。


「先輩の彼女さんがどんな人なのか、気になったんです」


「……それで、わざわざ同じサークルに?」


「はい!」


 随分と思い切ったことをするものだ。


 もっとも、小学生の頃から詩織は一度決めたことには一生懸命な女の子だった。シュートが入るまで何度も練習を繰り返し、俺が帰ろうとしても、あと一回だけと引き止めてきたことを覚えている。


 その一途さは、昔から変わっていないのかもしれない。


「……そっか」


「はい。だから、変な心配しなくて大丈夫ですよ」


 詩織はそう言って笑うと、俺の隣に並んで歩き始めた。


 その横顔を見ながら、俺は少しだけ胸が温かくなるのを感じていた。


 *


 映画館に到着した俺達は、チケットを購入して上映時間までロビーで待つことにした。


 今日見るのは、ある子犬と飼い主の交流を追ったドキュメンタリー映画だった。


 正直、俺は動物の映画をあまり見たことがない。


 だが、詩織がどうしても見たいと言うので、特に異論はなかった。


「先輩、犬は好きですか?」


「好きだよ。飼ったことはないけど」


「私もです! いつか飼ってみたいんですよね」


「どんな犬がいいの?」


「うーん……大きい犬も可愛いですけど、小さい犬も捨てがたいですね」


「結局どっちも好きなんだな」


「あはは、そうですね」


 そんな会話をしているうちに上映時間となり、俺達は劇場へ入った。


 映画は、田舎町で暮らす一匹の子犬と、その飼い主である老人の物語だった。


 老人に拾われた子犬は、毎日彼と一緒に散歩をし、食事をし、穏やかな日々を過ごしていた。


 やがて老人は病気で入院することになり、子犬は家族に預けられる。


 しかし、子犬にはそんな事情など分からない。


 いつも老人が帰ってくる時間になると、玄関の前に座って待ち続けるのだ。


 今日も、明日も、その次の日も。


 雨の日も、風の強い日も、子犬は同じ場所で飼い主の帰りを待っていた。


 映画の中で季節が移り変わっていく。


 玄関先に積もった雪の中で、子犬がじっと道路の向こうを見つめている場面があった。


 俺も思わず胸が締めつけられた。


 そのとき、隣から小さな音が聞こえてきた。


「……ぐすっ」


 横を見ると、詩織が泣いていた。


 目を真っ赤にし、唇をきゅっと結びながら、必死に涙を堪えている。


 だが、スクリーンの中で子犬が飼い主を待ち続けるたびに、彼女の目からは新しい涙が零れ落ちた。


「……ぐすっ、ひっく……」


 俺はポケットからティッシュを取り出し、そっと差し出した。


 詩織は驚いたようにこちらを向いた後、恥ずかしそうに受け取った。


「ぐずっ……どうもです……」


 消え入りそうな声だった。


 その顔があまりにも真剣で、少し可笑しくなってしまったが、もちろん笑ったりはしなかった。


 詩織はティッシュで目元を押さえると、再びスクリーンへ視線を戻した。


 映画が終わるまで、彼女は何度も鼻を啜っていた。


 俺はそんな彼女の横顔を見ながら、ふと考えた。


 もし、詩織の話が本当なら。


 彼女もまた、何年もの間、俺のことを待っていてくれたのだろうか。


 小学校を卒業してから、もう随分と長い時間が経っている。


 その間、俺は詩織のことをほとんど思い出さなかった。


 中学、高校、そして大学。


 新しい友人ができ、恋人ができ、毎日を楽しく過ごしてきた。


 その一方で、詩織は俺のことを覚えていてくれた。


 綺麗になったと思ってほしくて努力し、同じ大学で再会した後も、俺に恋人がいると知って身を引いていた。


 そう考えると、何とも言えない気持ちになった。


 嬉しくないわけがない。


 こんなに可愛い女の子が、長い間自分を想ってくれていたのだ。


 けれど、俺はまだ恵美との失恋から立ち直れていない。


 今でもふとした瞬間に彼女のことを思い出すし、あの男と一緒に笑っていた光景が頭から離れなくなることもある。


 そんな状態で、詩織の好意を受け止めていいのだろうか。


