満月の夜 2
「お前たち羽目外して後で始末書書くようなことするんじゃないぞ」
「解ってますよ。隊長じゃないんだからそんなヘマしませんって」
「何言ってやがる、オレが下手を打ったのは生涯で3回だけだ」
満月のたびに事務所に広がる笑い声に苦笑いをする志茂田隊長だった。
「それじゃ行ってきます」
それぞれ挨拶をして事務所を出ていく狼男どもを目で追いながらため息をつく。
「隊長は行かないんですか?」
最後に残った優雨丞が隊長に声を掛ける。
「もうそんな歳じゃない、片付けたら筋トレでもして発散するさ。優雨丞は今日はどうするつもりなんだ」
「オレですか? 熊狩りにでも行ってきますよ」
「ああ、健康的でそれがいいな。売り物に出来るように加減しろよ」
「それは無理かもしれませんね」
そう言って片目をつむると、優雨丞は事務所を後にした。
それにしても満月は面倒だった。満月の夜には狼男の血がたぎり、自分の制御が出来なくなる者が多い。下手に事件を起こそうものなら後で揉み消しに苦労することになるのだ。揉み消し工作を自分たちでしなければならないわけでは無いが、報告書と当人の処罰で後が面倒になるのは毎度のことなのだ。
窓の外では狼男がそれぞれ車やバイクで散っていくのが見える。街中に残るのはそう多くはないだろうが、自分の足で走り去る姿も見える。どこで何をするつもりなのやら。
志茂田隊長は50を過ぎる自分の過去を思い返していた。
裏で悪さをしていた警官に報復に行って、警察署で大暴れしたのは今では伝説になっている。あの時は警察署を全壊させてパトカーを3台スクラップにしたんだった、あれは楽しかった。あの時の警部補の引きつった顔を思い出してニヤリと笑う。
サキュバスを追いかけたのもいい思い出だが、あの娘は今頃どうしているのだろうか。消息は分からないが、きっとどこかで自分の子供も元気に育っているのだろう。
サキュバスの子供は国から手厚く保護されている筈なので、父親の狼男が心配する必要は無いのだが、ちょっと寂しい気もする。一度くらい会ってその姿を確認してみたいと思ったこともあるが、それは叶わない夢だった。
「さてオレも出掛けるか」
志茂田隊長はパソコンと書類を全て引き出しに仕舞い、鍵を掛けた。
今ではそこまでたぎる事も無い。ランニングをして筋トレに集中する程度で十分に治めることが出来るのだった。
「このまま ただ走っているのも面白くないな」
「なら堂々町の電波塔まで競争と行こう」
「地面を走るのは無しだ」
「いいぞ、負けたほうが明日の昼飯奢るってのでどうだ」
「いいな、それで行こう」
陸駆と大地は町に残ってビルの合間を走り回っていた。2人とも既に人間の姿ではない。いわゆる狼男の外見に変身していた。
変身後の状態には個人差があり、実際の狼同様に口が大きく割けた完全な狼ヘッドに成る者から、人の顔の形状のまま狼の毛で覆われる所で完了する者まで様々である。
いずれにしても全身毛が生え、筋肉が強化されることには変わりはない。
陸駆は大地の姿を横目に見ながらビルからビルへと飛び移る。全身の火照りにあたる風が気持ちいい。
満月の夜に狼男が変身して人を襲う伝説は既に過去の話になっていた。現在では国の管理下にあり、間違いが起きないよう組織化されて教育もされている。
とは言っても満月になるたびに血がたぎり、じっとして居られず暴れたくなる激情が起こることに変わりはない。そのためにその夜は一般の人間に知られない範囲で何らかの形で暴れまわり、発散することが必要になっている。
通常は郊外に出て、人家の無いところで発散するのだが、スリルを求めて街に残るバカも出てくる。今まさに陸駆と大地はそのバカの仲間入りをしているのだった。
