前編 失恋した俺と、忘れていた後輩
正月休みも終わりに差しかかった一月の夕暮れ。初詣の参拝客で賑わう神社の境内で、俺は三年間付き合ってきた彼女から突然別れを切り出された。
「ねえ、圭吾。私達、もう会わない方がいいのかもしれないね」
「……え?」
あまりにも唐突な言葉に、俺は思わず聞き返してしまった。
彼女の名前は恵美。同じ大学に通う三年生で、俺が大学に入学する少し前から付き合っている恋人だ。
今日は二人で初詣に来ていた。参拝を済ませた後は屋台を回り、駅前のショッピングモールで買い物を楽しんだ。恵美が欲しがっていたブランド物の財布とブーツをプレゼントしたところ、彼女はとても喜んでくれた。
少なくとも、俺はそう思っていた。
「……どういうこと?」
「だから、もう別れようってこと」
「いや、待ってくれよ。いきなりそんなこと言われても……俺、何かした?」
恵美は困ったように眉を寄せると、俺から視線を逸らした。
「別に圭吾が悪いってわけじゃないんだけどさ。なんていうか、もう違うかなって」
「違うって、何が?」
「そういうところだよ。いちいち説明しなきゃ分かんない?」
吐き捨てるような口調だった。
ついさっきまで隣を歩いていた恋人が、まるで知らない人間になってしまったような気がした。
「ちょっと待ってくれ。俺達、三年も付き合ってきたんだぞ? そんな簡単に終わりにできるわけないだろ」
「だから、そういうのが重いんだって」
「重いって……」
そのときだった。
パァァァン!!
背後から、けたたましいクラクションが鳴り響いた。
驚いて振り返ると、道路脇に一台の赤いスポーツカーが停まっていた。運転席には茶髪で体格のいい男が座っており、開け放たれた窓からこちらを見ている。
「おーい、恵美! 終わった?」
「あっ、うん! 今行く!」
恵美は男に向かって嬉しそうに手を振った。
俺が呆然としている間に、彼女は小走りでスポーツカーへ向かっていく。
「お、おい! 恵美!」
呼び止めると、恵美は助手席のドアに手をかけたまま振り返った。
「……どういうことなんだよ?」
俺の問いかけに、彼女は小さくため息をついた。
「こういう事。いちいち説明しなくても分かるよね?」
「は? いや、ちょっと待ってくれよ。そいつは誰なんだ?」
すると、運転席の男が大げさに笑い声を上げた。
「ははっ! おいおい、マジかよ。まだ分かってねえの?」
男は窓から身を乗り出し、俺を値踏みするように眺めた。
「お前が圭吾くん? へえ、恵美から聞いてたけど、思ってた以上に冴えねえな」
「……あんた、誰だよ」
「俺? 恵美の彼氏だけど?」
男は悪びれる様子もなく答えると、隣に乗り込んだ恵美の肩を抱き寄せた。
「なあ、恵美。こいつが例の貢いでくれる元カレ?」
「ちょっと、やめてよ。本人の前で」
恵美は男の胸を軽く叩いたが、その顔には笑みが浮かんでいた。
「いやいや、だってすげえじゃん。今日もなんか買ってもらったんだろ?」
「うん。財布とブーツ」
「マジで? 別れる日にプレゼント買ってもらうとか、お前もなかなかやるなぁ!」
二人が笑った。
俺はその場から動けなかった。
頭の中が真っ白になり、何を言われているのか理解するまでに時間がかかった。
「……恵美」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていた。
「いつからなんだよ。その男とは、いつから……」
「もういいじゃん、そんなこと」
「よくないだろ! 俺達、三年間も……!」
「うるせえなぁ」
男が俺の言葉を遮った。
「女に振られたくらいでギャーギャー騒ぐなよ。そういう余裕のねえところが嫌われたんじゃねえの?」
男は恵美の頬に顔を寄せると、わざと見せつけるようにキスをした。
恵美は嫌がるどころか、嬉しそうに笑っている。
「じゃあな、圭吾くん。恵美のことは俺に任せとけよ。ああ、そうだ。プレゼントありがとな!」
再び笑い声が上がった。
やがてスポーツカーは低いエンジン音を響かせながら走り出し、夕暮れの街へと消えていった。
俺はその場から動けなかった。
周囲では家族連れやカップルが楽しそうに行き交い、屋台からは焼きそばの香ばしい匂いが漂ってくる。
つい数分前まで、俺もその幸せな人間の一人だったはずなのに。
「……なんだよ、それ」
ようやく口から出たのは、そんな情けない言葉だけだった。
思い返せば、予兆はあった。
ここ半年ほど、恵美とはなかなか予定が合わなくなっていた。
以前は週に何度も会っていたのに、最近は月に二、三回会えればいい方だった。久しぶりにデートをしても、夕食前になると用事があると言って帰ってしまう。
LINEの返信も遅くなった。
それでも俺は、大学の課題や就職活動の準備で忙しいのだろうと思っていた。
最近は会うたびに何かを欲しがるようになっていたが、それも気にしていなかった。好きな女の子が喜んでくれるなら、多少の無理くらいどうということはない。
