西糖 未千流1
「さて、それでこれからの話なんだが、1週間もすれば少しは未千流ちゃんの様子も判ってくるだろうが、最低でも1ヶ月は今までの生活に戻れない。そうなると仕事を長期で休むことになるから、こっちの伝手を使って入院してる事にしようと思ってる」
妖子さんは難しい顔をしていた。急な入院とかって言葉で言うのは簡単だが、旨くやらなければすぐにボロが出る。
「あ、仕事の事なら心配しなくて大丈夫です。わたし会社とか行ってないし、個人でプログラムの仕事請け負ってるんで、ここで場所借りれるなら続けることは出来ると思います。そのつもりで道具も持って来てますから」
「おや、そうなのかい…」
未千流の言葉に意表を突かれて、妖子さんは言葉に詰まった。
「ただ、そんなに長期間になるとは思ってなかったんで、機材が足りないんです。一度戻らないといけないんですけど、どうしましょう…」
タクシーで失敗したばかりなので、かなり不安がある。
「それってあたしが行って取って来るって訳には行かないの?」
アナが気を利かせてくれたが、未千流は首を横に振る。
「自分で行かないと無理」
「なら紅音が店の車出してあげな」
妖子さんが紅音に提案すると、紅音は当然のようにそれを受け入れる。
「それって早い方がいいのよね、そういう事なら明日でも大丈夫よ」
「紅音さんはそれでいいの?」
未千流はあまりにも簡単に話が進んだので、迷惑になるのではと心配になった。
「いいも悪いも無いでしょ、それ無いと困るんでしょ」
アナは美千留の戸惑っている顔を見て楽しそうな表情を浮かべる。
「簡単に済みそうでよかったね」
「それじゃああたしも風呂に入って休むから後片付けしといておくれ。明日の事は紅音に頼んだよ」
妖子さんはそう言って、リビングを出て行った。
未千流が与えられた部屋に戻って時計を見ると、まだ10時にもなっていない。いつもならこれから佳境に入る時間だったが、今日は疲れた。
考えてみると、アナに初めて出会ってからまだ1週間も経っていないのだ。色々ありすぎて目が回るようだった。壁際に置いてあるキャリーバッグの中身も出していないが、今手を付ける気は起きなかった。
紅音さんから借りている服は着替えなければ、と思いながらも未千流は部屋の灯りを消し、そのままベッドに潜り込んだ。
未千流が寝入った後、暫くしてドアをノックする音がしたが、未千流の耳に届くことは無かった。
次の朝、妖子さんは誰よりも早く起き出した。店の掃除を終わらせ、仕事に入れるように準備をする。とは言っても、前日の夜にアナと一緒に掃除は済ませてあるので、実際には道具の確認をして、今日の段取りを確認するのと言うのが主な内容なのだが。
「未千流ちゃん、起きてる?」
紅音がドアをノックした。未千流は目覚ましもかけずに寝入ってしまったので、ノックの音に飛び起きることになった。
良くある話ではあるが、自分の部屋でないことに驚き、その後でやっと今の場所と状況を思い出すという有様だった。
「ご、ごめんなさい。いつの間にか寝ちゃってて」
ドアの隙間から覗いた未千流の顔があまりに眠そうなので、紅音は思わず笑ってしまう。
「慌てなくていいから、起きてらっしゃい。下に来てから朝ごはん用意するから」
この部屋に洗面台は無いので、未千流はTシャツとジーンズに着替えると、化粧道具を抱えてバスルームに向かった。
鏡の中の未千流の髪はボサボサ、目の下にクマは出来ていて、寝不足の起き抜けを絵に描いたよう。この顔を紅音さんに見られたのだと思って未千流は落ち込んだ。なんとか誤魔化そう。
ダイニングではの斜めに差し込む朝日の中、妖子さんが先に食事を始めていた。
「おはようございます」
「…朝からなんて顔してるんだい」
誤魔化しきれていなかったようだ。
「あ、駄目ですか?」
「その顔じゃ店には立てないね」
「母さん、未千流ちゃん疲れてるんだから意地悪言っちゃだめよ。未千流もそこに座ってて。トーストはバターだけでいい? それともジャム塗る?」
キッチンからは紅音の声がする。
「あ、ありがとう、バターでいいです」
椅子に座って落ち着くと、脛は痛いし体中が筋肉痛だった。そう言えば昨日はトンネルの中を必死で走ったんだっけ。何回も転んだんだし、この位で済んでよかったんだろうな。そう思って左手を見ると、腕の内側に青い痣が出来ていた。
「はい、準備できたわ」
紅音さんは未千流と自分の分のトーストを運んできた。
「今カフェオレも持ってくるから」
「あれ、アナはまだ寝てるの?」
アナの姿が見えないので、もしかしたら自分の方が早く起きたのかと期待をしたのだが、妖子さんの答えはその期待には応えてくれなかった。
「アナなら早く起きてさっさと出掛けたよ」
「そうなんですか…」
未千流は何故か少しだけ残念な気持ちになった。アナの顔を見れなかったせいなのか、それとも自分が遅くまで寝ていた事によるのかは自分でも解らない。
「今日は直ぐにでも出掛けるかい?」
「いえ、持ってきた端末繋いで確認してからにします。えーっと、部屋にネットワークは繋がってますよね。それが無いと何も出来ないんで」
「そこら辺はあたしにゃ解らないから、紅音に聞いとくれ。それじゃああたしは店の方に行ってるよ」
妖子さんはおもむろに立ち上がると自分の食器を片付ける。
「大丈夫よ、ネットワークは各部屋に通ってるし、セキュリティー対策もしてあるって話よ」
相変わらず紅音は嬉しそうにだ。
ネットワークが来ているなら一安心、それが無ければ文字通り仕事にならない。それにしてもセキュリティーとは、往々にしてそういったものは邪魔なだけなのだ。
