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第5章 イレーナ

エルシェシアが死んだ。


兄と同じ日に。


それを聞いた時、私は何も感じなかった。感じなかった、と思った。ただ、そうか、と思った。それだけだった。泣かなかった。怒らなかった。ただ、そうか、と思って、夕飯の支度を続けた。


おかしいな、と思った。


包丁を持ったまま、しばらく動けなかった。



エルシェシアのことを、憎んでいた。


ずっと憎んでいた。何年も憎んでいた。エルシェシアという名前を聞くたびに、胸の奥で何かが硬くなった。会いたくなかった。顔も見たくなかった。声も聞きたくなかった。


それは本当のことだ。


嘘じゃない。


でも——死んで欲しいとは、思っていなかった。


そのことに、エルシェシアが死んで初めて気づいた。憎んでいた。でも、死んで欲しくはなかった。その二つが同時に本当だったなんて、自分でも知らなかった。



兄のことを、書く。


アルヴィンといった。私の兄だった。唯一の家族だった。


兄は優しかった。よく笑った。私が泣いていると、何も聞かずに隣に座った。何も言わなかった。ただ隣にいた。それだけで、泣き止めた。不思議な人だった。


兄には友人がいた。


エルシェシアといった。


兄はエルシェシアのことをよく話した。変わった奴なんだけどな、と言いながら、嬉しそうだった。不思議な友がいるんだ、とも言った。いつも一緒にいた。兄にとって、エルシェシアは特別な存在だったと思う。


私はエルシェシアに、よく会っていた。


最初の印象は——子供っぽい人だと思った。笑い方が、どこか幼かった。でも目だけが、妙に静かだった。子供の顔に、大人の目が乗っているみたいで、少し不思議だった。


兄は言っていた。


「あいつはな、イレーナ。本当は誰より感情的な奴なんだ。ただ、それを出すのが怖いだけで」


そうかな、と思った。


今でも、そうかな、と思う。


でも——兄の言葉は、大抵当たっていた。



兄が死んだのは、春だった。


突然だった。病気でも怪我でもなかった。ただ——死んだ。詳しいことは、ここには書かない。書けない。


兄は死ぬ前に、エルシェシアによく言っていた。


俺に何かあったらイレーナを頼む、と。


でも——来なかった。


兄が死んで、エルシェシアは来なかった。一度も。


最初は待っていた。来るだろうと思っていた。兄の友人だったから。兄に頼まれていたから。きっと来る、と思っていた。


来なかった。


一週間経っても来なかった。一ヶ月経っても来なかった。


そのうちに、エルシェシアは王立魔法機関に入ったと聞いた。遠い街に行ったと聞いた。


それで全部わかった。


捨てられたんだ、と思った。


兄が死んで、もう用がなくなったから、捨てられたんだ、と。


それから、憎んだ。


憎むことは、簡単だった。


憎んでいれば、寂しくなかった。憎んでいれば、泣かなくて済んだ。憎んでいれば、兄がいない世界でも、立っていられた。


エルシェシアを憎むことで、私は生きていた。


おかしな話だと、今は思う。


でも、本当のことだ。



年月が経った。


私はそれなりに生きた。それなりに笑えるようになった。エルシェシアのことを考える時間も、少しずつ減った。憎しみは消えなかったけれど——薄くなった。薄い憎しみを胸の奥に置いたまま、私は生きていた。


それでよかった。


それで、よかったはずだった。



エルシェシアが死んだ。


兄と同じ日に。


知らせを聞いた時、包丁を持ったまま動けなかった。夕飯の支度をしていた。なぜ動けなかったのか、最初はわからなかった。


しばらくして、気づいた。


泣きたかったのだ。


憎んでいた。ずっと憎んでいた。でも、死んで欲しいとは思っていなかった。生きていてほしかった。


——気づいたら、部屋を見回していた。


この家には、思い出がある。


兄と、エルシェシアと、三人で過ごした頃の思い出が。ここ数年、思い返すことなんてなかった。思い返したくなかった。なのに今は——鮮明に、あの頃の光景が目に浮かぶ。


なぜだろう。


エルシェシアが初めてこの家に来た日のことを、覚えている。


兄が連れてきた。こいつ、行くとこないって言うから、と兄は笑った。エルシェシアは玄関に立ったまま、少し困ったような顔をしていた。上がっていいのか迷っているようだった。私が、どうぞ、と言ったら、ありがとうございます、と小さく言った。


小さい子供みたいだと思った。


その癖、夕飯の後に兄と話している時は、やけに真剣な顔をしていた。魔法の話だったか、何かの研究の話だったか。私にはよくわからない話だったけれど、二人は楽しそうだった。


ああいう顔もするんだ、と思って見ていた。


それからも、エルシェシアはよく来た。


三人で食卓を囲んだ。兄がおかしなことを言って、エルシェシアが呆れた顔をした。私が笑ったら、エルシェシアも笑った。そういう夜が、何度もあった。


エルシェシアが帰る時、兄はいつも見送った。私も一緒に見送ることが多かった。


ある夜、エルシェシアが帰り際に空を見上げた。


星が綺麗だったから、だったと思う。


少しの間、黙って空を見ていた。何を考えているのかわからなかった。でも——その横顔が、どこか寂しそうで。私は何も言えなかった。


兄は言った。


「また来いよ」


エルシェシアは空から目を下ろして、笑った。


「うん」


それだけだった。それだけなのに——嬉しそうだった。心底、嬉しそうだった。


また来いよ、と言われるだけで、あんなに嬉しそうにする人だった。



ふと、部屋の隅に目がいった。


辛くて泣いた夜のことだった。


兄が死んでから、そういう夜が何度もあった。どうしようもなく苦しくて、誰かに話したくて、でも誰もいなくて——そういう夜。


そういう夜に、私はいつも、誰かのことを考えていた。


あの時はハッキリとした輪郭を持っていなかったけれど、あれはエルシェシアだった。


私は、辛い夜にエルシェシアのことを考えていた。


来なかった、と憎みながら。捨てられた、と怒りながら。それでも——もしエルシェシアがいたら、と考えていた。


もし来てくれていたら。


隣に座ってくれていたら。


何も言わなくていい。ただ、いてくれるだけでよかった。兄がそうしてくれたように——エルシェシアも、そうしてくれる人だと、どこかで思っていた。


思っていたから、来なかった時に、あんなに憎めた。


期待していたから。


頼りたかったから。


ずっと——頼りたかったから。


気づいたら、涙が出ていた。

憎しみのためではなかった。

兄を失った時から、ずっと張り続けていた何かが——今更になって、ほどけた。


私は、本当はエルシェシアのことを、ずっと家族だと思っていた。

ずっと認めたくなかった。来なかったから。捨てたから。それでも——兄の大切な人だったから。兄が信じた人だったから。私の中で、エルシェシアはずっと、家族の輪郭をしていた。


憎んでいた。


でも、家族だった。


その二つが、ずっと同時に本当だったのだ。



私は遂に、家族を全員失った。


兄さんを失って。


エルシェシアを失って。


これで全部、いなくなった。


——エルシェシア。

もっと早く気づけていたら。

もっと貴方と話せていたら。


貴方に、この気持ちを伝えられただろうか。


あなたは家族だった。ずっと。そして、これからも。


窓を、風が叩いた。

まるで、エルシェシアが返事をしてくれたかのように。


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