第四話「堕ちた勇者と、奈落の宝石」
「なあ、あの勇者、本当に帰ってくるのか?」
第七五六層の工事現場で、魔王軍の兵士が呟いた。
「さあな。でも、帰ってこなかったら…俺たちの給料カット(賄い飯抜き)が延長されるんだぞ」
聖騎士が苦い顔をする。
かつての敵同士が、今は同じ不安を共有していた。
◆◇◆◇◆
世界には「地獄」と呼ばれる場所がいくつか存在する。
極寒の凍土、灼熱の火山、そして魔王の居城。
だが、勇者アレクセイは、今この瞬間をもって、それらの定義を書き換えることにした。
本当の地獄とは、ここ――バベル・ガーデン地下深層『未開の地下渓谷』のことだ。
「はぁ…はぁ…ッ!」
アレクセイは、泥と血にまみれて走っていた。
肺が焼けるように熱い。足元の腐葉土は彼のブーツを吸い込み、逃走の速度を奪おうとする。
彼が現在装備しているのは、薄汚れた清掃用の作業着のみ。
聖剣も、あらゆる魔法を弾くミスリルの鎧も、すべては遥か頭上の「大家」によって剥ぎ取られた。
――ガサッ。
背後の茂みが揺れる音に、アレクセイの背筋が粟立つ。
彼は反射的に腰へと手を伸ばした。長年染み付いた、剣を抜く動作だ。
だが、指先が掴んだのは虚空だった。
「くそっ…!ないんだった…!」
絶望的な喪失感。
聖剣がない。
それだけで、これほどまでに世界が恐ろしく見えるとは。
彼は今まで、己の武勇を誇っていた。
だが、それは強力な装備という「殻」に守られていたからに過ぎなかったのか。
グルルルルッ…
湿った空気を震わせ、巨大な影が飛び出した。
『エンシェント・マンティコア』。
獅子の胴体に、老人のような人面、そしてサソリの尾を持つ伝説の魔獣。
地上であれば、Sランク冒険者がパーティを組んで挑む相手だ。
「グルァァァァッ!!」
「聖剣技・閃こ…うわあぁッ!?」
必殺技の名を叫ぼうとして、アレクセイは無様に泥へ転がった。
聖剣がなければ、技など発動しない。
ただの滑稽なポーズだ。
その頭上を、猛毒の尾針が掠める。
髪の毛数本が散り、死の風圧が頬を叩いた。
死ぬ。
ここで、こんな薄汚い泥の中で、誰にも知られずに死ぬのか。
人類の希望と謳われたこの俺が、借金のカタに労働させられた挙句、魔獣の餌になって?
(嫌だ…)
アレクセイの脳裏に、走馬灯が駆け巡る。
故郷の母、王都の歓声、そして――。
――『私のグミが復活するまで、地上に戻れると思わないことね』
あの熊耳の少女の、絶対零度の瞳。
もし手ぶらで戻ればどうなるか。
いや、ここで死んで亡霊になったとしても、あの大家なら地獄の底まで取り立てに来るのではないか。
死の恐怖よりも鮮烈な、理不尽な管理者への恐怖。
それが、萎縮しかけたアレクセイの心臓を、暴力的に叩き起こした。
「嫌だ…死んでたまるか…!」
アレクセイは泥水を啜り、這いつくばった。
視線の先に、一本の棒が落ちていた。
かつてこの塔を増築した誰かが捨てたであろう、赤錆びた鉄パイプ。
「俺は…俺は勇者だ!だが今は、ただの借金奴隷だ!奴隷が勝手に死んだら、あの大家に殺される!!」
意味不明な論理。
だが、極限状態の脳にはそれが真理だった。
アレクセイは鉄パイプを鷲掴みにした。
剣の重心とはまるで違う、無骨で重い鉄の塊。
だが、今の彼にはそれが、聖剣よりも頼もしく見えた。
「グルルッ?」
獲物の雰囲気が変わったことに、マンティコアが警戒して足を止める。
アレクセイは吠えた。
気品も騎士道もない、獣の咆哮を。
「かかってこい!お前なんかより、管理人の方がよっぽど怖いんだよォォォッ!!」
泥仕合が始まった。
聖なる光などない。
あるのは、泥にまみれ、噛みつき、鉄パイプで殴打する、生々しい殺し合いだけだ。
マンティコアの爪が作業着を切り裂き、脇腹を抉る。
だが、アレクセイは止まらない。
痛みを超越したアドレナリンが、彼を修羅に変えていた。
ドゴッ!
