第五話「生焼けの矜持と、煉獄のウェルダン」
バベル・ガーデンにおける「食」は、単なる栄養補給ではない。
それは死活問題である。
なぜなら、この塔の絶対的支配者である大家・真音の機嫌を損ねることは、「死ぬまで終わらない強制労働」を意味するからだ。
最上層に設けられたキッチンエリア。
最新鋭の魔導コンロが並ぶその場所で、元魔王軍第三師団将軍、オーク・ロードのヴォルグは、脂汗を流しながらフライパンと対峙していた。
「くそっ、なぜ私が…。私は将軍だぞ?数万の魔族を指揮し、人間どもを恐怖のどん底に叩き落とした私が、なぜフリル付きのエプロンをつけて肉を焼いているんだ!」
ヴォルグは悪態をつくが、その瞳には悲壮な決意が宿っていた。
事の発端は、数時間前。
人食い植物の排泄物まみれになりながらトイレ掃除をしていたヴォルグは、ついに精神の限界を迎え、管理官であるメルキオラスに泣きついたのだ。
『頼む!何でもする!戦いでも力仕事でもいい!だからあの最低な場所から私を救い出してくれ!』
『えー。でも君、戦う以外に何ができるの?』
『り、料理だ!オーク・ロードは美食の種族!肉の扱いなら人間の一流シェフにも負けん!』
その言葉を聞いたメルキオラスは、ニヤリと笑ってこう言ったのだ。
『ちょうどよかった。真音ちゃんが最近、勇者くんたちが置いていった保存食に飽きててね。…いいよ。一度だけチャンスをあげる』
――そう。これは「採用試験」なのだ。
この料理で大家を満足させれば、晴れて厨房担当へと配置転換。
だが、もし不味いと言われれば…待っているのは、永遠のトイレ掃除地獄。
「負けられん…!我が将軍人生と、衛生的な生活を懸けて!」
ヴォルグは、まな板の上に鎮座する巨大な肉塊を睨みつけた。
中層のダンジョンで狩ってきたばかりの『カイザー・バッファロー』のサーロイン。
ルビーのように赤く輝く赤身に、大理石のような美しいサシが入った、最高級の霜降り肉だ。
(あの管理人の小娘…力は出鱈目だが、食への執着は本物だ。ならば、私の料理でその舌を支配してやればいい)
ヴォルグの手つきは、剣を振るうよりも繊細だった。
肉の筋繊維を見極め、脂の融点を計算し、下味の岩塩を絶妙な高さから振る。
「見せてやる。魔界の宴で磨き上げた、至高の肉料理を!」
ジュワァァァッ!!
熱した鉄板に肉を乗せた瞬間、暴力的なまでに芳ばしい香りが立ち上った。
ヴォルグは肉の表面を強火でさっと炙り、メイラード反応によって旨味の壁を作る。
そして、ここからが腕の見せ所だ。彼は火を弱め、余熱だけでじっくりと肉を休ませる。
狙うは、魔族が最も好む焼き加減――『ブラッディ・レア』。
表面だけをカリッと焼き、中身は滴るような生の状態。
新鮮な肉だけが持つ野性味と、血の鉄分、そしてとろけるような食感を味わうための最適解だ。
「完成だ…。『カイザー・バッファローの魔界風ステーキ・ブラッディレア仕立て』!」
皿の上には、表面に美しい焼き目がついた厚切りのステーキ。
だが、ナイフを入れれば、そこからは鮮血のような肉汁が溢れ出すだろう。
これこそが、野獣の饗宴にふさわしい一皿。
ヴォルグは震える手で皿を持ち、己の運命を懸けて、真音の待つ「樹洞の聖域」へと向かった。
◆◇◆◇◆
「お待たせいたしました、大家殿」
ヴォルグは恭しく皿を差し出した。
こたつに入り、ミカンを剥いていた真音が顔を上げる。
「あら、いい匂いね。…えっと、誰だっけ?まあいいわ、そこのオークの人」
「は、はひ?」
ヴォルグの頬が引きつる。
名前すら覚えられていない。将軍としての威厳は、この部屋ではホコリほども価値がないらしい。
「一応、期待してあげるわ。私をガッカリさせないでよね」
真音はナイフとフォークを手に取ると、期待に胸を膨らませてステーキに向き合った。
香ばしい脂の匂いが鼻腔をくすぐる。ここまでは合格だ。
彼女は優雅な手つきで、ナイフの刃を肉に入れた。
――ジュワリ。
肉の断面から、鮮やかな赤い液体が滲み出し、白い皿を汚していく。
――ピタリ。
真音の手が止まった。
こたつの中の空気が、瞬時に凍りつく。
隣で茶を啜っていたメルキオラスが「あちゃー」と天を仰ぎ、窓の外にいたラズリが「愚か者め」と鼻を鳴らした。
「…ねえ」
