定理10:悪の根絶(3)
私の名前はない。
ないのだ。
どこで生まれたのかも、誰の腹から這い出てきたのかも、知る由はなかった。
物心ついた時から、私は、泥と血と汗の悪臭が永遠に漂い続ける冷たい板張りの床の上にいた。
獅子獣人のゴルドファング議員が裏で糸を引く、華やかな表向きの顔とは裏腹に、内部は奴隷の収容所と何ら変わらない拷問部屋のような劇団。それが、私の認識する世界の全てであった。
その劇団を莫大な資金面で運営し、私をこの、逃げ場のない永遠の地獄へと縛り付けていたのは、王都でも名高い資産家の騎士一族クライフォルト家であった。
そこでの毎日は、終わりのない拷問のような日々だった。
舞台の裏側の薄暗い檻の中で鞭打たれ、肌を裂かれ、浴びせられる嘲笑。
人間としての尊厳など、最初から存在していなかった。
逃げたかった。
私は逃げたかった。
暗い檻の隅で膝を抱え、幾度となく訪れない死を夢見た。
そんなある日のことだ。
酒に酔い、濁った目をした汚らしい劇団長が、暇つぶしで私の顔をグリ、グリ、グリ、グリと硬い靴底で容赦なく踏みつけながら、唐突に、こう命じたのだ。
「おいてめえさ、魔法。ほら。使ってみろや。ひひひひひ」
何を無茶なことを!……と、私は心の底で思った。
私のような名もなき存在に、魔法などという特権階級の高尚な技術など、使えるはずがないではないか。
だが、劇団長が嘲笑交じりに、酒の臭い息と共に吐き捨てた言葉は、私の運命の残酷さを決定づけるものだった。
私は、あの偉大なる賢者の一族、王都の誰もがひれ伏す名門ヴェリタス家の血筋を直接引く者だったらしいのだ。
そして、残酷な真実はさらに恐ろしい連鎖を伴って私の耳に叩き込まれた。
私の姉は、王都でその名を轟かせる世界最強の魔法使い、エラーラ・ヴェリタスであるという。
次女には、最強の武闘派探偵として裏社会からも恐れられるナラティブ・ヴェリタスがいる。
さらには、そのエラーラにはアリシア・ヴェリタスというエルフの美しき養女までおり、彼女たちは光の当たる場所で、温かで幸せな家庭を築いているというではないか。
それだけではない。
私が知った最もおぞましく、吐き気を催す事実が以下だ。
最強の姉であるエラーラが、私の心をズタズタに引き裂き、毎日のように尊厳を踏みにじったあのゴルドファング家の傲慢なバカ息子、リオン・ゴルドファングと親友同士であるということだ。
そしてあろうことか、エラーラは、悪魔の巣窟であるこの劇団に莫大な出資を行い、私の地獄を間接的に作り出している元凶たるクライフォルト家の娘、アスナ・クライフォルトと結婚したというのだ。
なんだあ、これは。
みんなして……みんなして、光の当たる美しい場所で幸せを手に入れ、英雄として称賛されているのか。
その足元で、同じ血を分けた私だけが、彼らの親友と伴侶の家系によって、見えない地獄の底で泥を啜らされている。
なんだあ、これは……
この世界は、狂っていたのか。
神などいないのか。
そうか。
ここにあるのは、悪意だけだったのか。
だが!
そんな永遠に続くと思われた真っ暗な日々に、ついに正義の力によって解放される時が訪れた!
私をこの泥濘から引きずり出してくれたのは、レクタ・ファルサスという名の瞳の澄んだ天才少年と、ファントム・シュピーゲルという孤高の天才博士だった。
彼らは、劇団の暗部を独自に調査する中でたまたま私を見つけ、その卓越した頭脳と一切の迷いのない実行力で、私を地獄から救い出してくれたのだ。
彼らは私に、人間としての温かさを教えてくれた。
清潔なベッド、温かい食事、殴られる恐怖のない静かな朝、そして何より……「希望」という輝かしい、新しい概念を。
ある日、彼らは語った。
「戦争をやめろ」と。
「軍備を拡張しろ」と。
一見矛盾しているように聞こえるその言葉は、おそらく、圧倒的な武力の均衡による、絶対的な平和への祈りであったのだろう。
彼らは天才であるがゆえに、この腐敗した世界の構造を正そうとしていたはずだ。
しかし!