今日プレゼントした財布とブーツは、合わせて九万円ほどした。
大学生の俺にとっては決して安い買い物ではない。それでも恵美が嬉しそうにしてくれたから、買ってよかったと思っていた。
去年のクリスマスには、交際三周年のお祝いとして腕時計を贈った。
アルバイト三か月分の給料を注ぎ込んだ、俺にとっては精一杯の贈り物だった。
これからお互い就職活動が始まれば、今までのように会うことも難しくなる。だからせめて、俺の愛情を形にして伝えたかった。
恵美も喜んでくれた。
笑顔でありがとうと言って、俺に抱きついてくれた。
あれも全部、嘘だったのだろうか。
あのとき、恵美はもう別の男と付き合っていたのだろうか。
俺が必死にアルバイトをしている間、彼女はあの男とデートをしていたのだろうか。
そんな考えが浮かぶたびに、胸の奥が締めつけられた。
冷たい風が頬を撫でる。
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、恵美とのトーク画面を開いた。
『さっきの話、ちゃんと聞かせてほしい』
送信。
しばらく待ってみたが、既読はつかなかった。
『電話できないかな?』
もう一度送ってみる。
やはり既読はつかない。
それから何度かメッセージを送ったものの、結局その日のうちに返信が来ることはなかった。
もしかすると、ブロックされているのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
その夜、俺は一睡もできなかった。
ベッドに横になって目を閉じるたび、赤いスポーツカーに乗り込む恵美の姿が浮かんでくる。
あの男は誰なんだろう。
いつから付き合っていたんだろう。
昨日の夜も、二人で一緒にいたのだろうか。
あの男に抱き寄せられて、嬉しそうに笑っていた恵美。
俺が何度もキスをした唇に、あの男が触れていた。
その光景を思い出すだけで胃の奥から吐き気が込み上げ、何度も洗面所へ駆け込んだ。
吐こうとしても何も出てこない。洗面台に両手をつき、荒い息を繰り返しながら、鏡に映った自分の顔を見つめた。
ひどい顔だった。
目は充血し、頬からは血の気が失せている。
三年間。
三年間、俺は何をしていたんだろう。
恵美のことが好きだった。
それだけは間違いない。
彼女の笑顔が見たくて、喜んでほしくて、俺なりに精一杯頑張ってきた。
でも、恵美にとって俺は何だったのだろう。
あの男が言った言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
『例の貢いでくれる元カレ?』
もしかすると、恵美はあの男に俺のことを笑い話として聞かせていたのかもしれない。
自分がどれだけ馬鹿にされていたのか、考えるのも恐ろしかった。
窓の外が白み始めても、俺は眠ることができなかった。
*
翌日。
ほとんど眠れないまま大学へ向かった俺は、昼休みに学生食堂へ足を運んだ。
恵美に会って話をしたかった。
別れるにしても、せめてきちんと理由を聞きたい。三年間付き合ってきたのだから、それくらいは許されるはずだ。
昼時の食堂は大勢の学生で賑わっていた。食器の触れ合う音や学生たちの話し声が入り混じり、あちこちから楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
そんな中、窓際のテーブルに恵美の姿を見つけた。
同じサークルの女子学生たちと一緒に食事をしている。四人掛けのテーブルには恵美のほかに三人の女の子が座っていた。
そのうちの一人が、俺の方を向いた。
肩まで伸びた綺麗な髪に、大きな瞳。確か去年の秋頃からサークルに入ってきた一年生だ。
依田詩織。
恵美から何度か名前を聞いたことがある。
俺と目が合うと、彼女は一瞬驚いたように目を見開いた。
そして何か言いかけたように唇を動かしたが、結局何も言わず、俺と恵美の顔を交互に見た。
「恵美」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。
一瞬だけ嫌そうな表情を浮かべたものの、すぐに何事もなかったように笑顔を作った。
「あれ、圭吾じゃん。どうしたの?」
「どうしたのって……昨日の話なんだけど」
すると、隣に座っていた女子学生が不思議そうに尋ねた。
「恵美、この人誰?」
「ああ、元カレ」
あまりにもあっさりとした返答だった。
「元カレ?」
「そう。昨日別れたんだけどさ、なんか納得してくれなくて」
「おい、恵美。そんな言い方……」
「昨日からずっとLINE送ってくるし、正直ちょっと怖いんだよね」
恵美はわざとらしく肩をすくめた。
「別れたのに大学まで追いかけてくるなんて、もうストーカーじゃん。ほんと勘弁してほしいんだけど」
「……は?」
耳を疑った。
ストーカー?
