定理1:飛竜の覚醒(1)
●リメイク元
「ヴェリタスの最終定理 自伝」
●これまでのあらすじ
善意を思い描いたら反転して悪意になる「思想ウイルス」の蔓延で、世界は暴徒で溢れかえり、滅亡した。
それから数年後。
あの日、ウイルスを蔓延させてしまった戦犯・竜人アスナ・クライフォルトは、未来ある子供たちを引き連れ、荒野を彷徨っていた。
空は赤黒く、太陽はただ、無慈悲に大地を焼き焦がす。
思想ウイルスが魔導文明を完全に破壊し尽くしてから、途方もない時間が経過していた。地脈は枯れ果て、魔法という「技術」は完全に過去の遺物となり、世界にはただ過酷な物理法則と、暴徒たちの暴力だけが残された。
見渡す限りの荒野を、一人の女が歩いていた。
ボロボロになった分厚い防砂コートを羽織り、眼鏡の奥にある青い瞳は、いかなる絶望を前にしても決して揺らぐことのない絶対的な静謐を保っていた。彼女の背後で砂を払う極太の竜の尻尾には、この過酷な世界を生き抜いてきた無数の生々しい傷跡が深く刻まれている。
アスナ・クライフォルト。
家族を失い、友を失い、敵も味方もすべて失い、誰かにすがることも、過去の幻影に逃げ込むこともなく、ただ、己の肉体と意志だけを頼りにこの死の荒野を生きる女。
「……っ……」
アスナの背後を必死についてきていた小さな影が、荒野の石につまずき、乾いた土の上に激しく転倒した。
口のきけない、十歳にも満たない孤児の少女だった。彼女の後ろには、同じようにウイルスに感染せず生き残った数人の幼い子供たちが、怯えた顔で身を寄せ合っている。
少女は擦り剥いた膝から血を流し、痛みに顔を歪めてアスナを見上げた。
だが、アスナは歩みを止め、振り返りはしたものの、決して手を差し伸べることはしなかった。
「立ちなさい」
荒野の風を切り裂くような、冷徹で静かな声だった。
「自分の意志で前へ進みなさい。それができなければ、死ぬだけです」
それは冷酷な言葉に聞こえるかもしれない。
だが、この狂気の世界において、誰かに依存することは、即ち死を意味する。
自分の命の責任は自分で負う。
それこそが、すべてを失った彼女がこの世界で子供たちに教えることのできる、最も厳しく、最も純粋な愛情の形だった。
少女はポロポロと涙をこぼしながらも、震える両腕で地面を突き、自らの力で再び立ち上がった。
アスナは小さく頷き、再び荒野の彼方へと向き直った。
彼女たちが目指しているのは、ウイルスの影響が届かないと噂される手付かずの緑の場所、最後の地。過去の因習も狂気もない、この子供たちが自らの手で未来を描くための、希望のキャンバスだった。
その時だった。
乾いた風に乗って、焦げたオイルと鉄錆の嫌な匂いがアスナの鼻腔を突いた。
地平線の向こうから、凄まじい砂埃を上げて複数の装甲バギーが迫ってくる。
思想ウイルスに脳髄を焼かれ、殺戮と略奪だけを目的とする狂徒たちの武装集団だった。彼らは奇声を発し、錆びついた魔導銃や鉄パイプを振り回しながら、一直線にアスナたちへと向かってくる。
「岩陰に隠れていなさい。決して出てきてはいけません」
アスナはコートを脱ぎ捨てた。
「肉だァァァッ!新鮮な肉が歩いてるぞォォォッ!」
先頭のバギーから飛び出してきた大男が、錆びた鉈を振り下ろしてくる。
アスナはその太腕の軌道を最小限の動きで見切り、男の懐へと一瞬で潜り込んだ。
アスナの掌底が男の顎を正確に撃ち抜き、巨体が宙を舞う。その勢いを殺すことなく、彼女は身体を回転させ、遠心力を乗せた竜の尻尾を後続の敵集団へと叩き込んだ。
三人の男がくの字に折れ曲がり、血を吐きながら吹き飛んでいった。
次々と仲間が物言わぬ肉塊へと変えられていく様を見て、狂徒たちの動きにわずかな恐怖の鈍りが生じる。
だが、狂徒たちのリーダー格である男は、正面からの戦闘を諦め、卑劣な手段に出た。
彼は乱戦の最中、岩陰から震えながら様子を覗き込んでいたあの口のきけない少女に狙いを定めたのだ。男の手には、大型の魔導銃の残骸が握られていた。
「小娘ェェェッ!」
男の狂気に満ちた叫びと共に、銃口から黒い弾丸が撃ち出された。
アスナの脳裏で、思考よりも先に魂が動いた。
彼女は驚異的な脚力で大地を蹴り、少女の盾となるべく、その身を虚空へと投げ出した。
「……っ……ぁ……」
アスナの右の腹部を、黒い弾丸が深々と貫いていた。
激痛という言葉では生ぬるい。撃ち込まれた瞬間、弾丸に仕込まれていた致死の猛毒が瞬時に血液に溶け込み、全身の神経を刃物で細切れにされるような絶絶的な苦痛がアスナの肉体を襲った。
その傷口からは、赤い血ではなく、赤黒く腐敗したような不吉な液体が流れ出していた。
「あははははッ!その弾はな、身体を内側から腐らせて、確実に命を奪う毒弾だぜ!」
リーダーの男が下品な笑い声を上げる。
少女は音のない悲鳴を上げ、ボロボロと涙を流した。他の子供たちも絶望に顔を歪める。
だが。
「……私の子供たちに、気安く……触れないでください!」
アスナは、自らの傷口から流れる黒い血を素手で拭い、ゆっくりと、そして岩のように揺るぎない動作で再び立ち上がった。
