37.アイドル、魔王城での生活開始
マルバスは、奏の覚悟に満ちた美しい表情を見つめ、深く、満足げに微笑んだ。
「……素晴らしい。そのお言葉を、どれほど待ち望んでいたか――」
マルバスが言い終えるより早く。
「よっしゃぁぁぁっ! うおぉぉぉっ!」
地下食堂の頑丈なドアの向こうから、城全体、いや、魔王領全土を激震させるほどの、バカでかい『大歓喜の雄叫び』が響き渡った。あまりの音圧に、鉄板の上のハンバーグが僅かに跳ね、窓ガラスがビリビリと激しく震える。
「へっ!? な、何の音ですか……!?」
奏が目を丸くして周囲を見回すなか、マルバスだけは、やれやれと深く溜息をつきながら、額を押さえていた。
「気になさらないでください、奏様。ただの、我が城の『最高権力者』が、嬉しさのあまり狂乱しているだけでございます。……さぁ、お食事が冷めてしまいます。存分にお召し上がりください。貴方様の『新しい家』へ、心からの歓迎を」
ドアの向こうで「奏くん永住決定!! 今日は魔界全土で祝祭だ!! 有給休暇をさらに三日増やすぞ!!」と狂喜乱舞している魔王の気配を感じつつ、奏はクスクスと笑いながら、世界で一番美味しいハンバーグを再び口へと運ぶのだった。
*
魔王城での永住を決意してから、早いもので一ヶ月の月日が流れていた。
ルミナス王国の薄汚いスラムでドブネズミのように扱われていた日々が、今では遠い前世の出来事のように感じられる。ここでの奏の生活は、一言で表すならば『至高のホワイト環境』だった。
過酷な労働もなければ、理不尽な暴力もない。奏は毎日、自分の意志で【家事系スキル:10】を遺憾なく発揮し、広大で美しい魔王城をせっせとピカピカに磨き上げていた。
そして、その一ヶ月の間に、魔王城の生態系には劇的な変化が起きていた。
「お、おい! 奏様が、あっちの廊下から歩いてこられるぞ!」
「全員、整列だ! 粗相のないように服の汚れを払え!」
白のフリルが眩しい特注の高級メイド服に身を包んだ奏は、小さなバケツとモップを持ってトコトコと廊下を歩く。凶暴なはずの魔王軍の幹部や魔物たちが、その姿が見えた瞬間、まるで厳しい軍隊の閲兵式のように一列に並び、直立不動で息を呑んだ。
「皆さん、おはようございます。今日も良いお天気ですね。お仕事、頑張ってください」
奏が顔を綻ばせ、プロのアイドルとしての輝きを百分の一ほど解放した『天然の魅了』を含んだ極上の営業スマイルを向ける。
「――っふ、ふぎゃああああんっっ!!」
「奏様がお声をかけてくださったァァァッ! 尊い、尊すぎて今週分の魔力が全回復したぞっ!!」
「俺、今日の夜勤、倍のシフトで入ります! 奏様のためにこの城を死守するんだな!」
筋骨隆々のオーガや、普段は冷酷非道な吸血鬼の将軍たちが、奏の挨拶一つで顔を真っ赤に染め、悶絶し、ある者は涙を流して天を仰いでいる。
奏自身は「みんな、すごく素直で働き者な良い人たちだな」としか思っていないが、前世のトップアイドルとしての天性の愛嬌と、異世界でさらに磨きがかかった美貌の前には、魔王軍の強者どもなど一瞬で骨抜きにされるただのファンに過ぎなかった。
城内の人間関係は良好、職場環境は最高。奏の魔王城ライフは、完璧な軌道に乗っていた。