その崇高な祈りは、私が憎悪する者たちの手によって無惨にも打ち砕かれた。
ヴェリタス一家の主導のもと、クライフォルト一家の非情な私設部隊が、平和を望んだだけの二人を……強襲したのだ!
二人は圧倒的な暴力の前に捕らえられ、国の医療センターという名の拷問施設へと送られた。
そして、彼らのあの素晴らしい、未来の希望が詰まっていたはずの天才的な脳は、物理的な熱によって焼き切られ、何も語ることも、考えることもできない廃人へと変えられてしまった。
私は、あの時、自分の「すべて」が崩れ去るのを感じた!
声が掠れ、喉から血が滲み、目から流れる涙が完全に枯れ果てて砂のように乾くまで、私は安全な隠れ家の隅で泣き叫んだ!
なぜ、善人が報われず、悪魔のような連中が正義の顔をして笑っているのか!
やはり、この世界には強者の都合の良いルールしか存在しないのだ!
……あれから、数年の重く苦しい時が流れた。
私は身を隠し、息を潜め、ただ無為な日々をやり過ごしていた。
ある日の午後。
私はたまたま、安物の魔導端末を開いた。
画面に流れてきた無機質なニュースの文字が、私の眼球を焼き、脳髄を沸騰させた。
『ファントム・シュピーゲル、成層圏から地表へ落下!至近距離から光線を浴びて爆死!竜人アスナ・クライフォルト大手柄!』
『レクタ・ファルサス、散歩中にリオン・ゴルドファングに私人逮捕され、即時処刑執行!』
私は、何かの間違いかと思った。
いや、悪質な冗談であってほしかった。
あんなにも優しく、賢かった二人が、なぜ。
なぜ、無惨に、まるで路傍の虫けらのように殺されるのか。
そんなこと、あってはならない。
そんなこと、うそだ。
気が、動転していた。
心臓が早鐘のように打ち、呼吸の仕方を忘れた肺が痙攣し、視界がかちかちと明滅した。
私は、自分が室内用のサンダル履きであることにも気づかず、焼け付くようなアスファルトの道を無我夢中で走り出した。
真実を、知りたかった。
魔導端末の冷たい文字だけでは、信じられなかった。
街角の書店へと転がり込むように駆け込んだが、そこには私が求める新聞は売られていなかった。
周囲の景色がグニャグニャと歪み、行き交う人々の声がノイズとなって耳にまとわりつく。
私はそのまま、目についた一軒の古びたカフェへと飛び込んだ。
注文もせずに、カウンターの奥にあった時代遅れの魔導ラジオのスイッチを、震える手で乱暴に捻った。
突然の乱入者に、エプロン姿の不細工な女店主が鋭い声で私を咎め立てる。
それでも私はラジオにすがりつき、音量を上げようとした。
その時、たまたま居合わせた、被害者ぶったお節介な臭い老婆が、狂乱する私を止めるためか、私の無防備な腹部に強烈な一撃を見舞った。
息が詰まるほどの激痛が走った。
だが、その身体的な痛みすらも、私の心を満たす巨大な絶望には及ばなかった。
うずくまり、吐きそうになりながら、私はその時、自分の自宅にテレビがあることを唐突に思い出した。
私は這うようにしてカフェを飛び出し、再び自宅のボロアパートに向かって走った。
サンダルはとうの昔にどこかで脱げ落ち、裸足の足の裏はアスファルトの熱と破片で血まみれになっていたが、止まることはできなかった。
アパートにたどり着いた時、たまたま隣の家の開いた窓からテレビの無機質な音声が漏れ聞こえてきた。
私は、自分の部屋の鍵を探して開ける時間すら惜しく、そのまま開いていた隣の家の玄関から土足で上がり込み、リビングのテレビの前に立ち尽くした。
「はーっ!はーっ!……み、見ますから!私!……見……見ます、から……私の、父さんが!ふたり!ふたりの、父さんが……!」
異様な光景だっただろう……
血まみれの裸足で、髪を振り乱し、目を血走らせた見ず知らずの女が突然家に上がり込んできたのだ。
ソファに座って茶を飲んでいた老夫婦も、足元で丸くなっていた飼い犬も、怪訝そうに、そして、次第に恐怖に怯えた顔で私を見ていた。
だが、私の視界には、魔導テレビの液晶画面しか映っていなかった。
周囲の空気など、どうでもよかった。
画面の中では、二人の無惨な死が、まるで偉業であるかのように華々しく報じられていた。
そして、その報道番組のゲストとして、あろうことか……あのクソ野郎が、あのバカ姉が、あの、残忍の権化の、「悪」そのものの、エラーラ・ヴェリタスが……出演していたんだよ!
