二、イモムシちゃん
僕がイモムシちゃんに初めて会ったのは、僕の右目の手術が行われる数日前の事だった。僕の右目は、事故で、その時、まったく見えない状態になっていて、それでパパが移植する為の眼球を探していたのだ。そうして彼女は見つけ出された。
彼女。
――そう。イモムシちゃんは、女の子だったんだ。
「ほら、これがお前に右目を提供してくれる女の子だよ」
そう紹介をされた時の、その姿に僕は怯えた。だけど、同時に魅せられてもいた。彼女の姿はおぞましく、純粋で、そしてだからこそとても美しいように僕には感じられた。見続けていると、僕がいかに醜い存在であるのかを思い知られてしまいそうな。
きっと、彼女への嫌悪感は、僕の醜さの裏返しなんだ。そう思った。僕を傷つけてくれる彼女という存在に、僕は愛おしさを覚えた。
彼女には、手足がなかった。胴体だけ。内臓の幾つかは、欠けていたり、一個が失われていたりした。もちろん、そんな状態じゃ長寿は期待できない。彼女は、早死にする運命にあるのだと、その時、僕は聞かされた。
「……だから、お前が彼女の目を貰うと言っても、何も気を遣う必要はないんだ。どうせ、直ぐに死んでしまうのだから」
胴体しかなく、包帯を体中に巻かれた彼女の姿はまるでイモムシみたいだった。だから、彼女は“イモムシちゃん”なんだ。その時、僕がそう名付けた。
彼女の本当の名前は“冬”というのだそうだ。仲間内でそう呼ばれていたらしい。良い名だとは思ったけど、でも、やっぱり、僕にはイモムシちゃんの方が良かった。どうしてなのかと問われると、困るけど。
或いは、僕は彼女のその姿に、微かな嫉妬を覚えていたのかもしれない。異形。……僕も、そんな姿になれたなら。
その当時、僕の眼球は駄目になっていて、角膜移植程度じゃ、見えるようにはならないとそう言われた。それに対して、僕は何も感じなかった。右目。見えないからといって、だから何だというのだろう?
それで、パパが僕の右目を見えるようにする為に、懸命に努力している姿を、半ば滑稽に思っていた。
「すまない。眼球を移植しでもしない限り、お前の右目は見えるようにはならないのだそうだ」
申し訳なさそうに、パパは言った。
……へぇ、そうなんだ。
僕は、そう返した。すまない。と、パパは、また言った。何故、謝るのだろう?と、僕は思った。
そんなだったから、僕の右目を提供してくれる人間が見つかったと聞かされた時も、僕は大して喜ばなかった。その人に悪いような気がしたほどだ。だからそう言うと、パパは困ったような表情になり、「お前が、そんな事を気にする必要はないんだよ」と、そう言って、僕をイモムシちゃんのところにまで、連れて行ったのだった。
この人はいつもそう。僕の言葉を、あさっての方向に理解する。自分に理解し易いよう歪めて曲げて受け入れる。
「お前は、本当に優しい子だね」
見当違いなそんな言葉。
訂正するのも面倒だから、僕はそれを放っておいた。
だけど。
イモムシちゃんの姿を見た途端、僕の心は動かされたのだった。この子の右目が是非、欲しい。そう思った。見えるようになるのが目的じゃない。目なんて別に見えないままだって構わない。ただただ、この子の目が欲しかったんだ、僕は。
初めて見た時、イモムシちゃんは僕を見て笑った。おぞましく可愛く、笑った。とてもとても優しそうに。
苦しくはないのかな? 苦しいはずだ。あんな姿で、あんな体で。どうして、あんな風に笑えるのだろう?
彼女の姿と境遇とその笑顔は僕を傷つけ、僕にはその傷と痛みが心地良かった。僕は彼女の事を抱きしめたかった。
「彼女は、矮躯童人という種族なんだよ」
と、彼女に見惚れる僕を見ながら、パパはそう説明した。
「彼女は、生まれた時から、医療用に体を使われるよう宿命づけられているんだ。だから、お前も彼女から目を貰える」
彼女は闇市場に流通する“人体”であるらしかった。彼女の身体に対しては、人の拒絶反応が起こらないから、眼球移植も可能なんだと、そう説明された。彼女の手も足も、そして数々の内臓も、同じ様に、そうして他の誰かのものになった。だから、それで、彼女の肉体は、あちこちが欠けているんだ。
「アー」
そのうち、イモムシちゃんはそんな声を上げた。とても高くて小さくて可愛い声だった。何度も受けた手術の所為なのか、彼女は言葉を失っていたのだ。発音はできるけど、上手く言葉を作れない。
僕を見ながら、イモムシちゃんは人懐っこそうな顔でまた「アー」と鳴いた。僕はそれに堪らず魅せられてしまった。
そして。
その瞬間、本当なら、断るつもりだった、その眼球移植手術を、僕は受ける事に決めたのだった。
僕の家は裕福だ。だからこそ、イモムシちゃんの目を“買う”こともできたし、眼球移植手術なんて難しい手術を依頼する事も可能だった。
「お金は寂しがり屋でね、たくさんある所にたくさん集まって来るんだよ」
そうパパは言った。だから、お金についてはまったく心配しなくて良い。
