第八十四話「聖王国との条約と、対等な和平」
バベル・ガーデン、総務室・特別応接室。
重厚なオーク材のテーブルの上に、一束の羊皮紙が置かれた。
それは、ただの紙束ではない。
大陸最大勢力である聖王国が、この「塔」を対等な交渉相手として認めた証。
歴史の教科書に載るレベルの、極めて重要な文書である。
「…お待たせいたしました」
聖王国上席外交官ラウルは、深々と一礼し、顔を上げた。
その表情には、長きにわたる根回しと激論を乗り越えた者だけが持つ、心地よい疲労と達成感が滲んでいる。
「聖王国の総意による『バベル・ガーデンとの友好及び通商に関する条約案』の最終稿でございます」
対面に座るメルキオラスが、短い手を伸ばして書類を引き寄せた。
隣では、総務部長ルミナが眼鏡を光らせ、背後では護衛のラズリが欠伸をしている。
そして、その中心に座る「主」。
「…長い」
エプロンドレスの少女――大家、真音だ。
彼女は書類の一枚目をパラリとめくり、二秒で興味を失ったようにテーブルに投げ出した。
頭の上の熊耳が、退屈そうにペタリと倒れている。
「字ばっかりで目が滑る。…要するに、何が書いてあんの?」
「ははは。失礼しました」
ラウルは苦笑し、簡潔に説明を始めた。
「要点は三つです。第一に『相互不可侵』。聖王国はバベル・ガーデンの自治権を尊重し、軍事的な干渉を行わないこと」
「ふん。当然ね。手を出したら痛い目を見るのはそっちだし」
真音は鼻を鳴らす。傲慢だが、事実だ。
「第二に『交易の促進』。関税の撤廃と、商人たちの自由な往来の保証。…リッカ殿の活動が、よりスムーズになります」
「それは良いことだわ。美味しいものが増えるし」
真音の耳がピクリと反応する。
「そして第三に『学術交流の支援』。魔法学院との連携を国としてバックアップし、知識と技術の共有を図ること」
ラウルは説明を終え、真っ直ぐに真音を見つめた。
「これらは全て、貴国を聖王国と対等な『独立自治区』として受容することを前提としています」
◆◇◆◇◆
静寂が部屋を支配する。
メルキオラスは黙々と書類に目を通している。
ルミナもまた、タブレットで条文の裏読みと法的リスクの確認を行っている。
カサッ、カサッ…。
紙をめくる音だけが響く。
ラウルは膝の上で拳を握りしめ、掌に汗が滲むのを感じていた。
内容は完璧なはずだ。教皇派の強硬論を抑え込み、枢機卿たちを説得し、ようやく勝ち取った「平和への切符」。
だが、最終決定権を持つのは、この気まぐれな少女だ。
「…うん。問題ないね」
数分後、メルキオラスが顔を上げた。
「裏の意図はない。聖王国にしては随分と譲歩した内容だ。…ラウルくん、君の努力の跡が見えるよ」
「恐縮です」
「ルミナくん、どうだい?」
「法務的にもクリアです。…特に第4条の『犯罪者引き渡し協定』に関する但し書き、こちらの司法権を優先する形になっているのは大きいですね」
ルミナが感心したように頷く。
幹部たちの審査は通った。
全員の視線が、真音に集まる。
「…」
真音は頬杖をつき、テーブルの上の羽根ペンをいじっていた。
「ねえ、ラウル」
「はい」
「これにサインしたら…もう、誰も私の家に土足で踏み込んでこない?」
彼女の黒曜石の瞳が、ラウルを射抜く。
そこにあるのは、政治的な駆け引きではない。
ただ静かに暮らしたいと願う、切実な思い。
「…約束します」
ラウルは胸に手を当て、誓った。
「私の命と、外交官としての誇りに懸けて。…二度と、無粋な剣音で大家様の安眠を妨げるような真似はさせません」
「…そ」
真音は小さく笑った。
「なら、いいわ」
彼女は羽根ペンを取り、インク壺に浸した。
サラサラと、署名欄に名前を記す。
流れるような、美しい筆跡。
「承認してあげる。…仲良くしましょ」
書き終えた書類を、真音はラウルの方へ滑らせた。