「ウォーイ」
雄叫びを上げてビルの屋上を走り抜ける。目の前のフェンスを突き破りたい衝動に駆られるが、そこは抑えてフェンスの上に飛び上がって、ジャンプで乗り越える。そんなことをすれば後で始末書が待っているのだから。
大地は別コースを取ったのか、今や視界に入らない。
町の喧騒と言う言葉があるが、こうしてビルの間を掛けていくとそう言った騒音と言うものはあまり感じられない。むしろ、自分が切り割いていく空気の動く音が静けさの中に際立っていた。眼下に見える車の移動する光とビルの灯りのコンビネーションが視界を流れていくのが、沸き立つ衝動を抑えてくれるように感じられ、心が静かになっていく。
いつの間にか陸駆は競争の事を忘れて、ビルの間を駆ける行為を楽しんでいた。
ふと何かの気配に上を見ると、黒い影が上空を舞っていた。サキュバスだ。
今のように満月の夜に上空を飛び回るサキュバスの影を見る事はままあるし、そう珍しい事でもない。この界隈にも何人か居るということは周知の事実だった。
陸駆が実際に活動中のサキュバスに会ったことはそう多くはない。しかしサキュバス化していないサキュバスと出会う可能性は更に低い。先日会社で出会った2人が初めての人のままのサキュバスだった。
偏見かもしれないが、やはりサキュバスと言えば男をたぶらかす妖艶な悪女のイメージがある。
しかし優雨丞の母親の方はちょっと近寄りがたい感じはしたが、2人ともごく普通の可愛らしい女の子に見えた。陸駆がイメージしていたサキュバスのイメージではなかった。
しかし考えてみれば、自分の母親にそういったサキュバスの既成概念は当てはまらなかったし、実際にはそんなものなのかもしれない。その母親も今は故郷でサキュバスの仕事をしているのかと考えると不思議な気がした。
陸駆は独り立ちしてからは故郷を離れて、ここの狼男の組織に加わっている。優雨丞のように母親と再会するなどと言うことは無いのだろう。
上空を舞っていたサキュバスの姿はいつの間にか消えていた。
そもそもサキュバスは飛行中、認識阻害を行っているので人の目ではほぼ認識できないらしい。狼男の感覚を持って初めて視認できるのだが、それでもキチンと見えるわけでは無い。レーダーにも映らないと聞いているが、実際のところはどうなのだろう? さすがに眉唾だとは思うが。
おっと、無駄なことを考え過ぎていた。大地の奴が先行している。
陸駆はコースを変更するとスピードを上げた。
陸駆は突然現れたそれを認識できなかった。工事現場の上空を飛び抜けたはずだったのだが、左足に何かが絡み、身体を持って行かれる。崩れたバランスを立て直そうにも左足に絡んだ何かのせいで身体が回り、そのまま地面に落下した。
「グホッ」
全身に衝撃が走り、地面を転がる。やっちまった、と陸駆は思って身体を確認する。幸い左足に絡んだ物は外れているようだが、その左足が重い。
落下した地面が草むらになっていたのが不幸中の幸いと言えた。コンクリートやアスファルトに落下したとなれば、この程度では済まなかっただろう。
陸駆は起き上がろうとしたが、左足が動かない。これはマズいな。
大地を呼ぼうにもスマホが無い。どこかに落としてしまったらしい。おまけに陸駆が倒れている場所は丁度暗がりになっているので、誰かに見付けてもらうというわけにもいかない。
始末書を書けと言っていた志茂田隊長の言葉を思い出す。
と、その時陸駆は満月の中を何かが横切ったのに気が付いて上を見上げた。
サキュバスが円を描くように飛びながら、緑色に光る眼で自分を見下ろしていた。そしてそのサキュバスは音も無く陸駆の横に着地すると、陸駆の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? な訳ないわよね」
