定理14:ラストバトルから逃げ出したい!(2)
探偵事務所の扉がゆっくりと開かれた。
外の世界は、思想ウイルスに感染した暴徒たちの喧騒に包まれていたが、この完全なる密室の中には、どこまでも深く、冷たい静寂だけが横たわっていた。
足を引きずりながら、ひとつの影が部屋の中へと滑り込んできた。
アリシア・ヴェリタスである。
長く尖ったエルフの耳を持つ彼女は、かつてエラーラと対峙し、彼女を絶望の淵へと追い詰めた「最高傑作」。
魔力を一切持たない特異体質のエルフである彼女は、狂気に染まった街をただの物理的な体力と知性だけを頼りに生き抜き、満身創痍でここまで辿り着いた。
すべては、母であるエラーラ・ヴェリタスと合流するために……
だが。
「……あ……」
アリシアの乾ききった喉から、掠れた音が漏れた。
部屋の中央に鎮座する、禍々しい真鍮の天秤。
その傍らに、純白の白衣を纏ったエラーラが、血溜まりの中に、まるで眠るように静かに倒れ伏していた。
その体からは、生命の鼓動も、最強の魔導師として常に放っていた圧倒的な魔力の波動も、完全に失われていた。
その光景を見た瞬間、アリシアの並外れた頭脳が、この密室で起きたすべての事象を理解した。
コンソールで静かに点滅を続ける、リオンとアスナの生体反応。
エラーラは、自らの魂と命を天秤に捧げることで、愛する者たちを救ったのだ。
あの、すべてを論理と計算で測り、感情を不要の産物として切り捨てていたはずの冷徹な魔導師が。
誰よりも合理性を愛した母が、最も非合理的で、最も尊い「真理の証明」を果たして死んだのだ。
「おかあさま?……嘘でしょう……おかあさま……!」
アリシアは力なく膝から崩れ落ち、エラーラの亡骸にすがりついた。
母の体温はすでに失われ……冷たかった。
かつて、別の世界で、アリシアはエラーラを「愛がないから負けたのだ」と断罪した。
しかし、今のエラーラは。
彼女は、愛のために、その身を極限の犠牲に晒し、たった一人で、この冷たい床の上で息絶えたのだ。
アリシアの目から、大粒の涙が溢れ出した。
「……貴女は、どこまで不器用なのですか……。こんな結末……わたくしは、認容しませんわ……」
どれほどの時間、そうして泣き崩れていたか分からない。
やがて、アリシアの双眸から、悲しみの色が消え失せた。
代わりに宿ったのは、絶対零度の怒りと、狂気的なまでの冷徹な「論理」の光であった。
彼女はエラーラの亡骸をそっと床に横たえると、ふらつく足で立ち上がり、メインコンソールへと向かった。
画面には、エラーラを嘲笑っていたヘレナの通信の痕跡が残留していた。
アリシアは、キーボードを叩き始めた。
魔力は、ない。
だが。
アリシアには、世界最高の頭脳がある。
高度な魔導暗号を、純粋な論理演算のみで次々と突破していく。
エラーラが遺したバックドア、魔力波長の僅かな乱れ、すべてを逆算し、アリシアはついに、ひとつの座標を弾き出した。
王都の地下深く、旧時代の遺物である廃棄された魔導炉心跡。
そこに、ヘレナがいる。
アリシアは魔導端末から離れると、デスクの引き出しを開けた。そこには、かつて、自らがエラーラに突きつけた、魔力を必要としない、旧式の物理拳銃が眠っていた。
アリシアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
世界で一番重い、「罪」という名の愛を背負った、女王の血の涙だった。
「……おやすみなさい、エラーラ」
アリシアは拳銃を手に取り、自身のドレスの帯に差し込んだ。
「……終わらせましょう、おかあさま」
アリシアは、母の敵の元へと歩き出した。
その足取りは重く、傷だらけだったが、決して揺らぐことはなかった。
地下深くへの道のりは、魔力を持たないエルフの少女にとって苛酷を極めた。
エレベーターは破壊されており、果てしなく続く非常階段を降りなければならない。疲労で足が震え、何度も意識が飛びそうになるが、その度にアリシアは深い呼吸で精神を現実に繋ぎ止めた。
数時間後。
巨大な防爆扉の前に、アリシアは立っていた。
扉のロック機構を物理的なハッキングで解除し、重々しい音と共に内部へと足を踏み入れる。
そこは、広大な地下空間だった。
中央には巨大な魔導演算機が鎮座し、その玉座のような制御パネルの前に、彼女はいた。
ヘレナである。
エラーラと瓜二つの顔を持つ女は、突如として侵入してきたエルフの少女を見て、一瞬目を丸くしたが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「誰かと思えば、エラーラの出来損ないの娘じゃない。まさか、生き延びていたなんてね」