その顔には、死の恐怖も、毒の苦痛も一切表れていなかった。ただ、未来を脅かす害悪を排除するという、静かで絶対的な怒りだけが青い瞳の奥で燃え盛っていた。
「な、なんだお前……その毒を喰らって、なぜ……!?」
後ずさる男の首を、アスナの手が万力のように掴み上げた。
アスナの極太の尻尾が、男の胴体を容赦なく薙ぎ払った。
圧倒的な暴力の嵐が、残された狂徒たちを完全に蹂躙し尽くす。
荒野に再び静寂が戻った時、立っているのは血と毒にまみれたアスナただ一人だった。
彼女は荒い息を吐きながら、自らの腹部の傷を見下ろした。毒は確実に臓器を侵し始めており、すでに恐ろしいほどの高熱が彼女の体温を奪い始めている。
治癒する方法など、この崩壊した世界には存在しない。これは、完全に確定された死の宣告だった。
アスナは振り返り、恐怖と悲しみに震える子供たちを見た。
泣きじゃくる少女の頭に、血と泥に汚れた手をそっと置く。
「泣くのはやめなさい。涙で視界を滲ませていては、前へは進めません」
アスナの声は、いつもと同じように落ち着き払っていた。
自らの死が確定したというのに、彼女の心にあるのは絶望ではなく、残された時間で成し遂げるべき明確なタスクの逆算だけだった。
「行きましょう。私の命が続く限り、必ずあなたたちを最後の地へ送り届けます。……自分の足で、歩きなさい」
アスナはコートを拾い上げ、再び自らの肩に羽織った。
臓器が焼けるような激痛を、彼女は強靭な意志の力だけで完全に封じ込める。
猛毒の弾丸をその身に受けてから、二度目の夜明け。
思想ウイルスに汚染されていない「最後の地」を目指す過酷な旅。水も食料も極限まで切り詰められ、ただただひたすらに太陽に焼かれる灼熱の行軍は、幼い子供たちの体力と精神力を容赦なく削り取っていく。
「……もう、いやだ……歩けないよ……」
列の最後尾を歩いていた少年が、ついに限界を迎えて乾いた土の上にへたり込んだ。その声に引きずられるように、他の子供たちも次々と座り込んでしまう。
助けてほしい。
背負ってほしい。
せめて、優しい言葉をかけて慰めてほしい。
彼らの瞳に宿っているのは、かつての平和な世界であれば当然許されたはずの、子供らしい「甘え」だった。
アスナは静かに足を止め、ゆっくりと振り返った。
彼女の表情には、ただ、世界の真理を突きつけるような、冷徹で揺るぎない眼差しがそこにあった。
「歩けないのなら、そこで泣いていなさい」
アスナの言葉は、熱を帯びた風よりも残酷に子供たちの耳に響いた。
「ここは、誰も助けに来ない荒野です。……生きたいのか、ここで死ぬのか。自分の頭で考え、自分で決断しなさい」
少年が、縋るように声を絞り出す。
「だって……足が痛いんだ! お水も飲みたい! アスナは強いから平気なんだろうけど、ぼくたちは子供なんだぞ!」
「……!」
アスナはけして、強いのではない。
ただ、幼少期の凄惨な暴力を生き延びてしまった、ただの、生存者でしかない。
アスナの呼吸は浅く、声には血の匂いが混じっていた。だが、その瞳に宿る光は、太陽よりも眩しく、そして熱く燃え盛っていた。
「……私は、痛みも苦しみも、全て感じています。今すぐここへ倒れ込み、目を閉じてしまえたらどれほど楽かとも思います。……それでも私が歩くのは、誰かに自分の命を預けるということが、どれほど恐ろしく、惨めなことかを知っているからです」
かつて、国家や家庭という組織に依存し、歯車として生きていた過去。
そして、本当の「帰るべき場所」を自らの足で見つけ出した誇り。
アスナは、残された僅かな命の全てを使って、その「自立」の重さと尊さを子供たちの魂に刻み込もうとしていた。
「誰かに背負われて辿り着いた未来に、本当の自由はありません。自分の足で踏み出した者だけが、自分の人生の主役になれるのです。……立ちなさい。そして、歩きなさい。あなたの命は、あなた自身のものです」
荒野に静寂が落ちた。
風の音だけが吹き抜ける中、最も小さな影が動いた。
口のきけないあの少女だった。
彼女は、血を吐きながらも決して自分たちを見捨てず、決して倒れようとしないアスナの背中を見つめていた。その小さな胸の奥で、恐怖と依存の殻が音を立てて砕け散るのが分かった。
少女は、泥だらけの小さな両手で地面を強く叩き、震える足に力を込めた。擦りむいた膝から再び血が滲む。それでも彼女は、歯を食いしばり、アスナの目を見て、自らの力で立ち上がった。
そして、無言のまま、力強く一歩を前へと踏み出したのだ。
その小さな、けれど圧倒的な命の輝きに満ちた一歩は、他の子供たちの魂をも震わせた。
「……ぼくも……歩く」
文句を言っていた少年が涙を拭い、ふらつきながらも立ち上がる。他の子供たちも、互いに手を貸し合うことなく、自らの意志で大地を踏みしめた。
彼らの瞳からは、もはや保護者に庇護を求める甘えは消え去り、生き抜くための過酷な意志が宿り始めていた。
アスナは、自らの足で立ち上がった子供たちの姿を確認すると、口元にわずかな、本当にわずかな微笑みを浮かべた。
「……行きましょう。私たちの未来へ」




