梓
チリリン、店の中に軽いベルの音が響いた。
「出来てるかしら」
ハナハナの入り口にはベージュのボアジャケットを着こんだ1人の若い女性が立っていた。年のころは紅音より少し上、フワフワの柔らかそうな枯茶色の髪が肩に掛かっていた。
「ああ、出来てるよ」
妖子さんは立ち上がって、店の左奥の黒い木製ドアを開けてその女性を中に案内する。
壁は黒光りした木材の羽目板、床には藍色を基調にしたタイルを丁寧な模様として敷き詰めてあり、上を見れば格子天井に古めかしい照明器具。決して広いわけでは無いその部屋は、ハナハナの応接室であり、衣装の確認や商談をするための部屋になっていた。
「今用意するからそこに座って待ってておくれ」
妖子さんは部屋の中央に置いてある大きなテーブル横の椅子を示した。そこのテーブルと椅子も年代物であることは一目見てわかる。
「相変わらず趣味の悪い部屋ね」
その女性は椅子を引いて腰を下ろしながら、チラリと部屋の様子を確認した。
言葉では趣味が悪いと言ったが、古い洋館の一室と思えば華美なところは一切無く、調和がとれて格式のあるものと言える。ただしこの部屋の存在が、表の店の雑然とした空間から一歩入った場所だと言う違和感は何度来ても慣れないものだった。
「あんたに言われたくはないもんだよ…」
そう言って妖子さんは奥のドアを開けた。
「未千流はいるかい?」
妖子さんがダイニングを覗くと紅音が台所で洗い物をしている。
「2階で仕事してると思うわ」
「今、梓さんが来てるからお茶の用意をしとくれ。それで準備が出来たら給仕を未千流に頼んでくれないかい。サキュバスのお客がどういうものなのか知っておくいい機会だからね」
「また突然なんだから、未千流ちゃん可哀そうじゃない」
紅音は洗い物の手を止めて顔を上げた。
「何言ってるんだ、色々覚えなくちゃいけないんだから丁度いいんだよ。まぁ、無理そうだったら紅音が持って来てくれればいいさ」
「頼んだよ」
妖子さんはそう念を押すと、衣装室に向かった。
「どういうことなの?」
未千流の戸惑いは尤もなものだった。プログラムの仕事中に呼び出されたと思ったら、いきなりお客さんにお茶を出しに行けと言うのだ。
「応接室解るわよね、今そこにサキュバスのお客さんが来てるの。それで未千流他のサキュバスの娘って知らないじゃない。だから見とけって話なのよ。これからお茶は入れるから未千流ちゃんは持って行けばいいだけなんだけど」
と言われても…
「基本的には、お茶ですよぉ~って持ってったら後は母さんが適当にあしらってくれる筈よ。もしかしたら紹介してくれるかもだけど、ちょっと私やアナと雰囲気違うから。確かにいい勉強にはなるのかも…」
苦笑いをしている紅音の表情を見る限り、いい話とは思えない。雰囲気が違うというのも気になる言葉だ。それでも妖子さんが勉強になるというからには断るわけにはいかないのだろうと諦める。
「ノックして入ればいいのよね…」
未千流がドアの前で小声で確認すると、紅音が頷いて小さく手を振る。何でバイバイなんだよ。
コンコンとドアをノックすると、中から妖子さんの声が聞こえたのでゆっくりとドアを開ける。解ってはいたことだが、応接室だけは古式ゆかしい別世界になっている。
背中を向けている妖子さんの向こう側には緑色のレースのワンピースにフワフワの髪という女性が座っていた。未千流はその女性に軽く会釈をしてから部屋に入る。
「そこのテーブルに置いとくれ」
すかさず妖子さんがお茶を置く場所を指示してくれたのでホッとする。
妖子さんと女性が囲んでいるテーブルの上にはドレスケースが置いてあって、その中にサキュバスの衣装が畳まれていた。アナの真っ黒の衣装とは違って、真っ赤なラメの入った生地がベースになっていて、そこに黒い縁取りが入っているデザインになっている。
未千流は黙って、小さなサイドテーブルにお茶のトレーを置き、ティーポットから2人分の紅茶をカップに移した。
「うちに新しく手伝いに来てくれている未千流って娘だ。お茶はそこのテーブルに置いておくれ」
妖子さんが未千流を紹介がてら、別の小さなテーブルにカップを持って行くように指示するので、2人分のカップとクッキー包みの入った小皿を隣のテーブルに置いて再度会釈をする。
「西糖 未千流と言います」
未千流が挨拶をしてもその女性はチラリと目を向けただけで何の反応もしなかった。
何、この客、感じ悪い!