俺が?
「ちょっと待ってくれよ。昨日まで付き合ってたんだぞ? 俺はただ、ちゃんと話を……」
「ほら、またそうやってしつこくする」
恵美は隣の女子学生に顔を向けた。
「ね? こういうところが嫌だったんだよね」
「うわぁ……それはちょっと」
「圭吾さん、もう別れたんですよね? だったら恵美も困ってるみたいだし……」
女子学生たちの視線が冷たくなる。
そのとき、カタン、と小さな音がした。
詩織が箸を置いた音だった。
彼女は恵美を見つめていた。
「……恵美先輩」
「ん? 何、詩織ちゃん」
「昨日、別れたんですよね?」
「そうだけど?」
「……そうですか」
詩織はそれ以上何も言わなかった。
ただ、その表情からは、さっきまで浮かんでいた笑顔が消えていた。
恵美はそんな彼女の様子を気にすることもなく、再び俺に向き直った。
「もういいでしょ? 私、友達とご飯食べてるんだけど」
俺は必死に言葉を探した。
違う。
そうじゃない。
俺は恵美を困らせたかったわけじゃない。
ただ、どうして三年間も付き合ってきた恋人が、突然別の男の車に乗って去っていったのか、その理由を知りたかっただけなのだ。
けれど、何を言っても言い訳にしかならない気がした。
恵美は困ったような顔をして俯いている。
その表情を見て、周囲の女子学生たちはますます俺を警戒するようになった。
ただ一人、詩織だけは違っていた。
彼女は俺の顔をじっと見つめていた。
何かを言いたそうにしている。
けれど、そのときの俺には、そんなことを気にする余裕すらなかった。
「……分かったよ」
それ以上、何も言えなかった。
俺は踵を返し、逃げるように食堂を後にした。
背後から聞こえてきた笑い声が、自分に向けられたものなのかどうかさえ分からなかった。
ただ、あの場所に一秒でも長くいたくなかった。
*
気がつくと、俺は部室棟の裏手にあるベンチに座っていた。
冬の午後の日差しは弱く、建物の陰になったその場所はひどく寒かった。
普段ならサークル活動を終えた学生たちが行き交う場所だが、昼休みの今は人の姿もない。
俺は両肘を膝につき、深く項垂れた。
「……はぁ」
何度目になるか分からないため息が漏れる。
昨日まで恋人だった女の子に、今日はストーカー扱いされてしまった。
昨日の朝には、今日も恵美と楽しい一日を過ごせると信じていた。
来年の正月も、その次の正月も、きっと一緒にいるのだと思っていた。
いつか大学を卒業して、就職して、結婚して。
そんな未来を、何の疑いもなく想像していた。
それが今では、彼女に話しかけることさえ許されない。
俺の知らない男が、俺の知らない恵美を知っている。
俺が三年間大切にしてきたものを、あの男はあっさりと奪っていった。
いや、奪われたというのも違うのだろう。
恵美は自分の意思で、あの男を選んだのだから。
「……俺、何やってんだろ」
情けなかった。
腹が立つよりも、悲しかった。
それでも恵美のことを嫌いになれない自分が、何より情けなかった。
もう誰とも話したくなかった。
誰にも会いたくなかった。
こんな惨めな姿を、誰にも見られたくなかった。
そんなことを考えていたときだった。
背後から、小さな足音が聞こえてきた。
誰かが近づいてくる。
俺は顔を上げなかった。
どうせ自分には関係ない。
そう思っていた、その瞬間。
「ひゃっ!?」
突然、冷え切った頬に温かいものが押し当てられた。
驚いて顔を上げると、背後から一本の缶コーヒーが差し出されていた。
「ふふっ。びっくりしました?」
振り返った先にいたのは、一人の女の子だった。
肩のあたりまで伸びた艶のある髪に、大きな瞳。小柄で整った顔立ちの彼女は、いたずらが成功した子供のように笑っている。
見覚えがあった。
さっき食堂で恵美と一緒にいた女の子だ。
「……依田さん?」
「はい。依田詩織です。覚えててくれたんですね」
彼女はそう言うと、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
依田詩織。
去年の秋頃から恵美のサークルに入ってきた、可愛いと評判の後輩だった。