 寂しさを埋めるためだけに彼女と付き合うようなことは、絶対にしたくなかった。


 もし詩織が本当に俺を待っていてくれたのなら、なおさらだ。


 俺は再びスクリーンへ視線を戻した。


 画面の中では、子犬が今日も変わらず飼い主の帰りを待っていた。


 *


 上映が終わり、劇場を出た頃には、詩織の目はすっかり真っ赤になっていた。


「……うぅ、いい映画でしたね」


「そうだな。俺も結構感動したよ」


「最後のところなんて、もう……」


 詩織はそこで言葉を詰まらせ、再び鼻を啜った。


「おいおい、また泣くのか?」


「だ、だってぇ……」


 俺は苦笑しながら、残っていたティッシュを差し出した。


「ほら、使いなよ」


「……ありがとうございます」


 詩織は照れくさそうに受け取った。


 その姿を見た瞬間、懐かしい記憶が蘇った。


 小学校の体育館。


 練習が終わった後、体育館の隅で膝を抱えて泣いていた小さな女の子。


『どうしたんだよ、詩織』


『……なんでもない』


『なんでもないなら泣くなよ。ほら、シュートの練習しようぜ』


 あの頃の俺は、詩織の家庭の事情なんて何も知らなかった。


 ただ、泣いている女の子を放っておけなくて、少しでも気分転換になればと思ってバスケットボールに誘っていた。


 練習が終わる頃には、彼女はいつも笑っていた。


 だから、それでいいのだと思っていた。


 今になって、ようやく分かった気がする。


 あのときの詩織は、こんな気持ちだったのだろうか。


 何も聞かず、ただ隣にいてくれる誰かがいる。


 落ち込んでいるときに、笑わせようとしてくれる人がいる。


 それだけで、こんなにも救われるものなのか。


「……先輩?」


「ん?」


「どうかしました?」


「いや、何でもないよ」


 俺は笑って首を振った。


「今日は誘ってくれてありがとうな」


「えっ?」


「楽しかったよ。久しぶりに」


 詩織は一瞬驚いたように目を見開いた。


 そして、嬉しそうに笑った。


「……私もです!」


 その笑顔を見て、俺はもう一度、心の中で礼を言った。


 *


 映画館を出たところで、スタッフからクレーンゲームの無料チケットを貰った。


 同じショッピングモール内にあるゲームセンターで使えるらしい。


「せっかくだし、寄っていくか?」


「いいんですか?」


「もちろん。まだ時間もあるし」


「やった!」


 詩織は嬉しそうに両手を合わせた。


 だが、すぐに何かを思い出したように頬へ手を当てた。


「あっ、その前にちょっとお化粧直してきてもいいですか?」


「ああ、いいよ」


「すぐ戻ってきますね!」


 そう言って、詩織は化粧室へと小走りで向かっていった。


 俺は近くのベンチに腰を下ろし、スマートフォンを眺めながら彼女を待つことにした。


 ところが、しばらくして。


「……あれ? 圭吾じゃん」


 聞き覚えのある声がした。


 顔を上げた瞬間、心臓が嫌な音を立てた。


 そこにいたのは恵美だった。


 隣には、あの日の赤いスポーツカーに乗っていた男がいる。


「……恵美」


「何してんの、こんなところで」


 恵美は俺の顔を見るなり、露骨に眉をひそめた。


 すると、隣の男が俺に気づき、にやりと笑った。


「おっ、圭吾くんじゃん! 久しぶり!」


 男は馴れ馴れしく肩を叩いてきた。


「何だよ、一人で買い物か? 寂しいねえ!」


「……別に」


「ははっ! まだ恵美のこと引きずってんの?」


 男は大げさに笑った。


「お前もいい加減諦めろよ。恵美はもう俺の女なんだからさ」


「ちょっと、やめなよ」


 恵美はそう言いながらも、口元には薄い笑みを浮かべていた。


「圭吾って昔からそういうところあるんだよね。一度好きになったら、いつまでもしつこくて」


「へえ、そうなんだ?」


「そうそう。別れた後も何度もLINEしてくるし、大学まで追いかけてくるし。本当に困っちゃった」