ヤツは、鼻高々に笑っていた!
自分の親友と妻が、私の唯一の恩人を惨殺したというのに、ヤツは、自分こそが正義の味方ですよといった顔をして、そのでっぷりとした醜い腹を揺らして、笑っていたのだ!
クソが!
私は、その時……自分が泣いていることに気づいた!
涙は数年前にとうに枯れ果てたと思っていたのに、あの野郎たちから踏み躙られて全てを奪われたいま、魂の底から絞り出されるような……怒りと悲しみの、血の涙が……頬をだくだくと伝っていた!
限界だった!
限界だったさ!
もう、限界だったんだよ!
精神の許容量を遥かに超えた悲哀と憎悪が、私の意識を真っ暗な深淵へと引きずり込んだんだ!
だが!
私は魂の力がつきてしまった!
私はテレビの前で膝から崩れ落ち、そのまま深い闇の中へと気を失った……
目が覚めた時、私は、真っ白な天井を見上げていた。
消毒液の匂い。
生命維持装置の機械音。
そう。
ここは、王都中央病院。
あの隣の老夫婦が警察か病院に通報し、救急車で運ばれたのだろう。
私はベッドの上にゆっくりと身を起こした。
確かにあの絶望的なニュースを見たはずだ。だが、私の頭は奇妙なほどに冴え渡り、同時にその「絶望」という事実を受け入れることを、脳の機能として完全に拒絶していた。
私の内側で暴れ狂っていたすべての感情は、限界の頂点を超え、臨界点を突破し、ただひとつの、冷徹で、透き通るような結論へと達していた。
無感動に、私の人生を潰した実行犯たち!
リオン!
そして、アスナ!
あの、ゴミクズ野郎たちを、それこそ、一切の関心もなく、路地裏のゴミを蹴り飛ばして踏みつるように、絶対に自分の手は下さずに、完全なる破滅へと追いやってやる!
そして!
ニュース番組の画面の中で、私の恩人の死を鼻高々に笑っていたエラーラ・ヴェリタス!
憎き私の姉!
あいつだけは!
あいつだけは、必ず!
この世で最も悲惨で、最悪の屈辱的な方法で……殺してやる!
あのでっぷりとした腹と、豊満な胸。あれは、恵まれた環境と裕福さの醜い擬人化ではないか!
すべてを奪われ、飢えに苦しんできた私に対する、最大の侮辱だ!
だから私は、奴に、私と全く瓜二つの顔と銀髪と褐色肌を持ちながら、間接的に私を絶望の底に叩き落としたあの傲慢なエラーラ・ヴェリタスを、極限の飢餓に追いやって、その肉体を削ぎ落とし、無惨に殺してやるんだぜ!
奴らの、あの吐き気がするような「善人でござい」といった顔を、醜い悪意と絶望に歪めてやるのだ!
その絶対的な決意を固めた、まさにその時だった!
私の脳内に、突如として落雷のような、あるいは、宇宙が誕生する時のような衝撃が走った!
いや、これは、衝撃という生易しいものではない!
世界が、開けたのだ!
私は、この世の全てが見えたんだ!
空間を漂う魔力の微細な粒子の流れ、大気を構成する分子の振動、人間の思考が発する微弱な電気信号!
それらすべてが、まるで手書きの精密な設計図のように私の脳内に直接流れ込んでくる!