クリスマスに恵美と話したとき、すでにサークルの先輩や同級生から五人も告白され、その全員を振ったという話を聞いたことがある。
『詩織ちゃんって、全然男に興味ないみたいなんだよね』
そう言って恵美が笑っていたのを思い出す。
『どんな人がタイプなのって聞いても、昔から好きな人がいるとしか言わないんだよ』
そのときは、そんな一途な子もいるんだな、くらいにしか思わなかった。
確かに、こうして間近で見ると驚くほど可愛い。
そんな人気者が、どうして俺なんかに声をかけてくるのだろう。
「……何か用?」
「用がなきゃ話しかけちゃ駄目ですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、はい。これどうぞ」
詩織は俺の隣に腰を下ろすと、缶コーヒーを手渡してきた。
まだ温かい。
しかも、俺が普段よく飲んでいる銘柄のブラックコーヒーだった。
「あれ、これ……」
「どうしました?」
「いや、俺がいつも飲んでるやつだったから」
「ふふっ。偶然ですね」
詩織は楽しそうに笑った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
俺は缶を両手で包み込んだ。
冷え切った指先に、じんわりと温かさが広がっていく。
「……別れたんですね」
不意に詩織が言った。
俺は缶コーヒーを持ったまま固まった。
「……知ってるんだ」
「はい。さっき食堂で見てましたから」
「そっか……」
恥ずかしいところを見られてしまった。
「……俺、ストーカーに見えた?」
自嘲気味に尋ねると、詩織は即座に首を横に振った。
「見えませんでした」
「……そう?」
「はい。全然」
迷いのない返事だった。
詩織は少しだけ眉を寄せた。
「先輩、らしくないですよ」
「……え?」
「そんなに落ち込んじゃって。いつもの先輩らしくないです」
その言葉に違和感を覚えた。
俺と詩織は、ほとんど話したことがない。
恵美のサークルにいる可愛い後輩という認識はあったが、挨拶を交わしたことがあるかどうかも怪しい。
それなのに、どうして彼女は俺の普段の姿を知っているようなことを言うのだろう。
「あのさ、依田さん。俺達、どこかで会ったことある?」
すると、詩織は目を丸くした。
「えっ、今さらですか?」
「え?」
「ひどいなぁ。やっぱり覚えてなかったんですね」
彼女は唇を尖らせ、少し拗ねたような表情を浮かべた。
「小学校の頃、バスケ部で一緒だったけーちゃん先輩ですよね?」
「……けーちゃん?」
その呼び方に、遠い昔の記憶が蘇った。
小学校の体育館。
夕方の西日が差し込むコート。
小さな体で一生懸命ボールを追いかけていた、あの女の子。
「……え? もしかして、森本さん?」
「正解です!」
詩織は嬉しそうに両手を合わせた。
「森本詩織です。今は依田ですけど」
「うわ、マジか! 全然分からなかった!」
「あはは。そんなに変わりました?」
「変わったっていうか……めちゃくちゃ久しぶりじゃん!」
思わず声が大きくなった。
俺が小学六年生だった頃、バスケットボール部でキャプテンをしていた。
詩織はその年に入部してきた四年生だった。
小柄で大人しい女の子だったが、練習にはとても熱心だったことを覚えている。
放課後、他の部員が帰った後も体育館に残り、俺と一緒にシュート練習をしたことが何度もあった。
「そっか、森本さんかぁ。いや、本当に懐かしいな」
「もう、森本さんじゃなくて詩織でいいですよ。昔はそう呼んでくれてたじゃないですか」
「ああ、そうだったな。……でも、なんで苗字変わったの?」
「両親が離婚したんですよ。今はお母さんの旧姓です」
「……そっか。ごめん」
「いいんですよ。もう昔のことですから」
詩織はそう言って笑ったが、すぐに少しだけ真面目な表情になった。
「私、あの頃は家に居場所がなかったんです」
「……え?」
「お父さんとお母さん、いつも喧嘩してて。家に帰るのが嫌で、放課後になるとよく泣いてました」
そう言われて、思い当たることがあった。
