第1話
「むりむりむり〜!もう無理!」
しんとした総務課オフィスに響いたウワーっという声に、キーボードを打つ手を止める。
隣を見ると、口を半ば開けながら椅子にだらんと身体を預けた美人がいた。
朱宮つづり、27歳。
俺、瀬川湊の同期で同僚だ。
普段は会社の人気者、キリッとした顔でスーツを着こなし、難しい案件にも毅然と対応するシゴデキキャリアウーマンも、この時間になると社会人の仮面が剥がれるらしい。
まぁ本性を知ってる俺からすると、むしろいつも通りなんだが。
「うるさいぞ、朱宮」
「だってだって〜!これ終わんないわよ」
大量に溜まったタスクを必死に片付けているのは、というかこのオフィスに残っているのは、俺と朱宮の二人だけ。
目の前にはうず高く積み上げられた契約書のドラフトたち。
時刻は21時と30分。
ここ最近では見慣れてしまった光景に、最早酷いという感情すら抱かなくなってしまった。
「そりゃこの仕事知ってるのが私たちだけってのは分かってるけどさ……二人でこなす量じゃないって〜!」
「ボヤいても仕方ないだろ、期限は待ってくれないぞ」
なんとか朱宮を窘めながら、再びキーボードを指で押し込む。
この契約課ではいつかの人事異動で若い主戦力が引き抜かれ、以降まさかの補充ナシ。
そこに後輩のメンタル休暇や他の同僚の産休が重なり……こんな地獄絵図が完成してしまったのだ。
おい、営業課とかあんなに要らんだろ、うちの何倍いるんだ。
ちょっとはこっちに寄越せよ。
「終わったら飲み」
頭の中で人事課に文句を垂れ流していると、消え入りそうな声で朱宮が呟いた。
あぁ、いつものが発動してしまったか……。
ここ数年で俺たちの日常になってしまった残業は、朱宮の食欲を満たす形で毎回幕を下ろすのだ。
思わず眉間に指を置く。
終わったら素直に帰ろうぜ。どうして更に帰宅時間を遅くしようとするんだ。
というか普段は他の社員からの飲み会のお誘いを断ってるじゃねぇか。どうしてこのタイミングでだけ都合よく飲みたくなるんだよ。
「いいや直帰だな」
ここは契約課らしく、強い気持ちを持たねばならぬ。我らがこの会社のコンプラを担保してるんだという強い気持ちを。
「やだやだ!お酒飲まなきゃやってらんないわよこんなの〜!このままじゃ私、今からコンビニに走って銀色のアレ買ってきちゃうかも」
手足をバタバタと動かす朱宮。やめろ、オフィスで飲酒だなんてろくでもない。バレたら一発始末書、ボーナスカットも視野に入る。
……まぁ正直、定時を超えて俺たちだけになったときからこうなることは半ば予測してたけど。
「暴れるな暴れるな、わかったから」
「ほんと?」
潤んだ瞳に心臓が持っていかれそうになる。
「ほんとほんと」
これ以上抵抗しても、結局あの手この手で飲みに連行されるのは経験則でわかっている。
ならば流れに身を任せることが最善策なのは、火を見るより明らかだ。
たぶん、たぶん朱宮もわかっている。ゴネれば俺が頷くことを。
「……じゃあ、ん!」
にょきっと差し出される小指。一体これをどうしろと。
「指切り」
幼児退行してるじゃねえか。
残業は人を変えるって昔先輩が言ってたが、あれってほんとだったんだ。
「これでいいか?」
真っ白の細い指に自分の不格好な指を絡めて、放す。
「ん!そうと決まればあと1時間でなんとか行けるとこまで行くわよ!」
「急にマトモになるなよ怖い」
「私がマトモじゃなかったって言うの?」
どこのマトモな人間がオフィスチェアの上で暴れるんだ
「そう言ってんだよ、この残念美人が」
隣でもキーボードをカタカタ鳴らす音が聞こえてきた。
きっと俺よりも効率よく仕事を進めているんだろう。能力だけはあるからな、能力だけは。あと顔か。
くそ、天はこんなわがままお嬢様に二物も三部物も与えやがって……。
「へへっ、美人だとは思ってくれてるんだ〜」
「周りの人間がな」
ここで勘違いしてはいけない。
俺と朱宮はあくまで同期で同僚。二人で残業して本性を知るまでは、仕事の話以外したことなかったんだから。
「ふーんふーん!そういうこと言っちゃうんだ!」
「拗ねるなってめんどくさい」
「あ!アラサーの女にめんどくさいって禁句だからね!?」
多分アラサーじゃなくても禁句だろ、それは。
まぁ言った本人が訂正するのもおかしな話だが。
「はいはい悪かった悪かった、口じゃなくて手動かしてくれよ。飲みに行くんだろ?」
「むん」
余程飲みへの執着が強いのか、肯定とも否定ともわからない声で彼女は返事をした。
こんにちは、七転と申します。
普段から社会人ラブコメを書き、社会人ラブコメを読んで生きてる社畜です。
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なにとぞ!




