ハナハナのお正月1
「それじゃ、わたし帰るから」
ミチルは帰り支度を済ませ、玄関で靴を履くために腰を下ろした。
「夕飯食べてから帰るって言ってたのに、もう帰るのかい。母さんは具合が悪いって言ってるから仕方ないが、もう少しまめに顔出してくれたほうが安心出来るからな」
玄関先まで見送りに来た父親は、特に変わりのない様子で立っている。ミチルと母親との会話を知ってか知らずか、いつもと変わらない。
この家に足を踏み入れるのは今日が最後になるのかと、ミチルは再度振り返るが、そこに大きな感慨が登ってくることも無かった。
「俺、送ってくから」
陽大がスタジャンを着て階段を駆け降りてくる。いつもなら別にいいと言って断るところだが、今日は特別だ。ミチルは弟が追いつくのを待ってから玄関を出た。
「お金、本当に大丈夫なの?」
歩きながら陽大は心配そうな顔をしている。
「そんなこと、あんたは心配しなくて大丈夫なのよ。結構いい仕事してきてるんだから」
「なんかヤバそうなことやってるもんな」
「ヤバくなんて無いわよ」
ミチルは笑って答えた。別の意味でヤバいことになってはいるが…、そこには触れずにおく。
「夕飯どうする、帰ってから食べるの。それともお姉ちゃんが奢ってあげようか?」
「うーん、今日は母ちゃん出てくるかわからないしな」
「そうだね、なら決まりだね」
「やったね」
陽大の笑顔がまぶしい。その笑顔も、姉が亡くなったという連絡を受けた時には泣き顔に変わるのだろうか。両親に対する気持ちの整理は出来たが、弟に対する心の整理までしたわけではなかった。
正月のブティックハナハナはシャッターを下ろしていた。店の入り口の門松だけが、正月が来ていることを表していた。
「ただいま」
ミチルはハナハナの勝手口のドアを開けた。『ただいま』の言葉が実家に帰った時よりも自然に感じる。
「あれ、泊まって来るんじゃなかったの?」
「そう思ってたんだけど、母さんと微妙な感じになっちゃったんで帰ってきちゃった」
いつものように、紅音はキッチンに立って片づけをしていた。
ミチルは脱いだ靴を手に、玄関にある靴箱のほうへ移動する。
「母親なんてそんなものよ」
何故かリビングにいた笑里がそう返してきた。
「笑里も来てたんだ」
「明日休みだから、ちょっとは正月気分味わおうと思って来たのよ。ミチル帰ってきたから会えて良かったわ」
「妖子さんは?」
「妖子さんなら今お風呂入りに行ったわよ。笑にそういう言い方されるのは聞き捨てならないわね」
キッチンから出てきた紅音が腰に手を当て、怒りのポーズをデモンストレーションしている。笑里に『母親とは』的な話をされたのが気に入らないらしい。そんな感じで、ハナハナにはいつもと変わらず穏やかな空気が流れていた。ミチルはすっかりここの雰囲気に慣れてしまっていた。
「夕飯はこれから食べるの?」
「ううん、外で食べてきたから大丈夫よ。アナは来てないの?」
「正月は忙しいって言ってたわよ。何をやってるのかしらね」
「知らないんですか?」
ミチルは小皿に数の子と煮しめを取り分けた。
「アナは自分のことあまり話したがらないからね」
サキュバス同士で、その辺の情報交換は出来ているものなのだと思っていたのだが、そういうものでもないらしい。笑里もあまり気にしていないようだ。
「もともとアナが今みたいに入り浸っていることが珍しいのよ。ミチルのこと連れてきてからよ。当たり前の顔して居るようになったのって。やっぱりミチルのこと心配してるんじゃないかしら」
紅音はミチルの前にお餅抜きのお雑煮?を置くと、キッチンに戻っていった。
アナには最初から迷惑ばかりかけていると思っている。いつも面倒くさそうにしているが、確かにミチルに何かあった時には必ず手を差し伸べてくれていた。
「妖子さんから聞いたけど、ミチルの名前変わったんですって?」
笑里が伊達巻をつまんでお茶をすする。
「サキュバスの登録上は橘ミチルになってます。橘は母方の旧姓なんでわたし的には違和感無かったんです」
「へぇ、橘にしたんだ…」
「そうね、ミチルの部分が変わらないなら呼び方も間違えなくていいわね…」
「おや戻ってたのかい? 泊ってくるって話じゃなかったっけ?」
妖子さんが風呂から上がってきた。化粧を落とし、ぶかぶかの室内着にタオルを被った姿はただのおばさんである。
「ちょっと弟の進路の話で母親と微妙な感じになっちゃったんで、戻ってきちゃいました」
「ふーん、人の家族っていうのは面倒くさいね。戸籍の話はして来なかったのかい?」
「とてもそんな雰囲気じゃなかったし、いいんです、決心はつきましたから。時機を見て事故死扱いにしてもらおうと思います」
「あたしはいいけどね。それじゃあ、その時期ってのを後で相談しよう。あんたたちも早めに風呂入りな」
妖子さんはダイニングの椅子に腰を下ろすと、紅音の淹れたお茶に手を伸ばした。
「そういえば、向こうで梓さんに会いましたよ」
妖子さんはちらりとミチルの様子を見るが、何も言わなかった。
まずい話題だったのだろうか?