「未千流はそこで待ってな」
はい解りました、と頭の中で唱えて手を前に揃えて待機のポーズ。視線はどこに置いたら…。
「それで、試着はするかい?」
「別にいいでしょ、信用してるし。何かあったら持ってくるわ」
ぜひ着たところを見てみたいと思ったのだが、お客さんが着なくていいというので妖子さんはドレスケースの蓋を閉じてしまった。とても残念である。
「それで、持って帰るのかい?」
「そうね、そうするから袋用意してくれる」
「未千流、紅音に言って袋用意してもらって来とくれ」
「あ、はい」
急に言われたので、躊躇った未千流だが、落ち着いているふりをして部屋から出た。部屋を出たところに紅音が居て声をこらえて笑っている。
「酷いじゃないのよ」
「だって可笑しいわよ」
ひそひそ声で文句を言うが、自分でも笑われても仕方が無いとは思う。でも酷いのは間違いない。
「はい、袋はこっちだから…」
未千流は紅音から紙袋を受け取ると再び応接室に戻る。入りたくないと思いながらドアをノック、今度は答えを待たずにゆっくりとドアを開けた。
妖子さんはクレジットカードの処理をしていて、お客さんは紅茶を飲んでいる。テーブルの上にはドレスケースがしっかりと閉じて置いてあった。
「そこの箱を袋に入れとくれ」
未千流はテーブルの上のドレスケースを袋に入れる。紙袋はケースにぴったりとしたサイズなので意外と入れにくい。
妖子さんが店に続くドアを開けると、女性はコート掛けに掛けてあったボアジャケットを手にして応接室を後にした。部屋の外は何時もの工房、未千流は何故かそれを見てホッとした。
未千流は店の出口のところで女性にドレスケースの入った紙袋を手渡し、深々と頭を下げる。
「ありがとうございました」
お客の女性は、その時初めて未千流の事を認識したかのように頭の先から足先までをねめ回した。
「見ない顔ね」
呟くようにそう言うと、そのまま振り返る事も無く夕闇の中に出て行った。
「相変わらず嫌な感じねぇ」
その声に振り返ると紅音が未千流の後ろに立っていた。
今日の夕飯は紅音の手作りハンバーグ。しかしお皿にライスが乗っているわけではなく、お茶碗にご飯、そして味噌汁。あくまでおかずの一品としてのハンバーグである。
今日もアナは戻っていないので妖子さんに紅音と未千流の3人で食卓を囲んでいた。
「あの娘はね、伝統的と言えば伝統的なサキュバスなんだよ」
「そうなんですか?」
「物は言いようよね」
紅音が先程のサキュバスのお客さんを嫌っているようなのだが、不思議と妖子さんが擁護している。
「未千流はアナの狩りの仕方は見たんだったね」
「あ、はい」
食事をしながらしたい話ではないが、ここは仕方がない。
「アナも紅音も、基本的には精魂を吸ったらそれでお終いなんだが、あの娘はそうじゃないんだ」
「どう違うんですか?」
「男を虜にして吸いつくすんだよ」
「吸いつくす…」
「ああ、気に入った相手を見つけたら何度も何度も精魂を吸って、相手が駄目になるまで吸いつくす。使えなくなったら別の相手を探す。効率が良いんだよ。昔のサキュバスは皆そうだったらしい、だからサキュバスのイメージってのはそういう風になっているのさ」
確かに、サキュバスのイメージってそういう感じだ。
「アナは首筋に齧りつくだけだが、あの娘はきっちり交合して、精液毎しっかり吸い取るんだよ。そっちの方が吸収の効率もいいからね。そしてその快楽の記憶を残して、虜にするんだ。何度でも、使える間は繰り返し精魂を吸って男の人生をダメにする。本当にサキュバスらしいだろ」
未千流は何も言えなくなった。食欲も無くなるし、食べ終わっていて良かった。
「昔はそれでよかったらしい。使えなくなった男を捨てるんじゃなくて絞り殺すのも当然ってね。相手がダメになったら別の所に移動して新しい相手を探せばいいだけだ。今みたいに情報社会じゃないから、よほどのへまをしない限りそれで済んだのさ。今でもこうしなくちゃいけないって決まりは無いから、サキュバスの存在がバレない範囲でやってれば教会も文句は言わない」
「でもあたしも梓みたいなタイプは好きじゃないよ。衣装を仕立てる立場からしても、あの娘みたいに扱い方が荒いのは好きになれない。ああ、梓は彼女の名前だね。まぁ、この後知り合いになるかは判らないけど、ああいうタイプもいるってことなんだよ」
「知り合いになんてならないほうがいいわよ」
紅音が横から口をはさんだ。
お近づきにはなりたくないと未千流も納得したが、妖子さんが言うように勉強にはなったことも確かだった。