真音の声から、感情の色が消えていた。
「は、はい?」
「アンタ、私のこと、野蛮な獣だと思ってる?」
「へ?」
ヴォルグは意味が分からず硬直する。
真音はナイフを皿にカチャンと置くと、氷のような瞳でヴォルグを射抜いた。
「どうして私が、生焼けの肉なんて食べなきゃいけないのよ」
「えっ、いや、ですが!これこそが至高!素材の生命力をそのまま味わう『ブラッディ・レア』こそが、最も柔らかく、肉本来の味が…」
「野蛮ね。本当に野蛮」
真音は呆れ果てたようにため息をつく。
その視線は、皿の上の赤い肉を、まるで汚物のように見下ろしていた。
「いい?文明ってね、『火』を使うことから始まったのよ。細菌や寄生虫のリスクを排除し、熱変性によってタンパク質の旨味を引き出す。それが料理という名の『魔法』じゃない」
彼女は人差し指で、皿の上の血だまりを指した。
「これは料理じゃないわ」
「料理、、じゃない…!?」
ヴォルグの自信作が、料理人としての矜持が、そしてトイレ掃除からの脱出の夢が、一言で全否定された。
「私が好きなのはね、ウェルダンよ。表面はカリッと香ばしく、中までしっかり火が通っていて、噛めば噛むほど凝縮された肉の旨味が染み出してくる…そういう『仕事』がされたお肉なの」
「し、しかし!そんなに焼いたら肉が固くなってしまいます!それは三流のすることだ!」
ヴォルグは思わず反論した。
焼きすぎた肉はゴムのように固くなり、風味が飛ぶ。それは料理人の常識だ。
「それが腕の見せ所でしょ?固くせずに中まで火を通す。その矛盾を解決するのが『プロ』の仕事よ。…それができないなら、アンタはただのオークよ」
真音は冷酷に言い放つと、パチンと指を鳴らした。
「ラズリ、この三流料理人に手本を見せてあげなさい」
『御意』
窓からラズリが首を突っ込み、皿の上の肉に向かって口を開けた。
喉の奥で、蒼い光が収束する。
「ひぃッ!?ブ、ブレスで焼くつもりか!?そんなことをすれば、肉など一瞬で炭に…!」
ヴォルグの叫びを無視し、ラズリは極細の熱線を吐き出した。
シュゴオオオッ…!
それは破壊の炎ではなかった。
針の穴を通すような精密な魔力制御。
超高熱の熱線が、肉の繊維一本一本をピンポイントで加熱し、余分な水分だけを蒸発させ、旨味を極限まで凝縮させていく。
一瞬にして、肉の表面は美しい焦げ茶色に変わり、中心部まで均一に熱が通った。
炭化などしていない。それどころか、肉全体が微かに発光しているようにさえ見える。
「はい、どうぞ」
真音は再びナイフを入れる。
今度は血など出ない。
断面は美しい薔薇色から淡い褐色へとグラデーションを描き、透明な脂と肉汁だけがじわりと滲み出した。
サクッ、という心地よい音と共に肉が切れる。
真音はそれを口に運び、咀嚼した。
「ん〜…ッ!」
彼女の頬が、とろりと緩んだ。
さっきまでの冷徹な大家の顔ではない。
美味しいものに心底満たされた、年相応の少女の顔だ。
「これよこれ!中まで熱々で、脂が甘くて…やっぱりお肉はよく焼くに限るわ!」
その幸福そうな顔を見て、ヴォルグは膝から崩れ落ちた。
理解してしまったのだ。
ラズリのブレスによって調理された肉から漂う香りは、自分が焼いたものとは次元が違っていた。
自分の料理哲学が、大家の圧倒的な「好み」と、ドラゴンの「超絶技巧」の前に完全敗北した瞬間だった。
「美味しかったわ。ごちそうさま」
真音が満足げに頷く。
「でもね、オークの人。あんたの料理、悪くはなかったのよ」
「え?」
ヴォルグが顔を上げる。
「ただ、焼き方が間違ってただけ。素材の選び方、下味のつけ方…基礎はしっかりしてる」
メルキオラスが補足する。
「つまり、君には才能がある。希望通り、厨房担当にしようか。…ただし、ウェルダンをマスターするまで、給料は半額ね」
「半額!?」
「勉強になったね、将軍さん」
メルキオラスが同情するように肩を叩く。
「真音ちゃんはね、見た目は獣人だけど、中身は誰よりも都会っ子なんだよ。次は焦げる寸前まで焼いて持っておいで」
「は、はい…」
ヴォルグは涙目で頷いた。
トイレ掃除への逆戻りは免れたが、彼の前には「究極のウェルダン」を追求するという、魔王軍時代よりも過酷な修羅の道が広がっていたのだった。




