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ヴェリタスの最終定理4アスナ・ヴェリタス  作者: LIU
●第14章:私を虐待した両親にもまた友達はいた

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定理13:ラストバトルから逃げ出したい!(1)

探偵事務所の重厚な扉は固く閉ざされ、外の世界の喧騒は一切届かない。


静寂。


絶望だけが支配する、完全なる密室。


その暗がりの中心で、エラーラは崩れ落ちるように床に座り込んでいた。

銀色の髪は乱れ、純白の白衣は薄汚れ、冷徹な眼光すらも今は陰りを帯びていた。

魔導師としての彼女の知性が、これまでに起きた全ての事象を逆算し、そして、未来の絶望的な結末を弾き出し続けている。

圧倒的な、悪意。

行き着く先は……完全なる破滅であった。


だが、漆黒の絶望の底にあって、唯一の希望の灯火が探偵事務所のモニターで明滅を続けていた。

緑色の小さな光。リオンとアスナの生体反応である。

狂気の世界の中で、彼らだけはまだ、どこかで生き延びている。

その事実だけが、エラーラの精神を辛うじて繋ぎ止める楔となっていた。彼女の冷徹な仮面の奥底にある、極めて純粋で不器用な「愛」が、その小さな緑色の光に縋り付いていた。


その時である。


耳障りな電子音が密室に響き渡り、無数の画面が一斉に同じ映像を映し出した。

そこに現れたのは、エラーラ自身の顔であった。

いや、違う。

瓜二つの容貌を持ちながら、その瞳の奥にどす黒い憎悪の炎を宿した女。


ヘレナである。


エラーラは顔を上げ、モニター越しの自身の影を見つめた。彼女の超人的な演算能力は、映像を見た瞬間に全てを理解していた。

誰が「思想ウイルス」という悪魔的な概念を構築し、世界に散布したのか。

誰が善意を殺意に反転させ、この惨劇を引き起こしたのか。エラーラは静かに唇を開き、モニターの向こうの狂気に向かって語りかけようとした。

しかし、ヘレナの声がそれを冷酷に遮った。


「エラーラ。あなたを、殺す。」


ヘレナの声は、氷のように冷たく、地獄の底から響き渡るような怨念に満ちていた。


「だが、私は。直接この手を下さない。あなたは、自らの罪の重さに押し潰されて、自らの手で、死ぬべきだから」


ヘレナの言葉は続く。

彼女の口元には、狂気に歪んだ笑みが浮かんでいた。


「あなたは、私の大切なものを無関心に奪い去った。私がどれほど渇望しても手に入らなかったものを、あなたは当然のように手に入れ、そして、私の存在そのものに、無関心だった。……前の世界でもあなたはそうやって、傲慢なまま、破滅した。何も学んでいないあなたは高みから見下ろし、ただ、理屈だけで世界を測りつづけた。……もう、いいでしょう、こんなこと。私は……あなたから、全てを奪うことに決めたのよ」


モニターの中で、ヘレナの視線が端末の緑色の光へと向けられる。


「リオンとアスナ。あなたが密かに愛し、守ろうとしている哀れな半人間(けだもの)たち。もう遅いわ、エラーラ。私はあの二人に気が付かれないうちに……『魔導爆弾』を植え付けておいたの」


魔導爆弾。その言葉を聞いた瞬間、エラーラの脳内に無数の魔法陣と呪詛のパターンが展開された。それは、物理的な爆発物ではない。標的の魂と心臓に直接絡みつく呪いの一種。発動すれば、術式は標的の生命力を強制的に暴走させ、内側から肉体と魂を爆散させる。外部からの干渉や解除は不可能。発動を止める術はない。


「ゲームをしましょう。あなたが大好きな、論理と計算のゲームを。……エラーラ、お姉ちゃん。」


ヘレナが残酷な宣言をした瞬間、探偵事務所の中央の空間が歪んだ。

無数の光の粒子が収束し、巨大なホログラムが、質量を持って実体化していく。それは、エラーラ自身の魔力回路、そしてこの密室の物理法則と完全にリンクした、巨大で禍々しい天秤であった。真鍮色に鈍く光るその天秤は、部屋の空気を圧迫するほどの存在感を放っている。