 男は俺を見下ろしながら、愉快そうに笑った。


「いやあ、モテない男は大変だな!」


 胸の奥が冷たくなった。


 もう終わったことだ。


 恵美とは別れた。


 何を言われても、今さら関係ない。


 そう自分に言い聞かせても、二人の笑い声を聞くたびに、あの日の記憶が蘇ってくる。


 赤いスポーツカー。


 見せつけるようなキス。


 俺を馬鹿にして笑っていた二人。


 せっかく詩織のおかげで楽しい一日を過ごせたのに、また同じ気持ちに引き戻されてしまった。


「……もういいだろ。俺、待ち合わせしてるから」


「待ち合わせ?」


 恵美が怪訝そうな顔をした。


「誰と?」


「別に、誰でもいいだろ」


「ふーん。どうせ男友達でしょ?」


 そのときだった。


「先輩、お待たせしました!」


 背後から明るい声が響いた。


 振り返ると、化粧を直した詩織がこちらへ歩いてくるところだった。


「あれ? 恵美先輩?」


 詩織は二人の姿を見て、足を止めた。


「……詩織ちゃん?」


 恵美も驚いたように目を丸くした。


 そして、その隣で男がぽかんと口を開けていた。


 先ほどまでの下卑た笑みは消え、詩織の顔を食い入るように見つめている。


「……え、何? この子」


「同じサークルの後輩だけど」


「マジで? めちゃくちゃ可愛いじゃん」


 男は急に姿勢を正すと、詩織に向かって愛想のいい笑みを浮かべた。


「初めまして! 俺、恵美の彼氏なんだけど。君、詩織ちゃんっていうの?」


「……はい」


「へえ! いやあ、こんな可愛い子がいるなんて聞いてなかったわ!」


 男は俺の方をちらりと見た。


「なあ、せっかくだし四人で遊ばねえ? この後、暇でしょ?」


 あまりにも露骨な態度の変化だった。


 ついさっきまで俺を馬鹿にしていた男が、今度は詩織に気に入られようと必死になっている。


 その様子を見て、恵美の表情が険しくなった。


「……ちょっと、何言ってんの?」


「え? いや、せっかくだしさ」


「私とデートしてるんでしょ?」


「だから、四人で遊べばいいじゃん」


 男は悪びれる様子もなく答えた。


 恵美は唇を噛み、今度は俺を睨みつけた。


「……圭吾、あんた何考えてんの?」


「は?」


「別れたばっかりなのに、もう詩織ちゃんに手を出してるわけ?」


「いや、別にそういう……」


「最低。ほんと軽薄な男だったんだね」


 恵美は吐き捨てるように言った。


「詩織ちゃんも、こんな男に騙されちゃ駄目だよ。こいつ、優しそうに見えるけど、実際はしつこくて面倒くさい男だから」


「……恵美」


「だいたい、あんたと詩織ちゃんじゃ釣り合ってないでしょ。自分のこと少しは客観的に見たら?」


 俺は何も言わなかった。


 今さら恵美と口論をするつもりはない。


 何を言ったところで、どうせまた馬鹿にされるだけだ。


「……行こう、詩織」


 そう言って彼女の方を向いた。


 だが、詩織は動かなかった。


 彼女は恵美をじっと見つめていた。


 先ほどまでの柔らかな笑顔は消えている。


「……恵美さん」


「何?」


「恵美さんの方が、先輩と釣り合ってないですよ」


 静かな声だった。


 だが、その場にいた全員が聞き取れるほど、はっきりとした口調だった。


「……は?」


 恵美が目を見開いた。


 詩織は構わず続けた。


「私、先輩の彼女がどんな人なのかと思って、わざわざ同じサークルに入ったんです」


「……何それ」


「でも、がっかりしました」


 詩織は真っ直ぐに恵美を見つめた。


「人の上っ面しか見ないで、いないところでは陰口ばっかり。自分が気に入らない人のことは平気で悪く言うし、先輩がどれだけ優しい人なのかも全然分かってない」


「ちょっと、詩織ちゃん……」


「碌でもない人だと思いました」


 恵美の顔が真っ赤になった。


「……あんた、何様のつもり?」


「ただの後輩ですよ」


 詩織は平然と答えた。