ヘレナは立ち上がり、余裕の笑みを浮かべてアリシアを見下ろした。
「あなた、エルフのくせに魔力がすっからかんじゃない。この私に、復讐でも、しに来たつもり?」
アリシアは答えない。
ただ、無言でヘレナへと歩みを進める。
「もう、何もかも無駄よ。あなたの母親は、私の完璧な罠の中で自らの命を差し出して死んだわ。あはははッ、あんな滑稽な死に様はないわ!最強の魔導師が、ただの抜け殻になり果てたのよ!」
ヘレナの挑発。
それは、かつてアリシアがエラーラに対して行った精神攻撃の裏返しでもあった。
だが、現在のアリシアの心には、さざ波ひとつ立たなかった。
彼女はただ冷徹に、ヘレナと自分の距離、空間の気流、足元の瓦礫の配置を計算していた。
「……黙りなさい、三流」
アリシアの口から、氷点下の声が発せられた。
「貴女の計算は、おかあさまの足元にも及ばない。ただ他人の感情に寄生し、嫉妬で暴走しただけの、空っぽの虚像ですわ」
「……生意気を言うじゃあないのさ!」
ヘレナの顔が憎悪に歪む。彼女は指先を弾き、魔力弾をアリシアに向けて連射した。
魔力を持たないアリシアに、魔法を防ぐ盾はない。直撃すれば命はない。
だが、アリシアは一切の魔法を使わず、ただ純粋な「体術」のみでそれに応じた。
コンマ数秒前、ヘレナの筋肉の微細な収縮、視線の動き、指先の角度から、すべての弾道を完全に「予測」する。
アリシアは、まるで舞踏でも踊るかのように、半歩右へずれ、上体をわずかに反らし、そして歩みを止めずに前進した。
轟音と共に、アリシアの耳の横、脇の下を魔力弾が通過していく。
「なんだと……!?」
ヘレナは驚愕した。
「貴女の魔法は、あまりにも単調ですわ」
アリシアは淡々と語る。
「殺意というノイズが強すぎて、発射ベクトルが丸見え。おかあさまの魔法には、もっと美しく、もっと緻密な数式が組み込まれていましたわよ」
激昂したヘレナは、広範囲を焼き尽くす業火の魔法陣を展開しようと両手を掲げた。
だが、その時にはすでに、アリシアはヘレナの懐、完全な死角へと潜り込んでいた。
「遅いですわ」
アリシアの素手による一撃が、ヘレナの鳩尾に深々と突き刺さる。
魔力による防御を展開するよりも速い、純粋な物理的打撃。人体の構造を完全に熟知したアリシアの拳は、ヘレナの呼吸を完全に奪い去った。
「がはっ……!」
ヘレナが崩れ落ちそうになるのを、アリシアは許さない。彼女の腕を掴み、冷たい床へとヘレナを激しく叩きつけた。
激痛に顔を歪め、咳き込むヘレナ。彼女が顔を上げた時、その額には、冷たい金属が向けられていた。
アリシアの手には、拳銃が握られている。
撃鉄は、すでに起こされていた。
「すべては、計算通りですわ」
アリシアは、見下ろすように淡々と言った。
「貴女は、おかあさまの顔を持ち、おかあさまの力を模倣しながら、その本質を何一つ理解していなかった。おかあさまがなぜ自らの命を捧げたのか。そこにどれほどの『愛』があったのか」
アリシアの瞳が、暗く、冷たい光を放つ。
「愛なき論理は脆く、論理なき愛は狂気となる。……わたくしは、おかあさまの愛を継ぎ、わたくしの論理で貴女を殺す。これが、ヴェリタスの導き出した……最終定理ですわ」
それは、鏡だった。
かつて母を断罪した娘が、今度は母の復讐者として、母を侮辱した偽物を断罪している。
「……選びなさい」
アリシアは、慈悲深く、そして残酷な選択肢を提示した。
かつて、母に与えたのと同じ、絶望の二択を。
「一つ。……このまま、わたくしに物理的に脳髄を撃ち抜かれ、無様に死ぬこと。貴女は『エラーラの偽物』として、誰の記憶にも残らず、ただ、汚物として歴史の闇に消えていく。……貴女の存在意義など、最初から……どこにもなかったのだと思い知りながら」
アリシアの指が、トリガーに触れる。
「もう一つ。……今すぐ、自らの肉体を素粒子レベルまで分解し、消滅すること。貴女は『私から逃げ切った』というちっぽけな自己満足を抱いて死ぬ。……それもまた、現実からの逃避ですわ」
どちらを選んでも、アリシアの手のひらの上だ。
物理的な銃弾で惨めに殺されるか、恐怖に駆られて自ら消滅するか。
ヘレナは、恐怖に顔を引き攣らせた。
目の前にいるのは、魔力を一切持たないただのエルフの少女だ。しかし、論理と愛という二つの狂気を極め、母の死を背負って顕現したその姿は、正真正銘の……怪物だった!
