ハナハナ2
「おやおや、人が居ない間にいったい何をやってたんだい」
リビングに入って来た妖子さんは不思議そうな顔をして部屋を見回した。アナがテーブルを片付けていて、他の2人が見当たらない。
「おっちょこちょいが紅茶をこぼしたのよ」
アナが床を拭きながら顔を上げた。
「それで、そのおっちょこちょいはどこに行ったんだい?」
「未千流を連れてバスルームに行ったわ」
「何だいそれは、風呂はとっくに入ったんじゃないのかい」
「そうなんだけど、未千流が紅音に紅茶を掛けられて火傷しちゃったのよ、それで冷やしに連れてったの」
「なるほどね」
今一つ状況が判らないが、何かあったのだろうと妖子さんは納得した。
未千流と紅音がリビングのドアを開けるとトマトとパジルの香りが鼻をくすぐった。暖かそうな湯気が台所から漂ってきて、いやが上にも食欲をそそられる。
「…座って待ってて」
食器が当たる時の軽い音と共に、台所から呼びかけるアナの声が聞こえた。
アナがトマトのパスタを乗せた皿を並べる。白い食器に盛られた赤い色が実に美味しそうだ。
「火傷は大丈夫だったの?」
「痛みもないし大丈夫。みんなちょっと大げさなのよ」
未千流は紅音から借りたキャミワンピを、ちょっとつまみ掛けたのだが、見せる必要も無いことに気が付いて手を戻した。
「時間がなかったからね。簡単なパスタだよ。本当に役立たずなんだから」
エプロン姿でキッチンから出て来た妖子さんが鼻を鳴らして紅音を睨む。
「ごめんなさい、私が用意しなくちゃいけなかったのに…」
紅音はちょっとバツの悪そうな顔をしていた。
「冷めちゃうから話は食べてからだよ」
妖子さんはエプロンを取って腰を下ろす。
エプロンの下から現れた服は形こそシンプルなワンピースだったが、生地と色の取り合わせは未千流の想像の斜め上を行くものだった。これがブティックのオーナーなのかと未千流は感心する。
「それにしても今日はどうしたんだい。昼前には来るとも思ってたのに」
話は後だと言っていた妖子さんだったのだが、パスタの皿を自分の方に引き寄せると自分から本題に入った。その手は長年の仕事のせいなのだろう、外見から見る年齢よりも節くれ立っているように見える。
「狼男につかまってたのよ」
アナがパスタを口元に運びながら当然のように返すと、紅音の手にしたフォークが食器に当たって、カチャンと大きな音を出した。
「そうよ、それ!どうしてそれで大丈夫だったの?」
「その時はまだ夜じゃなかったからなんでしょ。妖子さんは上から何か聞いてるんじゃないの?」
「いいや、あたしは何も聞いてないからちゃんと説明しておくれ」
アナはトンネルの件を、神社から下に逃げて行ったら狼男に遭遇して捕まった、という感じに簡単に纏めた。こういうときのアナの誤魔化し方は本当に巧いな、と未千流は感心する。
最後まで興奮していたのは紅音だけ、未千流は蚊帳の外といった雰囲気となった。
「未千流ちゃん。アナのポーション飲んだんだってね、良く生きてたもんだよ」
妖子さんが突然話を未千流に向けた。
「えっ、ポーションってまさか」
紅音は又も紅茶のポットを取り落としそうになったが、今回はお皿が濡れるより酷いことにはならなかった。
「そのまさかなんだよ。それで未千流ちゃんをここまで連れてきてもらったんだからね」
「それってどういうことなの?」
「未千流ちゃんはね、そのポーションを飲んでサキュバス化したって事なんだ。それまでは普通の人間だったて話なんだよ」
紅音の目はまん丸になる。未千流はその紅音の顔を見て、驚くと目が丸くなるって本当なんだと他人事のように感心した。
「何であたしの顔見るのよ。別にあたしが無理に飲ませたわけじゃないんだから。未千流が勝手に飲んだのよ!」
アナが一人憤慨している。