部屋に戻った未千流はバッグの中から愛用の端末を取り出した。この端末はタクシーの情報操作の時に使ったものだ。大学時代に研究室で独自に開発した物で、AIネットワークの末端として機能するようになっている。外見は手のひらサイズより少し大きい黒い立方体の塊。市販されているものではないので、誰が見ても用途が判らない代物だ。
小型のタブレットをモニター代わりにして端末をネットワークに繋ぎ、ハナハナのセキュリティーと言うものを確認する。
まあ、確かに一般的な企業用と考えれば標準的なセキュリティーと言える。これならば仕事上問題になる事も無いだろう。変にガチガチに固めてあったりすると、逆に困るものなのだ。
未千流は昨日一日分のメールを確認。緊急性のある案件は無かったので、必要最小限の対応をしておいた。
しかしこの端末だけではプログラムの仕事は出来ない。きちんと仕事をするためには、機材一式持ってくる他ないのだが、モニターくらいは現地調達で対応しても良いかもしれない。あとは念のため電源回りも確認しておくべきだろう。
今日は家から機材を取って来たとして、その後は仕事用の環境を整えるだけで精一杯になりそうだった。
一通り確認を済ませた未千流は、妖子さんへの報告を兼ねて店の様子を見に行った。
「仕事できるか確認してきたんですけど、そこは問題なさそうです」
「なら紅音に言って車用意出来てるか確認しときな」
妖子さんは作業台に生地を広げて裁断をしているところだった。未千流は初めて見る妖子さんの滑らかな手さばきにちょっと感動する。洋裁とかって中学の家庭科以来だし、プロの仕事場は想像と全く違っていた。
「どうかしたのかい?」
妖子さんが顔を上げる。
「あの、すごいなって思って…」
「何言ってるんだい。自分が知らない仕事は凄そうに見えるもんなんだだよ」
ふんっ、と妖子さんは鼻を鳴らす。
「それって、サキュバス用なんですか?」
「そうだよ、あんたもサキュバスってことが確定したら作らないといけなくなるから、考えときな」
考えるって何を考えるんだろう? 未千流は疑問に思う。
「サキュバスの衣装ってどの位するんですか…」
未千流がそこで思いついたのは値段の事くらいだ。
「アナの衣装は見たね。あれで30万ってところだ」
妖子さんは手を止めて腰を伸ばした。
「た、高いんですねぇ」
「オーダー品だし、生地も特殊な物使うから、その位にはなっちまうんだよ」
そんな話をしているところに紅音が奥から顔を出した。
「未千流ちゃんたらこんなところに居たのね。お昼食べてから行くの? それともさっさと出掛ける?」
「ああごめんなさい、準備できてるからすぐに出られます」
「それなら、車回してくるから店の前で待ってて」
未千流が店の前で待っていると、boutique hana hanaというロゴが大きく書かれたチョコレート色のバンがやって来た。運転席では紅音さんがハンドルを握っている。
今更だが未千流は紅音さんが運転できることに感心した。
「それじゃナビに住所入れてちょうだい」
紅音さんが音声入力のスイッチを入れ、未千流がマンションの住所を読み上げて準備完了となった。
「おやつと飲み物、そこのバッグに入ってるから。いつでも出していいわよ」
車を発進させた紅音は楽しそうだ。なんといっても今日はこれから未千流と2人で楽しいドライブなのだから。
未千流のマンションの前に車を停め、エレベーターで3階に上がる。
玄関を開けると廊下の向こうのリビングまでが良く見えた。未千流は散らかった自分の部屋を目の当たりにして恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。
「うわー。未千流ちゃんってこんな所に住んでるんだ。羨ましいわ」
「そうかしら、普通だと思うんだけど」
未千流の気持ちとは反対に、紅音は美千留の部屋に入ったことだけで既に感激している。
部屋の中は冷え切っているので2人の息は真っ白に広がって行く。未千流はエアコンのスイッチを入れ、紅音にリビングの椅子を勧めた。
「それじゃ、わたしは仕事の道具まとめるから、ここで少し待ってて」
「それなら私は食料品の整理をしてもいいかしら。痛むものは処分しておいた方がいいし、持って行けるものは店まて持って行った方がいいわよ」
紅音はハナから座って待っているつもりなど無かった。ここは子育てまでしていた一家の主婦、何をすべきかをしっかり把握していた。
美千留にしてみればちょっと恥ずかしい気もしたが、紅音に任せた方が良いことは理解できる。自分一人では絶対にそこまで気が回らない。
2人で小一時間ほど格闘して、必要なものを車に運び入れた。紅音が捨てたほうが良いものを別にまとめてくれている。
「ゴミは出せるの?」
「この時間じゃ無理だと思う」
「なら持って帰って店の方で捨てましょ」
そう言って紅音はゴミの入った袋を玄関の横に置いた。
「これで大体終わったのよね」
「大丈夫だと思う」
「なら一休みしましょうね」
紅音は持ってきたバッグからおにぎりを取り出すと電子レンジに入れた。おにぎりを温めている間に紙コップに温かいお茶を注ぐ。
「お腹空いたでしょ」
おにぎりはおかかと梅干し。漬物まで用意してある。紅音さんの笑顔に、さすがは元主婦と未千流は感心した。
最後に未千流はがらんとした部屋を見回して、ダイニングテーブルの下に置いてある紙袋に気が付いた。弟の陽大が持って来てくれたやつだ。これは忘れてはいけない。
未千流は紙袋を手にして表に出ると、玄関のロックを掛けて車に向かった。