陸駆はこんなに間近にサキュバスを見るのは初めてだった。満月の光の中で影になって顔立ちははっきり見えないが、暗闇に溶け込むような黒い衣装とコウモリの翼、そこから延びる白い手足。吹き出すフェロモンに陸駆は頭がくらくらして思考が麻痺してくるのを感じた。
「ああ、ごめんなさい。空を飛ぶときはフェロモン出してるから、興奮しちゃうわよね」
そのサキュバスが翼をたたむと、確かにフェロモンの量が減って少しは頭が働くようになる。その『興奮する』の言葉の意味を理解して、陸駆は赤くなった。もちろん暗闇で分からないとは思うが。
「それにしてもひどい格好ね、歩ける?」
「…無理かも」
立ち上がろうとするとサキュバスが手を貸してくれたのだが、その手の柔らかな感触と香りが陸駆を誘惑する。陸駆は身体の中心から何かが起き上がりそうになるのを必死で抑え込んで座り直した。息が荒くなる。
「救急車とかって呼んでも大丈夫なの? 狼男の場合」
覗き込んだサキュバスの顔は満月の光の中で白く浮き上がり、切れ長の目の奥で光る緑とサラサラと揺れる緑色の髪が陸駆の魂を揺さぶった。
「あんまり良くないかもですね。事務所に連絡したいんですが携帯を落としたらしくて…」
陸駆は無理やりサキュバスの顔から眼をそむける。
「番号言ってくれれば掛けてみましょうか」
サキュバスが自分のスマホを取り出したので、陸駆が番号を伝える。しばらくすると少し先の草むらの中で陸駆のスマホが反応した。
「はい、後は大丈夫かしら」
そう言ってサキュバスが陸駆のスマホを差し出す。指先が触れる感触に慌てて陸駆は手を引いた。
陸駆は先に大地に連絡をしてから志茂田隊長に連絡をする。電話先から怒鳴り声が聞こえ、陸駆は携帯を耳から遠ざけ、その大声をやり過ごしてから救援を頼んだ。
その間何故かそのサキュバスは楽しそうにそのやり取りを見ていた。
「怒られちゃったみたいね」
「そうですね」
「満月の度に、いつもこんなことしてるの?」
「いや、今日はちょっと冒険的な感じで…」
「ふーん、そうなんだ」
「サキュバスっていつもそんな恰好なんですか? あ、そんな恰好ってそういう意味じゃ…」
ドギマギしながら陸駆は訂正する。
「そんな恰好よね、別にいいのよそう思ってもらっても。これは男を捕まえるための衣装だからそういう物なの。今日も本当は男を捕まえようと思ってきたんだけど、狼男が面白いことやってたから見てたのよ。本当はあなたでもよかったんだけど、…その身体じゃ無理よね」
「で、でも狼男相手だと妊娠するって…」
陸駆はしどろもどろになって答える。
「そうよ、子供が欲しいからわざわざ満月の夜に出て来たんだもの。でも今日は興がそがれちゃったからもう止めにするわ」
「あら、そろそろお仲間が来たみたいだから私は失礼するわね。また今度機会があったらね」
サキュバスは陸駆にウィンクをすると翼を広げた。
辺りにフェロモンが広がり、ふわりとサキュバスが浮き上がったかと思うとあっという間に上空に消えていく。
今度会ったらってどういう意味なんだ…、と色々な意味で興奮冷めやらない陸駆だった。
サキュバスが去った後、到着した大地はサキュバスが残して行ったフェロモンに興奮してしばらくは陸駆の心配をしているどころではなくなってしまったのだが、これは致し方の無いところだろう。
そしてその後車で迎えに来た志茂田隊長からこっぴどく叱られたのも当然の事であった。
その夜、ブティックハナハナの屋上に一人のサキュバスが降り立ち、屋上のドアを開けて静かに中に入って行った。
妖子さんはそれに気づいていたが、その後それに関して誰かに確認するような事は無かった。