「でも、先輩が可哀想なので、金輪際近づかないでください」


 俺は呆然としていた。


 詩織がこんなにはっきりと誰かを非難するところを、初めて見た。


 小学生の頃も、彼女は大人しくて優しい女の子だった。


 それが今、俺のために怒ってくれている。


「……おいおい、まあまあ」


 そこで男が割って入った。


「女同士でそんな喧嘩すんなって。なあ、詩織ちゃん?」


 男は馴れ馴れしく笑いながら、詩織に近づいた。


「恵美もちょっと言いすぎたんだよ。悪かったな。せっかくだし、俺達と一緒に遊ぼうぜ?」


「結構です」


 詩織は即答した。


「え?」


「恵美さんにお似合いの彼氏さんですね」


 男の笑顔が引きつった。


「……は?」


「人を馬鹿にして笑っていたかと思えば、女の子を見た途端に態度を変えるんですもん。お二人、本当にお似合いだと思います」


「……お前、何だその言い方」


 男の声が低くなった。


 詩織は少しも怯まなかった。


「言葉どおりの意味ですけど?」


「調子乗ってんじゃねえぞ!」


 男が一歩踏み出した。


 その瞬間、俺は詩織の前に立っていた。


「……おい」


 男が足を止める。


「何だよ、圭吾くん。お前には関係ねえだろ」


「関係あるよ」


 俺は男を睨みつけた。


「俺の連れに何か用か?」


「は? お前、誰に口きいてんだ?」


 男が顔を歪めた。


 俺は一歩も引かなかった。


 怖くないわけではない。


 相手は俺よりも一回り大きく、喧嘩になれば勝てる自信などなかった。


 だが、詩織を置いて逃げるという選択肢だけはなかった。


「……女に振られたぐらいでギャーギャー騒ぐな、だったよな」


「……あ?」


「あの日、俺にそう言ったよな」


 男の顔から表情が消えた。


「自分が女に相手にされなかったら、今度は怒鳴り散らすのか?」


「てめえ……!」


「みっともないから、やめとけよ」


 俺はそう言い切った。


 男は拳を握りしめたが、周囲の視線に気づいたのか、それ以上近づいてくることはなかった。


 いつの間にか、近くを通りかかった買い物客たちがこちらを見ていた。


「……行こう、詩織」


 俺は彼女に声をかけた。


「はい!」


 詩織は嬉しそうに返事をした。


 そして、俺の隣に並ぶと、小さな声で囁いた。


「……先輩、カッコいいです」


「茶化すなよ」


「えへへ。本当のことですよ」


「ほら、行こう」


 俺達は呆然と立ち尽くす二人を残し、その場を後にした。


 *


 その後、俺達は予定どおりゲームセンターで遊んだ。


 もっとも、さっきの出来事があったせいで、最初は少し気まずかった。


 だが、詩織がクレーンゲームに挑戦して見事に失敗し、悔しそうに唇を尖らせる姿を見ているうちに、俺も自然と笑えるようになっていた。


「むぅ……あとちょっとだったのに」


「惜しかったな」


「先輩、取ってください!」


「えっ、俺?」


「はい! お願いします!」


 そう言われて挑戦してみたものの、俺もあえなく失敗した。


「あはは! 先輩も下手ですね!」


「お前なぁ……」


 結局、無料チケットを使い切った後も何度か挑戦したが、景品を取ることはできなかった。


 それでも詩織は楽しそうだった。


 俺も、そんな彼女と一緒にいる時間が心地よかった。


 気がつけば、ショッピングモールの外はすっかり暗くなっていた。


 夕食は駅前のファミリーレストランで食べることにした。


 窓際の席に向かい合って座り、俺はハンバーグ定食を、詩織はオムライスを注文した。


 食事の間も詩織は楽しそうに映画の感想を話していたが、やがて一段落したところで、俺はずっと気になっていたことを口にした。


「……なあ、詩織」


「はい?」


「さっきは、ありがとうな」


 詩織はスプーンを持ったまま首を傾げた。


「何がですか?」


「恵美に言い返してくれたこと」


「ああ……」


 詩織は少しだけ目を伏せた。


