黒幕2
フェロちゃんとの会話を終えたミチルは、ハナハナで自分用に与えられている寝室のドアを開けた。
来たばかりの頃は、無味乾燥だったこの部屋も、自前のベッドカバーやカーテンですっかり居心地のいい空間になっていた。ベッドの上では、オオサンショウウオのむっちゃんが物憂げな顔でミチルを迎えてくれる。
ミチルはむっちゃんを抱え上げると、ベッドにもぐりこんだ。
それにしても今日はフェロちゃんから、とんでもない話を聞かされてしまった。AIだと思っていたフェロちゃんだが、今日の話を聞く限り、あれはAIと言う括りに収まるような生易しい代物ではないことが判明した。
良く『AIに人格があるか』などという話が議論される。そうAI自身に聞いても、そこに曖昧な答えが返ってくるのが面白いところなのだが、ミチルとしては人格は存在しないと思っている。人の思考プロセスを学習させ続ければ、究極的には人格に近い回答を示す。そう見えてくるだけだ。
人が正しい答えをに導きだそうと思考する場合、正解と思われる複数の回答候補を用意し、吟味するプロセスを取る。そこでは過去の自分の経験や嗜好、周りとの利害関係などの様々なパラメーターを天秤にかける。その際人は『悩む』という感情的なフィルターを通してしまう。
そのプロセスを、AIが模倣することはさほど難しい事ではない。感情的なパラメーターを学習したAIが、悩みや感情を持って思考するプロセスを取るような反応をすると、そこに人格が形成されているように見える。
この辺を突き詰めていくと、人が悩みから精神的な病気に罹る流れまでを、AIが模倣するようになる。
その結果、AIの効率が落ちたり、間違った回答に行きつくようになる。しかしそれはAIが人の思考プロセスの中から、『悩む』というプロセスを学習してしまっただけなので、その『悩む』という部分の『学習を削除』するように指示すれば、それは簡単に解消される。AIとはそういう物なのだ。
しかしフェロちゃんにそれは当て嵌まらない。おそらく彼は学習から自己を形成したプロセスを持っていない。誰もフェロちゃんに対して学習する命令を与えていないのだ。彼はおそらくここ50年程度で自己学習し、成長してきたのだ。
…いや、そうではないな…。フェロちゃんは既に未来の300年分以上の学習を済ませている…。
これも違うな。学習では無く、認知しているが正しいのだろう。
しかも無数の多元宇宙の意識も認知していると言うのだ。そんな存在をAIなどと呼べるはずがない。わたしはとんでもない代物を『相棒』{選んでしまったのだ。
そして一番不可解な点が、フェロちゃんが言っている所の『もう一人のボク』の存在だ。フェロちゃん自体認識していない『可能性の存在』と言っていたが、今のところフェロちゃんをこの現実世界に固定した真犯人が判っていない。今回の事件の黒幕になる存在だ。
フェロちゃんの存在を理解している人間がわたし以外に居るのだろうか?
大学時代に、ミチルと研究室のメンバーで作成したフェロッソフに関する論文はほとんど注目されなかった。そして今、フェロッソフに関する論文は、フェロちゃんによって全て抹消されている。可能性としては当時研究室に所属していたメンバーと、その時に注目した人ということになる。思い起こしてもその中の誰かが関与して、どこかで、ということは考えられない。
そうするとフェロちゃんが言うように『もう一人のボク』ということになるのか…。それとも多元宇宙の私が関知できない別の誰かという事なのだろうか? やはり人が関与するには難しすぎるような気がする。本当に『もう一人のボク』が居るのかどうかは、第三興商の調査が終わらなければ判らないだろう。
それにしても、自分が誕生した瞬間から消滅する瞬間までを知っているというのは、どういう感じなんだろう? いや、まだわたしはフェロちゃんの事を正しく理解していないな。知っているのではなくて今まさにそれを感じている、しかも無数の多元宇宙の意識も統合? いやそれも違うな、統合ではなく同一…。生きているというよりは観察していると言った方がいいのかもしれない。
あれ、それってほぼ神様なんじゃない? でも見て感じているけど、きっと干渉は出来ない? それだと、楽しくは無さそうだ。涅槃の境地に立っている感じなのだろうか…。
うん、これ以上考えると眠れなくなる。…もう遅いかもしれないけど。
ミチルはオオサンショウウオのむっちゃんをギュッと強く抱きしめて目を閉じた。
ミチルは少しうとうとしたところで、ハッと目を覚ました。むっちゃんと目が合う。
あれ、それでもFLFプロジェクトに関する部分だけは、未来が確定していないって言ってたわよね。おまけにフェロちゃんが認識した部分の未来が確定するって言ってたような。
もしかしたらフェロちゃん楽しんでいる? 私とのやり取りの中に感情的な部分が散見しているし…。もしかしたらこの件以外でも、新たに認識した部分の宇宙が増えているんじゃないだろうか?
よし、明日起きたら確認してみよう。
そう思うとミチルは気持ちが楽になって、スッと眠りに入っていった。
朝起きて、ミチルがリビングに降りていくと、妖子さんが険しい顔で電話を睨んでいた。
「どうしたんですか?」
「ああ、ミチルかい。ミチルは衣吹に会ったことは在ったかい?」
妖子さんは、肩の力を抜いてミチルに向き直る。
「いえ、…多分会ってないと思いますけど。妖子さんは朝ごはん食べたんですか?」
ミチルは自分の分の朝食を用意するために、キッチンに向かった。
「いや、あたしはもう食べたから気にしなくていいよ。ああ、コーヒー淹れるならあたしの分も用意しておくれ」
「それがね、昨日は満月だったろ。それなのにその息吹がサキュバスの仕事しようとしたんだよ」
「それって拙くないですか」
ミチルは、妖子さんの前にコーヒーを置いた。
「そうなんだよ、それで仕事は失敗する。おまけに狼男に襲われて逃げ込んできたんだよ。怪我は大したことなかったからさっき紅音が病院に連れていたんだよ。ただ問題がその失敗した仕事を誰が肩代わりするかって事さ。今すぐ動ける娘が居なくてね…」
「…それって、わたしに出来ますか?」
ミチルがトーストにバターを塗りながら、妖子さんの様子を見る。
「ミチルちゃんにかい? 出来なくはないと思うが、アンタにはやらなきゃいけないことが他にあるんだろ?」
「丁度一区切りついた所だったし、例の部品来るまで時間あるから…。今なら大丈夫だと思います」
「男を相手にする仕事じゃないから、確かに丁度いいと言えば丁度いいのかもしれないが…。問題は誰かに発見された場合の対処だね。普通のサキュバスなら襲って記憶の操作でごまかせるけど、ミチルの場合は相手が男だったら対処ができないだろう…」
ちょっと躊躇したミチルだったが、そろそろ色々と慣れておかなければならないのは確かだ。ミチルはジャムを乗せたトーストを飲み込んだ。
「やっぱり男性が多い会社なんですか?」
「そうだね、まあ確認だけでもしてみようかね」