この感覚は、なかなか、言葉では形容しづらい。
一番近い感覚を探すなら……そうだな……ある日突然、補助輪なしで自転車に乗れるようになった時の、あの唐突な身体と重力の理解だろうか。
もしくは、幼い頃に九九が突然すらすらと口から出てくるようになるような感覚か。
あるいは、絵の卓越した技術を持つ者が、絵が下手だった頃の線の引き方をもう二度と正確には思い出せない、あの不可逆的な認知の変化の感覚だ。
「できた」というよりは、「できなかった頃の自分の愚かな思考回路が、完全に消滅してしまった」のだ。
私は、あのヴェリタス一家を完全に抹殺するという、「圧倒的な目的意識」が生まれたことにより、私自身の奥底に眠っていたヴェリタスの血、すなわち奴らと同じ、身体中のすべての「究極の知性」が、極限まで覚醒したのだ。
そう。夏休みの最終日に、すっかり忘れていた大量の宿題を唐突に思い出すように。
私の身体が、魂の絶対的な危機と復讐への渇望を感じ取り、感覚が異常なまでに研ぎ澄まされていく。
世界が完全にスローモーションになり、私の頭脳は、かつての恩人たちすら凌駕するほどの恐るべき演算速度を獲得していた。
決して間違ってはいけないのは、私が早くなったのではない。世界があまりにも遅いということに、ただ、気がついただけだ。
それから数日後。
誰の目にも留まらない、静かな病室のベッドの上で、私は誰にも見咎められることなく、歴史を覆す悪魔の兵器を完成させた。
高度な魔法の術式と、極微小のウイルスの自己増殖構造を完璧に融合させた混成体。
名付けて「思想ウイルス」。
これは、感染した者の大脳新皮質に寄生し、あらゆる思想や感情のベクトルを完全に反転させるという、史上初の精神破壊兵器である。
善意を悪意に変えるウイルス。
誰かを深く愛していればいるほど、その愛は強烈な殺意へと反転する。
目の前の人を助けたいと心から願えば願うほど、その手を凶器に変えて相手の喉笛を掻き切ってしまう。
恐ろしい殺人鬼から逃げたいと恐怖すればするほど、自ら進んでその殺人鬼の刃へと身を投じていってしまうのだ。
完璧じゃあないか!
リオン・ゴルドファングとアスナ・クライフォルトは、これで確実に終わるじゃあないか!
奴らは、正義感ぶって誰かを助けようとした瞬間、あるいは自らの家族を愛そうとした瞬間、その対象を惨殺し、あるいは自らの最も愛する者、あるいは感染した見ず知らずの誰かの手によって、必ず凄惨な死を迎えるだろうよ!
そして、私の最大の標的であるエラーラ・ヴェリタス!
あの忌まわしい天才魔導士は、その無駄に高い知性ゆえに、このウイルスの存在と恐ろしさに、誰よりも早く気がつくはずだ!
ウイルスに感染すれば、自分自身が持つ最強の魔法が、周囲の人間を皆殺しにする殺戮兵器へと変貌してしまう!
その可能性に気づいた彼女が取る行動は一つしかないんだぜ!
他人への感染と、自身の暴走を防ぐため、物理的にも魔法的にも完全に遮断された自宅の結界の奥深くに籠城する!
そして、愛する者を傷つけないために、誰の助けも呼べず、食糧を補給することもできず、ただ暗闇の中で自害するか、あるいは緩やかに、そのでっぷりとした腹の脂肪をすり減らしながら、極限の苦痛を伴って餓死を選ぶはずだ!
私が望んだ、最も残酷で滑稽な死のシナリオの完成であるよ!
私は、手の中で妖しく光るこの小さなアンプルの瓶を見つめながら、暗い病室で一人、歓喜の笑いを堪えきれなかった。
誰かに自慢したかったね!
こんな病院のベッドの上で、いかなる設備も持たずに、己の頭脳と魔力だけで究極の殺人兵器を完成させた人間など、この長い世界の歴史上、存在したであろうか?
絶対に、私以外にはいないね!
私は、たったの数日で、エラーラ・ヴェリタスを超えたのだ!
点滴の針をでたらめに引き抜き、腕から血を流しながら、私は病室の窓を開け放った!
生温かい王都の夜風が、私の銀色の髪を不規則に揺らす。
「復讐」の始まりだ。
私は、ウイルスの小瓶を胸に強く抱き、穏やかな笑みを口元に張り付けたまま、深い夜の街へと身を翻し、静かに消えていった。
私という存在のすべてを賭けた、完璧な復讐の幕開けであった……!