「……余計なことしちゃいました?」


「いや、そんなことないよ」


 俺は首を振った。


「正直、嬉しかった」


 詩織が顔を上げる。


「俺、あの二人に何を言われても、もう言い返す気力がなかったんだ。自分でも情けないと思うけど、また馬鹿にされるのが怖かったんだと思う」


「……先輩」


「でも、詩織が怒ってくれて、何か救われた気がした」


 俺は少し照れくさくなりながら笑った。


「だから、ありがとう」


 詩織はしばらく俺の顔を見つめていた。


 そして、頬を赤く染めながら、小さく首を横に振った。


「……こちらこそ、ありがとうございます」


「え?」


「先輩、私のこと守ってくれたじゃないですか」


「ああ……まあ、あれは」


「嬉しかったです」


 詩織はそう言って微笑んだ。


「昔からそうでしたよね。先輩って、自分のことには無頓着なのに、誰かが困っていると放っておけないんです」


「……そうかな」


「そうですよ」


 彼女は小さく頷いた。


「だから、私……ずっと好きだったんです」


 心臓が大きく跳ねた。


 詩織はスプーンを置き、真っ直ぐに俺を見つめた。


「圭吾先輩。私、先輩のことが好きです」


「……詩織」


「小学校の頃から、ずっと」


 彼女の声は、少しだけ震えていた。


 それでも、その瞳は俺から逸らされることがなかった。


「大学で再会できたとき、本当に嬉しかったんです。でも、先輩には彼女さんがいたから……私、どうしたらいいのか分からなくて」


「……うん」


「だから、ずっと待ってました」


 詩織は恥ずかしそうに笑った。


「いつかまた、先輩と一緒にいられる日が来たらいいなって」


 俺は何も言えなかった。


 映画の中で、飼い主の帰りを待ち続けていた子犬の姿が脳裏に浮かんだ。


 何年もの間、俺のことを想い続けてくれた女の子。


 そんな彼女が今、目の前で俺に好きだと言ってくれている。


 嬉しかった。


 胸の奥がじんわりと温かくなるほど、嬉しかった。


 けれど、同時に迷いもあった。


 俺はまだ恵美との失恋を引きずっている。


 そんな状態で、詩織の気持ちに応えていいのだろうか。


 寂しさを埋めるために彼女を利用するようなことだけは、絶対にしたくなかった。


「……あのさ、詩織」


 俺が口を開こうとすると、彼女は突然にっこりと笑った。


「先輩」


「ん?」


「私、今日遅くなるって言ってるんで」


「……え?」


 詩織は少しだけ身を乗り出した。


 その頬は、まだ赤いままだった。


「この後、練習付き合ってくれませんか?」


 俺は目を瞬いた。


 練習。


 その言葉に、懐かしい記憶が蘇る。


 夕暮れの体育館。


 誰もいなくなったコート。


 バスケットボールを抱え、俺を見上げていた小さな女の子。


『けーちゃん先輩! 今日も練習付き合ってくれる?』


 あの頃、俺はいつも同じように答えていた。


『しょうがないな。あとちょっとだけだぞ』


 目の前の詩織が、あのときと同じように笑っている。


 俺は思わず苦笑した。


「……しょうがないな」


 詩織の瞳が輝いた。


「あとちょっとだけだぞ」


「はいっ!」


 彼女は満面の笑みを浮かべた。


 その笑顔を見ながら、俺は思った。


 今度は俺が、この子に救われる番なのかもしれない。


 ――いや。


 きっと、もうとっくに救われているのだろう。


 窓の外では、冬の夜の街に色とりどりの明かりが灯っていた。


 俺達の夜は、まだ始まったばかりだった。


 完

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― 新着の感想 ―
子どものころは圭吾が買ってくれた温かい飲み物を、再会した今度は詩織が渡すところがよかったです。最後の「練習」への誘いにも、二人らしい距離感を感じました。
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