お金を稼ぐ為には、お金を稼ぐ為の仕組みや立場を築く事が肝心。それさえ築いてしまえば、後は放っておいても、金は入って来るものらしい。パパは金の亡者というタイプではなかった。否、途中までは、金に執着していたようだけど、少しずつそれに飽きていったのか、徐々に“金稼ぎ”を積極的には行わないようになった。だから、無理をして危険な賭けに出るような真似もしなかったし、金を使う事にも躊躇しなかった。充分過ぎるほどのお金を、既に持っていたからだ。僕が言えば、何でも買ってくれそうだった。もっとも、僕がパパに何かを望む事は、ほとんどなかったけど。
だから、僕がそのお願いをした時、パパはとても驚いた表情を見せたのだろう。
「あの子が欲しい」
そう。僕はイモムシちゃんを欲しがったんだ。
驚いた表情の後で、パパは困惑した表情を浮かべて、それから、こう言った。
「どうして、あんなものを……」
“もの”。パパが彼女をそう表現したのを聞いて、僕は思わず微かに笑ってしまった。パパを軽蔑した訳じゃない。それは、人として当たり前の感覚だろうから。ただ可笑しかったんだ。僕は。
「パパはいつも言っているじゃない。感謝が重要だって。ギブアンドテイクだよ。何かしてもらったら、何かでお返ししなくちゃ。それを疎かにすると、いずれ自分の身が危なくなるし、反対に護っていれば良い事がある。“信用”は重要な財産なんだって」
もちろん、そんなのは単なる言い訳だった。単に僕は、彼女の事が欲しかっただけだ。僕の言葉を聞くと、パパは心外だと言うような声を上げた。
「彼女から目を貰う為には、ちゃんとお金を払っているよ。だから、そんな事を気にする必要はまったくないんだ」
僕はそれにこう返した。
「お金を受け取ったのは、彼女じゃないでしょう? 彼女を売った人だ。彼女は、目を提供したのに、何も得られていない。だから僕は彼女に対して、恩返しがしたいんだ」
それからパパは苦悶の表情を浮かべ、ちょっとの間の後で、こう続けた。
「……分かった。話をしてみよう」
パパがその一瞬で、何を悩んだのかは、なんとなく想像ができる。きっとパパは、何か反論を考え、それを思い付かなかったものだから、口を開くのを止め、更にその後で理性で気持ちを無理矢理に納得させたんだ。
恐らくは、パパにとって、イモムシちゃんは感謝を返すべき“人格を持った存在”ではなかったのだろう。
そう思った。
誰かが“人”と表現する場合、その相手は必ずしも生物学的な“ヒト”ではないように思う。ある程度、その立場を尊重しなければならないコミュニケーションが可能な相手を、人は“人”と呼ぶのじゃないだろうか?
だからこそ、物語の中に登場する、人ではないロボットや妖怪のような架空の存在を、人は、“人”として同列に認識するのだと思う。ただし、現実社会では、その対象が生物学的な“ヒト”の場合がほとんどだ。だから、その二つは区別されていないのだろう。
それは逆を言えば、仮に生物学的な“ヒト”であったとしても、立場を尊重しなければならないコミュニケーションが可能な相手でなければ、“人”とは見なさない、という事でもある。そして多分、パパはイモムシちゃんを“人”とは見なしていなかったんだ。だから、感謝を返さなくちゃいけないとも思っていなかったのだろう。
一体、誰がスーパーマーケットに並べられてある牛肉のパックに、感謝をするというのだろう?
パパの“感謝を返す”という言葉の背後には、社会的な約束事の上での“信用”がある。社会の約束事の外に存在するイモムシちゃんは、その対象外。あの一瞬、パパはそういった思いをのみ込んで、僕の要望に応えたんだ。“あんなものは、人ではない”とは言えなかったから。
それからパパは、イモムシちゃんを本当に買ってくれた。その業者から、イモムシちゃんの世話の仕方を教えてもらった時、随分と変な目で見られた。金持ちってのは物好きだなと、そんな風に思われていたのが、よく分かった。でも、まぁ、そんな事はどうでも良い。僕はイモムシちゃんが欲しかったんだ。
きっと、あのままなら、イモムシちゃんは更に何人かに臓器提供をし、そしてその所為で、殺されてしまっていたのだろう。死んだ後の肉体は、処分に困るはずだ。その費用を考えるのなら、その取引は、業者にとっても悪いものではなかったのかもしれない。
それから僕は、イモムシちゃんと家の中ではいつも一緒にいた。彼女は喋れなかったけど、僕に好意を持ってくれているのが分かったし、彼女も僕の愛情を分かってくれているようだった。
右目を隠すように包帯を巻かれた可愛い顔で、体をもぞもぞとさせて這いながら、イモムシちゃんは僕に甘えた。僕は彼女を抱きながら、その温もりに安心をした。心細い心臓の音。何か優しい気分になれる。恋でもなく、友情でもなく、僕は彼女に依存していた。
言葉なんてなくても、彼女が何を言いたいのかが僕には分かった。表情や仕草でピンと来るんだ。だけど、そのうちに、本当に僕は彼女の声が聞けるようになった。嘘じゃない。それは、直接、僕の頭の中に響いてくる声のようだった。
――ありがとう。
あのまま、死ぬ運命にあったアタシを救ってくれて。
ある日、突然、彼女は、僕にそう言って来た。感謝の言葉。そして、心で言葉を交わせるようになってからしばらくが経ったある時、彼女は変わった頼み事を僕にしてきたんだ。そしてその時、僕は出来うる限り、彼女の望みを適えたいとそう思ったのだった。