「ええ? 梓ってあのキツイ感じの娘でしょ。話なんてできたの?」
紅音がエプロンを取って、自分の分の湯飲みを持ってきた。
「地元の神社でたまたま会って少し話したんですけど、気さくな感じでしたよ」
「へぇ~、意外なのね」
「何? その梓って人」
「あら、笑は会ったこと無かったかしら? たまに来るお客さんなんだけど、愛想悪いの。余計なこと言わないんだけど、大抵一言嫌み言ってから帰るのよ」
「そうそう、そんな感じだったんですけど。向こうから声掛けて来たんですよ。お店で対応したこと覚えてくれてたらしくて。ちょっと話しただけなんだけど、また会いましょうとかって言ってました」
「確かに別に悪い娘じゃ無いよ。ただあたしと相性が悪いだけさ。気にしないどくれ」
妖子さんが何か含んだ物言いをするのは珍しい。そこは何かあったのだろうと察して、それ以上は誰もその内容を聞かなかった。
「それじゃ、私お風呂先に入っていいですか?」
「外冷えてたからね。温まってきなね」
「うん、ありがとう」
ミチルは2階の自分の部屋に移動すると、パジャマを用意して風呂に向かった。
今日は疲れた。
翌朝、ミチルが顔を洗ってダイニングに行くと、アナが残った『おせち』をおかずに朝食を食べていた。
「おはよう。アナも来てたのね。お正月忙しいって聞いてたけど…」
かわいらしい赤いセーターは、お正月を意識しているのだろうか?
「区切り付いたから来ちゃったわ。昨日紅音からミチルが帰ってきてるってメール来てたし…」
あれ、やっぱり気にしててくれたのかな。そう思うとなぜか頬が緩んだ。
「なに、その顔は」
アナに目ざとく指摘されるが、ミチルは気にしないふりをして、自分の分の朝食を用意する。
トーストにハムを乗せ、コーヒーを淹れてカフェオレにしよう。そう思ってコーヒーメーカーの準備をしていると笑里がパジャマのまま起きてきた。
「笑ちゃんもトーストでよければ一緒に焼くけど…」
「…、ああお願いします」
「飲み物はコーヒー? それともカフェオレにする?」
「…カフェオレがいいかな」
笑里は眠そうな顔で、大きくあくびをした。
3人が朝食を摂っている所に紅音が入ってきた。紅音は着替えも済ませ、きっちりと化粧も済ましている。さすがだ!
「私の分の数の子残しといてって言ったわよね」
開口一番、テーブルの上の『おせち』の確認をする。
「大丈夫よ。まだ冷蔵庫にしまってあるから」
「何言ってるのよ、あれはまだ味付けしてなくて直ぐには食べれないのよ。もぉ~!」
相当楽しみにしていたのだろう。紅音はぷくっとほほを膨らませている。
「わたし、何か用意しましょうか…」
ミチルが立ち上がろうとすると、アナが首を横に振った。
「気にしなくていいのよ。紅音は言ってみたかっただけなんだから」
「どうせそうですよ。あ、ミチルちゃんありがとうね。私は適当にそこのつまむから気にしないで」
そう言えば、何時もなら一番最初に起きてくる妖子さんの顔がまだ見えない。
「…妖子さん遅いですね」
「妖子さんなら昨日遅くまで何かやってたから、昼まで起こすなって言ってたわよ」
そういうこともあるんだ。ミチルは何故か感心する。
「それで久しぶりの我が家はどうだったの?」
「アナもそれ聞くんだ…」
ミチルのどんよりした様子に紅音がフォローに入る。
「お母さんと喧嘩したんですって。それで逃げ帰ってきたらしいの」
「そこまで酷くはないわよ。喧嘩もしてないし、逃げてきてもないわよ」
「あら、そうだったかしら」
紅音はいつも通のり優しい笑顔だが、意地悪そうな表情が見え隠れしている。
「今日はみんなで初詣に行きましょう。全員分の着物も用意してあるわよ」
紅音は元気だが、皆の反応は微妙だ。
笑里は着物は面倒なので着たくないと言うし、ミチルはそもそも着物など着たことが無い。アナに至っては昨日遅くまで掛かった仕事の後なので、この後は寝たいと言う。
「なぁに、みんなつれないんだから。お母さんは楽しみにしていたのよ」
笑里以外はそもそも母親になってもらった記憶などない。
「ところで、狼男に連絡とる方法ってあるんですか?」
ミチルが空気を読まない発言をすると、全員がギョッとした表情でミチルの顔を見た。




