九、幻が見せるもの
高齢社会を迎えた日本社会における、大きな問題点の一つにこんなものがある。消費意欲の低い高齢者世代に貯蓄が多く集まり、需要不足の状態が長期化している。日本以外の社会でも、需要不足である点は変わらないが、特に日本でそれが酷い点は紛れもない事実だろう。
そして、その需要不足による景気の悪化も手伝って、財政は危機的状況下に陥っており、財源が足らない。結果として、国は借金をする事になるのだが、その主な資金源は高齢者達の貯蓄なのだ。もちろん、いつまでも借金をし続ければ、いずれは財政が破綻するのは目に見えている。
つまり、高齢社会の日本は、消費意欲の低い高齢者層の高貯蓄が不景気を招いて財政を悪化させ、その高齢者層の貯蓄が同時に、国の借金を支えているという、皮肉な構図になっているのだ。
高齢者の貯蓄を、国が借金する事で使い、通貨の循環を維持している、という表現が可能かもしれない。そして、実は、この状態にはある種のジレンマが隠されている。
引退している高齢者層には、普通、年金や資産運用以外の利益はない。つまり、生活の貯蓄依存度が高いのだ。結果的に、消費意欲が低くなるのは自明だ。ところが、そうして消費を控えれば、それが不景気を招き、財政を悪化させ、財政の破綻を起こしてしまう。そうなれば、通貨の価値は下落し、貯蓄は実質、減ってしまう。
つまり、消費を活発に行えば、将来への生活不安が増す。ところが、消費をしなくても、やがては財政破綻を招き、貯蓄が減り、やはり生活ができなくなるかもしれないのだ。更に、実は景気が上向いたとしても、国債金利の上昇に金融機関が耐え切れなければ、同じ様に通貨価値の急速な下落が起こり、日本経済は大変な事態になる。
需要不足によりデフレが続いている現状は、貯金生活者にとって有利なように思えるかもしれないが(因みに、消費が活発に行われるようになれば、物価が上昇し、貯金生活者は損をする)、その先には破滅が待っているのである。もちろん、この状況を理解している者はなんとか打開策を探しているだろう。
そして。
白秋が目を付けたのは、当にこの点だった。
「で、その黒夏ってのは、どんな奴なのよ?」
と堺ツユが白秋に尋ねた。七つ子教の一室。二人で話すには少々広すぎる会議室のような場所で、彼らは雑談をしていた。近くには、大きな犬がいる。ウーという名の、ツユが可愛がっている雑種犬だ。見た目はシベリアン・ハスキーをのようだが、血が入っているのかどうかは定かではない。ウーは彼女に対し非常に従順で、実質、ボディガードのような役目を果たしている。ただし、ウーがそこにいるのは、ただの戯れで、特別、ツユが白秋を警戒している訳ではないのだが。
白秋は、何故か少し馬鹿にしたような微笑みを浮かべると、ツユの質問に対して、こう答えた。
「そうだな。簡単に言えば、凶暴な単純バカで、その上、重度のシスコンだよ。正直、ボクはあいつがヤクザに売られていった時、何人か殺して事件になると思っていたな。あいつは、金じゃ動かないし」
それを聞くと、ツユは呆れたような声を上げる。手を上方向にハの字にするような、妙なポーズを取りながら。
「はっ 聞いただけで、あんたとは相性が悪そうね。なんで、そんなのと手を組もうと思ったのよ?」
不敵に笑うと、白秋はこう返す。
「あいつが都合良く、ヤクザに飼われているからだよ。それに、行動原理が単純だから、読み易いんだ。赤春とは全く逆だな。赤春の奴は、目的がさっぱり分からないからやり難くて仕方ない」
「行動原理ぃ? そいつが、何を目的に動いているか、あなたには分かっているっての?」
「分かってるよ。あいつは、重度のシスコンだって言っただろう? きっと、ヤクザに飼われているのは、その妹の為だな。救い出す気でいるのかも。そうじゃければ、あいつは、大暴れしているだろうから……。なにせ、ヤクザはあいつの妹を転売した連中だからな。同じ組ではなくても、あいつには関係ないだろうし」
そう言い終えると、白秋は肘をついて手の平を頬に当てた。
「にしても、そんな単純バカが、よくヤクザの世界で生き残れたもんね。普通、身体を売られてお終いなんじゃないの?」
ツユのその質問に、白秋は何かを考えているかのような表情で、こう返した。
「あ~、あいつには、“怪力”と“加熱”ってな異能があるからね。それに、恐らくは、赤春の奴が入れ知恵したんだろう。黒夏が暴れなかったのはだからかも… もっとも、黒夏本人は赤春に“知恵を出させた”と思っているだろうが」
そう返しながら、白秋はこう思う。
“……って事は、冬も生きている可能性が高いんだろうな。赤春はそれを餌にして、黒夏を操っているんだろう。何をさせるつもりかまでは、分からないけど…”
「また、赤春か。あんたは、よっぽど、そいつの事が怖いのね」
ツユがそう言うのを聞いて、白秋は目を剥いた。怒ったのだ。その白秋の変化を敏感に察して、犬のウーが起き上がる。それをツユは抑える。
「大丈夫よ、ウー。図星を突かれて、怒っただけだから」
少し歯を食いしばった後で、白秋は軽くため息を漏らすと、「赤春なんか、別に怖くはないよ。単に嫌なだけだ」と返す。
それを受けて、ツユは黙った。
“普段、憎らしいくらいに冷静なこいつが、赤春の事になると簡単に逆上するわね。どうも、赤春はこいつにとって禁句みたい”
と、それからそう分析する。
「とにかく、計画は順調に進んでいるのでしょう? その黒夏を使えば、壁は突破できるはずだったわよね?