絶対に勝てないという、本能的な確信!
「ひっ……いやだ……私は、私はぁ……ッ!」
ヘレナの心は、完全に折れた。
彼女は、アリシアの銃弾が額を貫く恐怖に耐えきれず、残されたすべての魔力を暴走させた。
「ああああああああああああッ!!!」
自爆による、逃亡の選択。
ヘレナの肉体が、内側から強烈な光を放ち、ひび割れ、そして……次の瞬間、凄まじい閃光と共に無数の塵となって空間に四散した。
ヘレナは、逃げた。
それは、完全な勝利だった。
思想ウイルスの根源は絶たれ、母を死に追いやった元凶は、自らの恐怖に耐えきれず消滅した。
だが。
ヘレナが消滅した瞬間に発生した、圧縮された純粋魔力のすさまじい爆発的余波が、地下空間全体を津波のように洗い流した。
通常の魔導師であれば、障壁を張るか、自身の魔力で相殺できる程度の余波に過ぎない。
しかし、アリシアは違った。
彼女は魔力を一切持たない、特異体質のエルフである。
魔力という概念から完全に切り離されたその無防備な肉体にとって、防御の術を持たない高濃度の純粋魔力の直撃は、致死量の猛毒を全身に浴びることに等しかった。
「あ……」
魔力の暴風が通り過ぎた後。
アリシアの体から、拳銃がこぼれ落ちた。
彼女の全身の細胞が、急性的な魔力中毒によって急速に崩壊を始めていた。呼吸は浅く、視界は急激に暗く染まっていく。
アリシアの体がふらりと傾き、冷たい床へと崩れ落ちた。
限界など、とうの昔に超えていた。
薄れゆく意識の中で、アリシアは仰向けになり、地下施設の煤けた天井を見上げた。
かつて、別の世界で母を倒した時、彼女は圧倒的な支配者として君臨した。
だが今は。
一人の無力な少女として、冷たい床の上で孤独に死んでいく。
不思議と、恐怖はなかった。
後悔も、なかった。
「……おかあさま」
アリシアの口から、静かな息が漏れる。
「わたくしは……少しは、貴女の娘らしく、なれたでしょうか……」
脳裏に浮かぶのは、いつも自分を見守ってくれていた母、エラーラの顔。
そして、かつて、「お母様だ!」と叫んで消えていった、あの日の母の、温かい光。
(……ああ、そうですわね)
アリシアは、ゆっくりと目を閉じた。
(……貴女が愛してくれたこの世界を、わたくしも、愛してみたくなりましたわ……)
冷たい地下空間に、静寂が戻る。
激闘の果てに、かつて母を追い詰めた少女は、今度は母の誇りを守り抜き、その唇に、わずかな、しかし確かな微笑みを浮かべていた。
それは、母の面影によく似た、美しく、穏やかな笑みだった。
そして、アリシア・ヴェリタスの呼吸が、永遠に停止した。
自らのすべてを懸けて愛を証明した母の後を追うように、静かに、安らかに。