「ヴェリタスの天秤」


ヘレナがモニターから囁いた。

天秤の右側の皿には、アスナの心臓の鼓動と完全に同期して明滅する、真紅の起爆装置が接続されていた。魔力の脈動が、遠く離れたアスナの命を今まさに焼き切ろうとしているのが、エラーラには手に取るように分かった。


「その起爆装置を完全に沈黙させるための論理的な解は、ただ一つしかないわ」


ヘレナの目が、歓喜に細められる。


「天秤の左側の皿に、あなた自身の『生きた肉体の一部』を乗せること。あなたの肉体が持つ質量と、そこに宿る魔力を供給し続けることでのみ、呪いの進行は相殺される。つまり……圧倒的な実体験。理論で、机上の空論で他者を裁くあなたは、他人の痛みに無関心だった。清算するのよ。肉体を削り、愛する者たちの命を買いなさい」


エラーラは無言のまま、立ち上がった。

彼女の瞳はすでに、ヴェリタスの天秤の構造と術式の解析を完了させていた。どれだけの質量が必要か。どれだけの魔力密度が要求されているのか。


数秒の沈黙。


そして、エラーラの頭脳は冷酷な事実を弾き出した。

自分が生き残るルートは、完全に存在しない。

天秤を均衡させ、呪いを完全に解呪するために必要な質量と魔力量は、明らかに……エラーラの致死量を遥かに超えていた。このゲームは最初から、エラーラが死に至るまで肉体を捧げ続け、それでもなおリオンとアスナを救えずに絶望の中で息絶えるように設計された、ヘレナの完璧な復讐の罠であった。


「フム……面白い計算式だねえ」


エラーラの口からこぼれたのは、恐怖でも命乞いでもなく、氷のように冷徹な呟きであった。

彼女は迷うことなく、天秤の傍らに用意されていた、赤黒く錆びついたノコギリを手に取った。雑菌や腐敗した魔力がこびりつくその凶器は、肉体を切断する際の苦痛を極限まで増幅させるためのものだ。

エラーラは純白の白衣を少しだけ捲り上げると、自らの右足の太腿にノコギリの刃を当てた。躊躇いは、一ミリ秒たりとも存在しなかった。

刃が皮膚を引き裂き、脂肪組織を断ち切り、筋肉の繊維を無残に引き千切っていく。鮮血が噴き出し、白衣と床を瞬く間に赤く染め上げた。エラーラは顔をしかめることすらしない。彼女は自身の意識を極限まで覚醒させ、ショック死を防ぐと同時に、切断された肉体が「生きている」状態を保つよう、傷口の断面に高密度の魔力を循環させ続けた。

骨を削る鈍い音が事務所に響き渡る。自らの手で自らの肉体を切断するという想像を絶する激痛。しかし、エラーラの表情は恐ろしいほどに平然としていた。計算通り。痛覚信号の伝達速度、血液の喪失量、意識の混濁率。全てが彼女の予測の範疇で推移している。

切り離された右足が床に落ちた。

エラーラは片足でバランスを崩しながらも、魔力で自身の体を支え、血まみれの右足を拾い上げると、天秤の左の皿に無造作に放り投げた。

天秤が重々しい音を立てて少しだけ左に傾き、起爆装置の真紅の光がわずかに弱まる。しかし、均衡には程遠い。


「素晴らしい!エラーラ!私はね、あなたが絶望に歪む顔が見たかったのよ!」


モニター越しにヘレナが狂喜の声を上げる。だが、エラーラは歪んでなどいなかった。彼女の顔には、自身の計算の正確さと、痛覚という物理現象に対する勝利を誇るような、冷徹で美しい笑みすら浮かんでいた。


「騒がしい妹だねえ。計算の邪魔だよ」


エラーラは止まらない。

大量の血液が失われ、急速に体温が奪われていく中、彼女は今度は自らの左腕にノコギリを押し当てた。右手だけで不器用だが、一切の迷いのない力強いストロークで、刃が腕の肉を削いでいく。

血飛沫が舞い、エラーラの美しい銀髪に真っ赤な斑点を作る。神経が断ち切られる度、脳を焼き切るような痛みが走るはずだが、エラーラの目は一切の感情を排したガラス玉のように澄み切っていた。彼女の胸の奥底にある、リオンとアスナへの深い愛情。その純粋な熱量だけが、崩壊していく肉体を無理やり稼働させるエンジンとなっていた。