後になって、“できませんでした”じゃ済まないわよ。あんな危険なメールまで出して、黒夏と連絡を取ったんだから」
そう。白秋は、黒夏に対して例の“文字化け言語”のメールを送り、彼に連絡を取ったのだ。送る範囲を絞った事は絞ったが、正確に彼の居場所が分かる訳ではないから、前回と同じ様に危険はかなり高かったはずだ。
「分かってるさ」と、白秋は答える。
「“情報”は入った。働きかける手段もある。後は動き出すだけさ。色々と、ね」
そう言い終えると、彼は目を閉じた。ブーンという昔のブラウン管テレビが起動する時のような音がする。もっとも、その音も幻聴なのかもしれなかったが。そして、ツユと彼の前に、不定形だが、所々、手や足や口や髪や目といった人の体の部品が幾つも生えた奇妙なものが浮かび上がった。
「いつ見ても醜いわよね、これ」
と、現れたそれに対し、ツユはそう言う。
「そう思うなら、同族嫌悪だな。いや、自分が見えていないのか。これの中には、君も含まれているのだぜ」
白秋は言い終えると、その奇妙なものの中心部を指し示して、こう言う。
「ほら、以前よりも、中心部が盛り上がっているだろう? “物価連動型国債”に老人共が惹かれている証拠だよ。順調にその流れが出来上がっている」
それを聞くと、「ほーん」とツユは言い、その後で「しかし、便利な能力よね、それ」と続ける。
「社会の中に発生した“関係性”が幻として浮かび上がるなんて」
「ああ、」とそれに白秋は返す。
「幻で人を惑わすのなんて、この異能“幻生”の使い方の本質じゃない。こうして、情報を一瞬で、収集分析できる事にこそ、その真価がある。こればっかりは、赤春の奴にもできない。僕だけの情報取得分析能力だ」
それから、白秋は無意識の内に、自分が赤春の名を口にしていた事に気付く。それで少し黙ったが、少しの間の後に気を取り直したようだった。別の方向に手を翳すと、他の幻を産み出す。それは、基本的には先のものととてもよく似ているが中心がなく、三つの頭を持っていた。一つずつ大きさが異なり、しかも顔がある。最も大きい一つは、だらしない欲深そうなもの、次に大きいのは厳つい表情をしているが、その反面、臆病に震えているようにも思える。残りの一番小さい一つは、生真面目に口を一文字に結び、周囲を威嚇していた。白秋が言う。
「そっちは、エネルギー問題に関わる連中の幻だよ。見ての通り、バラバラだ。これから手を入れていくけど。
ま、一番手強いのは、その二番目に大きい頭だろうな。ここを、何とか崩していく。そして、それには黒夏の手が必要だ」
それを聞いて、ツユは声を上げた。
「エネルギー問題ってか、原発絡みでしょう? ほとんど」
興味なさそうに、腕を枕にして。
「原子力産業と敵対するつもり?」
そう尋ねて来たツユに対し、白秋は「まさか」と、そう答える。
「そんな面倒な事はしないよ。特に、金目的じゃない連中は、どう扱って良いか分からないしね。ただ、利用してやるだけだよ。まぁ、それが無理なら、邪魔をさせないくらいの事は最低でもやってみせる」
「私は、金さえ入れば、何も文句はないのだけどね。黒磐のお爺ちゃんの財布にも、あんまり頼れないしさ、これからは。てか、さ、あのお爺ちゃん、どれくらいまで生きるのかしらね」
「さぁ? まぁ、例え死んだとしたって、資金援助を続けさせるくらいの策は取ってあるから、そんなに心配はいらない。もっとも、あの爺さんのネームバリューには、まだまだ利用価値があるから、もう少しくらい、生きてもらわないと困るけどね。」
その質問にそう答えると白秋は、手を払うような動作をし、幻を消した。