バキィッ!
鉄パイプが魔獣の眉間にめり込む。一度ではない。
二度、三度。
マンティコアが絶命した後も、彼は殴り続けた。
数分後。
静寂が戻り、アレクセイは荒い息を吐きながら、血濡れの魔獣の死体を見下ろしていた。
「勝った…のか?」
勝った。
装備なしで。
Sランクの魔獣に。
一人で!
湧き上がるのは勝利の美酒ではない。
強烈な飢餓感だった。
彼は震える手で、懐からナイフ(支給品の唯一の刃物)を取り出し、マンティコアの肉を削いだ。
火をおこす時間はない。血の滴る生肉を、そのまま口に放り込む。
「ぐ、うぅ…不味い…」
獣臭さと鉄の味。
だが、噛みしめるたびに、胃袋が熱くなり、力が底から湧いてくるのを感じた。
これが「生きる」ということか。
綺麗事だけの勇者業では決して味わえなかった、生の充足感。
「食ってやる。全部食って、目的を果たして…生きて帰ってやる!」
◆◇◆◇◆
数時間後。
渓谷の最奥部にある、幻想的に輝く水晶の洞窟。
その中央に、目的の生物は鎮座していた。
『クイーン・クリスタル・スライム』
直径三メートルはある巨大な半透明の球体。
その体はダイヤモンドのように硬く、内部には虹色の光が渦巻いている。
神々しいまでの美しさ。
だが、アレクセイの目には、それは別のものに見えていた。
「見つけた…俺の、希望…!」
アレクセイの目は血走り、口元からは涎が垂れている。
ボロボロの作業着、錆びた鉄パイプ、そして全身に浴びた魔獣の返り血。
もはや聖騎士の面影はない。
そこにいるのは、一人の飢えた狩人だった。
彼はスライムが「宝石の原石」に見えているわけではない。
ましてや「倒すべき敵」に見えているのでもない。
ただ、「これを持ち帰れば、大家の機嫌が直る(=殺されない)」という一点のみが、彼を突き動かしていた。
「キシャーッ!」
クイーン・スライムが侵入者を感知し、警戒音を発する。
体表から、無数の鋭利な水晶の槍が射出された。
速い。
だが、マンティコアとの死闘を潜り抜けたアレクセイの動体視力は、それを「遅い」と感じていた。
「甘いッ!ラズリ様の『掃除ブレス』に比べれば、そよ風だ!」
アレクセイは人間離れした動きで水晶の槍を回避する。
最小限の動きで、紙一重で躱す。
殺してはいけない。
捕獲しなければならない。
彼は懐から、メルキオラスから渡された支給品――「掃除用バケツ(空間拡張魔法付与済み)」を取り出した。
「おとなしく入れぇぇぇッ!お前はグミになるんだよぉぉぉッ!」
勇者の気迫に、深層の主が一瞬たじろぐ。
その隙を見逃すアレクセイではない。
彼は鉄パイプを捨て、素手でスライムの巨体へと飛びかかった。
水晶の硬度が、皮膚を切り裂く。
だが、彼は痛みを無視し、バケツの開口部をスライムの核へと押し付けた。
「入れ!入ってくれ!頼むから!!」
それは攻撃ではない。魂の叫びだった。
勇者の執念と、バケツに込められた賢者の魔法が共鳴する。
ズズズズズッ…!