詩織は練習が終わってもなかなか帰ろうとしなかった。
俺が帰ろうとすると、もう少しだけ練習に付き合ってほしいと頼んできたこともある。
当時は単にバスケが好きなのだと思っていた。
「でも、けーちゃん先輩はいつも付き合ってくれたんです。シュートの練習とか、ドリブルの練習とか。私が泣いてると、練習しようって誘ってくれて」
「……そうだったっけ?」
「そうですよ。覚えてないんですか?」
「いや、練習してたのは覚えてるけど……」
「それに、寒い日はいつも温かい飲み物を買ってくれたじゃないですか」
「……あ」
そこで、ふと思い出した。
冬の体育館。
練習が終わっても帰ろうとしない、小さな女の子。
自動販売機で買った温かい缶飲料を渡すと、彼女はいつも嬉しそうに笑っていた。
『ほら、これ飲んで温まれよ』
『ありがとう、けーちゃん先輩!』
そんなやり取りを、何度も繰り返していた気がする。
「……そういえば、そんなこともあったな」
「ふふっ。やっと思い出してくれました?」
詩織は満足そうに笑った。
俺は手の中の缶コーヒーに目を落とした。
偶然だと思っていた。
けれど、もしかすると彼女は、あの頃のことを覚えていてくれたのだろうか。
「先輩にとっては大したことじゃなかったのかもしれませんけど、私にはすごく嬉しかったんです」
彼女は膝の上で両手を重ねた。
「あの頃、私には家にも学校にも居場所がない気がしてました。でも、放課後に体育館へ行けば先輩がいてくれたから。だから、毎日学校に行くのが楽しみだったんですよ」
「……詩織」
「ずっと、お礼が言いたかったんです。あのときは本当にありがとうございました」
そう言って、詩織は丁寧に頭を下げた。
俺は慌てて首を振った。
「いや、そんな大したことしてないって。俺だってバスケ好きだったし、一緒に練習するの楽しかったからさ」
「ふふっ。そういうところ、全然変わってないですね」
詩織は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、さっきまで胸の中を占めていた暗い感情が、少しずつ薄れていくような気がした。
すると、詩織が突然俺の顔を覗き込んできた。
「ねえ、先輩」
「ん?」
「私、可愛くなったと思いませんか?」
「……え?」
思いがけない質問に、俺は戸惑った。
詩織は期待するような目でこちらを見つめている。
改めて彼女の顔を見た。
昔は小柄で、どちらかといえば地味な印象の女の子だった。
それが今では、サークルの男子学生たちが放っておかないほどの美少女になっている。
「うん。見違えるように綺麗になったと思うよ」
正直に答えると、詩織の頬がみるみる赤くなった。
「……えへへ」
「どうした?」
「いえ、その……嬉しくて」
彼女は照れくさそうに視線を落とした。
「私、頑張ったんですよ。先輩に見てもらえるように」
「……俺に?」
「はい」
詩織は小さく頷いた。
「でも、大学で先輩を見つけたときには、もう彼女さんがいたし……」
「……ああ」
「それに、何度かすれ違ったのに、全然気づいてくれないんですもん。私のことなんか、とっくに忘れちゃったんだと思ってました」
そう言って、詩織は少し寂しそうに笑った。
俺は申し訳なくなった。
確かに昔の詩織と今の彼女では、見た目が大きく変わっている。
それに苗字まで違っていたのだから、気づかなかったのも無理はないと思う。
それでも、あの頃一緒にバスケをしていた女の子が、こんなにも俺のことを覚えていてくれたのだ。
「……ごめんな。気づいてやれなくて」
「本当に悪いと思ってます?」
「うん。そりゃもちろん」
「じゃあ……」
詩織はそこで一度言葉を切った。
そして、何かを決意したように顔を上げる。
「悪いと思ってるなら、今週末、私に付き合って下さい」
「……え?」
思わず聞き返した。
詩織は頬を赤くしたまま、それでもまっすぐに俺を見つめていた。
冬の冷たい風が、二人の間を吹き抜けていく。
俺の手の中では、彼女がくれた缶コーヒーが、まだほんのりと温かかった。