その瞬間、部屋の空気が一気に緩んだ。
「…ありがとうございますッ!」
ラウルは書類を受け取り、深く、深く頭を下げた。
震えていた。
これで、戦争は回避された。
多くの血が流れるはずだった未来が、インクの染み一つで書き換えられたのだ。
「よかったですね、大家様」
「ん。ま、面倒事が減るならそれでいいわ」
真音は伸びをし、メルキオラスに寄りかかった。
その表情は晴れやかだ。
バベル・ガーデンは、今日この瞬間、名実ともに世界地図にその名を刻んだのである。
◆◇◆◇◆
調印式を終え、総務室を出たラウルは、長い廊下を歩いていた。
足取りは軽い。
窓から差し込む夕日が、彼の影を長く伸ばしている。
「…お疲れ様です、ラウル様」
柱の陰から、一人の女性が姿を現した。
バベル・ガーデン警備主任、セリーナだ。
元聖王国諜報部員。かつてのラウルの同僚であり、国を捨てた「裏切り者」。
「やあ、セリーナ」
ラウルは足を止め、穏やかに微笑んだ。
「元気そうで何よりだ。…ここの水は、君に合っているようだね」
「…ええ」
セリーナは少し複雑そうな顔をしたが、その瞳に翳りはない。
彼女は、ラウルの手にある書類入れに視線を落とした。
「締結、されたのですね」
「ああ。これで君も、晴れて『友好国の市民』だ。…もう、後ろめたさを感じる必要はないよ」
ラウルの言葉に、セリーナはハッとして顔を上げた。
裏切り者として追われる身ではなくなる。
彼女の選んだ場所と、彼女の故郷が、握手をしたのだから。
「ラウル様…。貴方は、知っていたのですか?私がここにいることを」
「さあね。…ただ、優秀な鳥が飛び立った先には、それなりの理由があると思っただけさ」
ラウルは肩をすくめた。
彼は知っていたのだ。
セリーナが裏切ったのではなく、より正しいと思う道を選んだことを。
そして、その選択を正解にするために、奔走してくれたのだ。
「…感謝します」
セリーナは、最敬礼をした。
それはかつての上官に対するものではなく、一人の友人への感謝の礼だった。
「礼には及びませんよ。…ああ、そうだ」
ラウルは去り際に振り返った。
「今度、プライベートで遊びに来てもいいかな?ここのサウナと料理が、忘れられなくてね」
「ふふっ。歓迎しますわ。…ただし、予約は三ヶ月待ちですが」
「手厳しいな!」
二人は笑い合った。
そこには、かつての重苦しい任務の影はない。
新しい関係が、ここにも生まれていた。
◆◇◆◇◆
テラスに出たラウルは、夕焼けに染まるバベル・ガーデンを見下ろした。
市場の賑わい、兵士たちの笑い声、世界樹のざわめき。
それら全てが、一つの生命体のように脈打っている。
「…美しい国だ」
彼は呟いた。
武力ではなく、魅力で世界を征服しようとしている国。
かつて魔王が君臨した場所が、今や平和の象徴になろうとしている皮肉。
「おーい!ラウル!」
上を見上げると、最上層のバルコニーから、真音が手を振っていた。
その頭の上には、白い毛玉が乗っている。
「また来なさいよー!今度はお土産忘れないでねー!」
「はい!必ず!」
ラウルは大きく手を振り返した。
外交官としての仮面を外し、ただのラウルとして。
帰りの馬車の中で、彼は手帳を開いた。
『平和条約締結』。
その文字の下に、彼は小さく書き足した。
『追伸:この塔の主は、最高にキュートで、最高に恐ろしい』
聖王国に帰れば、また忙しい日々が待っている。
教皇への報告、貴族たちへの説明、条約の運用ルールの策定。
だが、不思議と気は重くなかった。
彼の背中には、あの塔の温かい風が、いつまでも追い風となって吹いている気がしたからだ。
バベル・ガーデン、建国元年。
歴史書には記されないが、確かに世界が変わった日が、静かに暮れていった。
(第八十四話 完)