「そうなの?」
紅音が未千流の顔をまじまじと見る。
「そ、そうみたいなんだけど…」
「何よ、そうみたいって。他人事みたいにさ…」
妖子さんは軽く片手を上げて話を止めさせた。
「経緯はともかく、普通の人間が突然サキュバスになるなんて話は誰も聞いた事が無いんだね。そこでアナからの報告を上に上げると、あたしが確認するようにって話になっちまったんだよ。無駄な仕事を増やしてくれたわけだよ」
そう言って妖子さんはアナを横目で睨んだ。
「ところで未千流ちゃん、今ここでフェロモン出せるかい?」
「それは出せますけど、…いいんですか?」
「ここはそういう場所だから大丈夫だよ。外に漏れたりしないようになってるから安心おし」
「それなら…」
未千流にとっては、フェロモンを押さえるよりは出す方が簡単なので、ふっと力を抜く。自分ではどこから出ているのか解らないが、フワッと自分の周りにフェロモンが集まっているのを感じた。
「うーん、不思議な感じだね。サキュバスとも言えるが、少し違うような気もする」
「どういうことなんですか?」
「サキュバスによってフェロモンの質に個人差はあるんだけど、未千流ちゃんのはそれとも少し違う。どこか違和感があるね」
そう言って、妖子さんは考え込むように顎に手を当てた。
「そうね、私も何か不思議な感じがする」
紅音も同意している。どういう事なんだろう、そう思いながら未千流はフェロモンを止めた。
「サキュバス光以外に身体の変化が無いのも変だし、まだ完全にサキュバスになった訳じゃないのかも知れないね」
「それって、元に戻れるってことでしょうか?」
未千流は思わず身を乗り出した。
「いや今は何とも言えないね。これから完全なサキュバスに変化するのかもしれないし、人間に戻れるのかもしれない。とにかくはしばらくはここに居てもらって、様子見ってことになるだろうね。そう言えば、あんた次の生理はいつの予定だい?」
「生理ですか?」
意外な質問に未千流は戸惑う。
「えーっと、多分来週位だと思うんですけど…」
「そうかい、実はそこで一つ判ることがあるんだよ。サキュバスには排卵が無い。妊娠の必要が無いからね。生理が無いってことが、サキュバスかどうかの一つの目安になるんだよ」
「そ、そうなんだ…」
「…一緒に頑張りましょう」
紅音が未千流の手を取って励ましてくれるのだが、何を頑張れと言うのだろうか。
サキュバスのリアルな生態を伝えられた未千流は、その生々しさに眩暈がしてくる気がしていた。
「紅茶のおかわりを用意しましょうね」
「あ、あたしは食器片づける」
紅音とアナは立ち上がって台所に向かった。
「未千流ちゃんには暫くここに泊まり込んでもらことになるんだけど、そこは大丈夫なんだよね。そうアナに伝えてもらっている筈だけど」
「えっ、そうなんですか? わたし2、3日のつもりで。そんなに用意してないんですけど…」
妖子さんはじろりと台所の方を睨みつけた。
「本当、役に立たない娘だね…」
「2階に部屋を用意してあるから、当分の間そこを使ってもらうことになるよ。この後紅音に案内してもらいな。それと、未千流ちゃんには最低限でもサキュバスのことを知っておいてもらわなくちゃいけないから、その辺りの説明も紅音に頼むよ」
紅音が頷いたのを確認してから、妖子さんはアナに向き直った。
「それじゃ、店の方片付けて来るから、アナも来な」
「え、あたしなの?」
「何か文句でもあるのかい?」
じろりと妖子さんが睨むと、アナは肩をすくめた。
「今日は疲れてるのに…」
「そんなことは解ってるよ。だから早めに片付けるんだよ」
妖子さんが出ていくと、しぶしぶという様子でアナも後に続く。
「はい、未千流ちゃんはこっちよ」
紅音の笑顔がさらに輝いて見えた。