左腕が切り離され、右足の上に積み上げられる。天秤はさらに沈み込むが、ヴェリタスの天秤は未だに均衡を拒絶していた。起爆装置は再び禍々しい光を放ち始め、呪いの進行が再開される。


「ははははは!無駄よ!エラーラ!」


ヘレナの声が事務所に響く。


「あなたの手足の質量と魔力では、絶対に天秤は釣り合わない!あなたは何も守れないまま、その冷たい床で血液を失って無様に死ぬのよ!これが、私から全てを奪ったあなたへの完璧な報いよ!」


ヘレナは勝利を確信していた。彼女の目には、四肢を失い、血の海に沈みゆく哀れな敗者の姿しか映っていないはずだった。


しかし。


「……完璧?」


血だまりの中で、エラーラは残された右腕で体を支えながら、ゆっくりと顔を上げた。

その顔には、敗北の影など微塵も存在しなかった。そこにあったのは、圧倒的な知性で他者を凌駕する、最強の魔導師としての不敵で傲慢な笑みであった。


「愚かな妹だねえ。私と同じ顔を持ちながら、思考が全く足りていないよ……」


「……何?」


ヘレナの笑みが凍りつく。

エラーラは、血に染まった右手を、自らの白衣の腹部へと伸ばした。


「手足などという末端のパーツで、私の全存在の価値が測れるとでも?」


エラーラはノコギリを捨て、残された右手の指先に極限まで高めた魔力の刃を形成した。それは、どんな名剣よりも鋭く、そして残酷な光を放っていた。


「愛の総量は、胃袋の空腹度と反比例して増大する……」


「はあ?……何の話だ!エラーラッ!」


「なんでもないさ……」


次の瞬間、エラーラは一切の躊躇なく、魔力の刃を自身の腹部に深々と突き立てた。


「っ……!」


初めて、エラーラの口から苦悶の息が漏れた。しかし、その手は止まらない。刃は真横に引き裂かれ、純白の白衣と柔らかな腹部の皮膚が完全に切開された。

溢れ出す鮮血の滝。そして、エラーラはその傷口に自らの右手を突っ込んだ。


「何をしている!……何をしていると聞いている!」


モニターの向こうで、ヘレナが驚愕に顔を引き攣らせる。彼女の想定を超えた狂気。いや、狂気ではない。それは、エラーラという存在が持つ、究極の論理と究極の愛の融合であった。

エラーラは、自身の内臓を掴み出した。

湯気を立てる生々しい臓器の束。

そこには、エラーラの生命力と、最強の魔導師としての膨大な魔力が、これ以上ないほどに凝縮されていた。

彼女は、自らの命の根源そのものを引きずり出し、血まみれの右腕でそれを持ち上げると、天秤の左の皿へと叩きつけた。

内臓が皿に乗った瞬間、天秤はこれまでにない猛烈な速度で左へと傾いた。エラーラの命の核が持つ圧倒的な質量と魔力密度が、ヘレナの術式による要求量を一瞬にして凌駕したのだ。

右の皿にある起爆装置が、断末魔のような甲高い音を立てた。真紅の光が激しく明滅し、そして——完全に機能を停止し、沈黙した。

コンソールの上で、リオンとアスナの生体反応を示す緑色の光が、力強く、そして安定したリズムで点滅を再開する。

魔導爆弾の呪いは、完全に破壊された。


「ば、馬鹿な……そんな!……私の論理には……!」


モニターの中で、ヘレナが頭を抱えて叫び声を上げる。彼女の構築した完璧な復讐のシナリオは、エラーラの自己犠牲の前に、脆くも崩れ去った。

エラーラは、大きく開いた腹部からとめどなく血を流しながら、コンソールの緑色の光を見つめた。視界はすでに真っ暗に染まり、聴覚も失われつつある。しかし、その顔に浮かんでいたのは、紛れもない勝利者の微笑みであった。


「これが真理だ!……任せた……よ……アスナ……」


最後の魔力を振り絞り、彼女は誰に聞こえるでもなく囁いた。

冷たい床に倒れ伏す。

純白の白衣は紅蓮に染まり、彼女の周囲には壮絶な「実体験」の痕跡だけが残されていた。


誰よりも不器用な愛を胸に秘めた女賢者は、自らの命を完璧に使い切り、その美しい知性を永遠に停止させた。

誰もいない、探偵事務所の中。

魔導端末の緑の光だけが、彼女の完全なる勝利を静かに讃えるように、明滅を続けていた……

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