第九十九話「世界樹の祝福と、大家の成長」
その夜、バベル・ガーデンは静寂に包まれていた。
祭りの熱狂が去り、心地よい疲労感が住民たちを深い眠りへと誘っていた頃。
――フォォォォォ…。
大気そのものが震えるような、低い音が響いた。
同時に、闇夜を切り裂くように、淡い翠の光が溢れ出した。
「な、なんだ!?」
「火事か!?いや、光だ!」
第三居住区画の兵士たちが飛び起き、窓を開ける。
彼らの目に映ったのは、塔の中心を貫く世界樹が、まるで呼吸をするように脈打ち、神々しい光を放っている姿だった。
「…眩しい」
最上層『樹洞の聖域』。
ベッドでモフモフを抱いて寝ていた真音は、瞼を刺す光に目を覚ました。
カーテンの隙間から、奔流のような光が差し込んでいる。
「なによもう…。夜更かしは健康に悪いのよ」
真音は不機嫌そうに身を起こし、あくびをしながらテラスへと出た。
そこにはすでに、賢者メルキオラスと、蒼天竜ラズリが待っていた。
「くまちゃん。…これ、アンタの仕業?」
「まさか。僕でもこんな大規模な魔力干渉は無理だよ」
メルキオラスは、光り輝く樹幹を見上げ、目を細めた。
「世界樹が…歌っているんだ」
◆◇◆◇◆
「す、素晴らしいですわぁぁぁッ!!」
ドタドタドタッ!
テラスに駆け込んできたのは、パジャマ姿に白衣を羽織ったエリンだった。
彼女は手にした魔力測定器を振り回し、興奮で顔を紅潮させている。
「観測史上最大値!エーテル濃度が測定不能を起こしています!」
「うるさいわねエリン。…で、木はどうしちゃったの?病気?」
真音が尋ねると、エリンは勢いよく首を振った。
「とんでもない!逆ですわ!これは『歓喜』の波動です!」
「歓喜?」
「はい!世界樹が喜んでいるのです!数千年の時を経て、再びこの地に満ちた人々の活気、感謝の念、そして…」
エリンは真音をビシッと指差した。
「大家様!貴女の愛に、樹が応えているのです!」
「…はあ?」
真音は呆れた顔をした。
愛とか言われても困る。
こっちはただ、住んでやってるだけなのに。
「行ってごらん、真音ちゃん」
メルキオラスが背中を押した。
「樹が、君を呼んでいる気がするよ」
「…ふん。しょうがないわね」
真音はペタペタと裸足で歩き出し、光の源である樹の幹へと近づいた。
近づくほどに、光は強くなる。
けれど、熱くはない。
日向ぼっこをしているような、優しい温かさ。
「…ねえ」
真音は、ごつごつした樹皮に、そっと手を触れた。
「アンタ、何がそんなに嬉しいの?」
その瞬間。
ドクンッ。
真音の心臓が、大きく跳ねた。
手のひらから、膨大な情報の波が流れ込んでくる。
言葉ではない。感情の奔流だ。
――ありがとう。
――賑やかだね。
――楽しいね。
――ずっと、護ってくれてありがとう。
「…っ」
真音の脳裏に、この数千年の記憶がフラッシュバックする。
誰もいない廃墟で、一人膝を抱えていた日々。
メルキオラスと出会った日。ラズリと空を飛んだ日。
そして、あのうるさい連中がやってきて、壁を直し、料理を作り、笑い合った日々。
その全てを、この樹はずっと見ていたのだ。
ただの植物としてではなく、家族の一員として。
「…そっか」
真音の目から、ポロリと涙がこぼれた。
「アンタも…寂しかったんだ」
世界樹が応えるように、光を強くした。
真音の体を、柔らかな翠の光が包み込む。
「…あったかい」
それは、母親の胎内にいるような安心感だった。
同時に、体の奥底から力が湧いてくるのを感じる。
魔力回路が拡張され、細胞の一つ一つが活性化していく感覚。
「う、うわっ!?」
カッッッ!!!!
真音を中心に、光の柱が天へと突き抜けた。
その光は雲を割り、夜空にオーロラのような輝きを描き出す。
さらに、光の粒子は雨のように降り注ぎ、バベル・ガーデン全域を優しく撫でた。
「なんだ、体が軽いぞ!?」
「古傷が…消えた?」
下層の居住区では、光を浴びた住民たちが驚きの声を上げていた。
疲れが消え、活力が満ちる。
それは、世界樹から住民たちへの、最初で最大の「家賃の還元」だった。
◆◇◆◇◆
光が収まると、真音はその場に立ち尽くしていた。
見た目は変わらない。
相変わらず小さな、熊耳の少女だ。
けれど、その纏う空気は劇的に変化していた。
「…ふぅ」
真音は自分の手のひらを握ったり開いたりした。
力が馴染む。
以前よりも、世界がクリアに見える。
風の流れ、魔力の揺らぎ、遠くで寝ている兵士の寝息まで感じ取れる。
「どうだい?気分は」
メルキオラスが歩み寄る。
真音は振り返り、少し照れくさそうに笑った。
「…なんか、背が伸びた気がする」
「見た目は変わってないけどね」
「うっさい!気分の問題よ!」
真音は頬を膨らませたが、すぐに真面目な顔になった。
「でも…私、少し大人になれたかな」
彼女は胸に手を当てた。
「前は、自分のことだけで精一杯だった。…寂しいとか、お腹すいたとか、そればっかり」
「うん」
「でも今は…この樹の声も聞こえるし、下で寝てるみんなのことも、守ってあげなきゃって思う」
真音は、しっかりと大地を踏みしめた。
「力が強くなったからじゃないわ。…守りたいものができたから、私は強くなれたの」
その言葉に、メルキオラスは目を見開いた。
あの我儘で、泣き虫で、甘えん坊だった少女が。
いつの間にか、こんなにも立派な「王」の顔をするようになっていたなんて。
「…ああ」
賢者の目元が緩む。
「立派に成長したよ、真音ちゃん。…僕も、鼻が高い」
「我が君…!」
足元で、ラズリが感極まって男泣き(猫泣き)している。
「このラズリ、感無量であります!貴方様こそ、真の支配者!世界の覇者!」
「大げさよ、ラズリ」
真音はラズリを抱き上げ、よしよしと撫でた。
「覇者とかどうでもいいの。…私はただの、この家の『大家さん』でいいわ」
彼女は、静まり返った夜の街を見下ろした。
そこには、彼女の大切な家族たちが眠っている。
明日になればまた、ヴォルグが鍋を振るい、ガルシスが蒸気を噴かせ、ルミナが小言を言いながら走り回るだろう。
「…いい夜ね」
真音は大きく伸びをした。
頭の上の熊耳が、夜風に吹かれて気持ちよさそうに揺れる。
「さあ、寝るわよ!明日は早起きして、みんなに自慢しなきゃ!」
「何を?」
「私がレベルアップしたことによ!…あ、あと、ヴォルグに朝ご飯大盛り頼まなきゃ。成長期だし!」
真音はケラケラと笑い、部屋の中へと駆け込んでいった。
その背中は、以前よりもずっと大きく、頼もしく見えた。
世界樹は、静かに光の明滅を繰り返している。
まるで、愛し子を見守る親のように。
バベル・ガーデンの夜は、祝福と安らぎに満ちて更けていった。
長い旅の終わりと、これからの始まりを告げる朝が、もうすぐやってくる。
(第九十九話 完)