巨大なクイーン・スライムが、掃除機の奔流に飲まれるように歪み、小さなバケツの中へと吸い込まれていく。
ポンッ。
小気味よい音と共に、全てが収まった。
「はぁ…はぁ…」
アレクセイはその場に大の字に倒れ込んだ。
天井の水晶がキラキラと輝いている。
泥だらけの手で、彼はバケツを抱きしめた。
「帰れる…これで、地上へ…」
涙が溢れてきた。
かつて幾多の死線をくぐり抜け、魔王とすら互角に渡り合った男が、スライム一匹を捕まえて号泣している。
だが、今の彼にとって、このバケツは、聖杯よりも重く、尊いものだった。
◆◇◆◇◆
「…で、本当に捕まえてきたの?」
数十分後。最上層『樹洞の聖域』。
帰還後、メルキオラスの転移魔法によって強制連行されたアレクセイは、畳の上で深く平伏していた。
その額は畳に擦り付けられ、全身は傷だらけ。
服は破け、髪は血と泥で固まり、もはやゾンビ一歩手前だ。
そんな彼を、こたつに入ってお茶をすする真音が、冷ややかな目で見下ろしていた。
アレクセイは顔を上げることなく、震える手で魔法のバケツを差し出す。
「は、はい…!クイーン、確保いたしました…!死ぬ気で、文字通り死ぬ気で…!」
アレクセイは涙ながらに訴える。
褒めてくれとは言わない。
ただ、この地獄のような苦労を、少しでも労ってほしかった。
「勇者くん、お疲れ様」
メルキオラスが、こたつから顔を出す。
「君の借金、今回の功績で利子が一日分免除されたよ。おめでとう」
「一日分…」
アレクセイの顔が絶望に染まる。
元金は二億四千万。一日分の利子免除など、焼け石に水だ。
「へえ。やるじゃない」
真音は身を乗り出し、バケツの中を覗き込んだ。
その瞬間。
彼女の瞳が、宝石のようにキラキラと輝いた。
「わあ…っ!すごい!見て!くまちゃん!この透明度、このプルプル感!」
真音の声が弾む。
彼女はうっとりと頬を紅潮させ、バケツの中のスライムを見つめた。
「やっぱりクイーンは違うわね!養殖モノとは輝きが段違いだわ。これなら…これなら、あの伝説の『極上ぷちぷち食感』が復活するわ!」
「あ、あの…!」
アレクセイが顔を上げる。
届いた。
俺の努力が、彼女を笑顔にしたのだ。
きっと感謝の言葉が――。
しかし。
真音がバケツから視線を外し、アレクセイを見た瞬間。
その顔から、感情という名の明かりが「フッ」と消えた。
「正直、途中でマンティコアの餌になってるかと思ったけど。しぶといのね、あんた」
「…え?」
声のトーンが、三オクターブほど低くなっていた。
さっきまでの笑顔はどこへ行ったのか。
そこには、道端の石を見るような虚無の瞳があるだけだ。
「あ、バケツはそこの棚に置いといて。…あああ!ちょっと!畳に泥つけないでよ!掃除したばっかなんだから!」
「…は?」
アレクセイの思考が停止した。
泥?
掃除?
俺は、命を懸けて、伝説の魔獣と素手で殴り合い、深層の主を捕獲してきたんだぞ?
スライムへの賛辞はあんなに熱烈だったのに、俺への評価は畳の汚れ以下…?
「なにボサッとしてんの。早く次の仕事に行きなさいよ。利子、増えてるわよ?」
シッシッ、と手で追い払う大家。
アレクセイは膝から崩れ落ちた。
マンティコアの爪よりも、スライムの槍よりも、この大家の「対象による激しすぎる温度差」こそが、勇者の心を最も深く抉り取ったのだった。




