定理1:残穢との対峙(1)
●リメイク元
「エラーラ・ヴェリタス」孤狼の挽歌
「エラーラ・ヴェリタス」狂いの街角
「ナラティブ・ヴェリタス」悪の街
「ナラティブ・ヴェリタス」演技派の狂人
「ナラティブ・ヴェリタス」はぐれ犬の仁義
「ナラティブ・ヴェリタス」青春は嵐のように
「ナラティブ・ヴェリタス」手づくりの悪
「アリシア・ヴェリタス」最強無敵改造車
●未来の不安の救済
「世界を救う論理の出力は、天才の演算精度と、観測者という名の君の熱量に正比例する」
世界を叩きつける凄まじい横殴りの雨は、王都の石畳を容赦なく削り取り、雷鳴は空が真っ二つに割れるような轟音を響かせていた。視界は雨に遮られ、街灯の光は不規則な明滅を繰り返している。
そんな嵐の夜、ある廃棄倉庫の屋上で、私、エラーラ・ヴェリタスは、一人の男を追い詰めていた。
事の始まりは、王都魔導規制局からの極秘かつ緊急の依頼だった。王都の最重要金庫から、ある一冊の魔導書が盗み出されたという。
犯人は腕利きの窃盗犯だったようだが、私の演算の前には、彼の逃走経路など子供の遊戯に等しい。
「……はぁ、はぁ……化け物め、何なんだお前は!」
男が恐怖に顔を歪ませ、奪ったばかりの黒い布に包まれた物体を抱え直す。私は冷徹な視線を彼に向けた。
「無駄な抵抗はエネルギーの浪費だよ。大人しくその書物を返し、監獄で人生の再計算をすることをお勧めするよ」
男が絶望に駆られて隠し持っていた魔導銃を抜こうとした瞬間、私は指先をわずかに動かした。
微細な電撃が走り、男の神経を麻痺させる。銃は泥水の中に落ち、男は力なくその場に崩れ落ちた。
事件は、あっけなく終わった。
私は男の手から転がり落ちた、黒い布包みを拾い上げた。
そこにあったのは、題名も装飾もない、ただ重苦しいマナの圧力を放つ一冊の古びた魔導書だった。
私にはわかった。
それは、かつての世界……私が、そして世界が一度目の終わりを迎えた後の『二度目の破滅』において、すべてを終わらせた凶器であることを。
私は反射的にその書物を開いた。刹那、私の脳内に、存在しないはずの、しかし確かに私の魂に刻まれた凄惨な記憶が爆発的に流れ込む。
雨の音は消え、視界は血の赤に染まる。
そこには、この魔導書に記された技術『最適化』を体得したアリシアの姿があった。
彼女の動きには一ミリの迷いも、一ミリの無駄もなかった。戦術と武術を極限まで論理化し、敵を殺すためだけの最短距離を導き出す神業。彼女は、私の目の前で、あの強靭なナラティブの胸を、ただの素手の手刀で無造作に、そして完璧に串刺しにした。
次に、アリシアは私に向き直った。
全人類を味方につけた彼女が口にしたのは、私の論理的思考を逆手に取った、逃げ場のない『死の証明』だった。
「貴女の学は、わたくしの愛に負けたのです」
世界のすべてを殺して、世界で唯一の一人になって「勝利」するか。
世界で唯一自分だけが死んで、世界を生かすか。
その言葉に抗う術を、私は持っていなかった。
戦わずして、私は負けた。
私は自らの意志で、自らの命を絶つため服毒した。
激しい雷鳴が私を現実に引き戻した。
私は横殴りの雨に打たれながら、手にした魔導書を憎しみを込めて睨みつけた。
これだ。これが、未来において私とナラティブを殺し、世界を滅ぼした種子のひとつなのだ。今、この場でこのバグを消去しなければ、あの地獄が再び繰り返されることになる。
私は迷わなかった。指先に全魔力を集中させ、超高密度の熱量を魔導書に叩き込んだ。
「焼却だ」
青白い炎が、降りしきる雨を蒸発させながら、魔導書を包み込んだ。紙面が黒く焼け焦げ、灰となって嵐の中に霧散していく。
私は焼け残った灰が泥水に溶けるのを見届け、深く息を吐き出した。
「……終わったよ。これで、アリシアの最適化は起こらない。世界の破滅は、未然に防がれた。私の勝ちだ、運命よ」
私は満足げに笑い、空を仰いだ。
天才エラーラ・ヴェリタスは、己の英知によって最悪の悲劇を回避した。
……そう、確信していた。
この時、私は気づいていなかった。
いや、気づくことなど、「論理的に不可能」だったのだ。
私が焼却したのは、『二度目』の破滅の種だった。
だが、この世界は、かつて「二度」破滅している。
私が今救ったと信じているのは、アリシアが愛という名の最適化によって世界を閉じた、その断片に過ぎない。
その前にもう一度、世界を終わらせようとした大きなうねりがあったことを、私は知らない。
なぜ、世界一の天才である私が、その事象を記憶していないのか。
理由はあまりに単純だ。
かつての世界において、私は『一度目』の破滅が発動する前に、一番はじめに、ある少年の手によって頭をぶたれて、あまりにあっけなく殺害されていたからだ。
死者はログを残せない。
私が死んだ後、主を失った王都で「誰の」「どのような魔法」が発動し、「どのような終焉」が訪れたのか。その光景を、私は観測していない。だから、私の脳内の演算ユニットには、そのテロに対する警戒データが、最初から「存在しなかった」のである。
雷鳴が、王都の闇を照らし出した。
雨は、止まない。
・・・・・・・・・・
王都魔導規制局、合同庁舎、地下六階。
窓一つ存在しない無機質な部屋は、巨大な墓標のようであった。静寂が支配するその空間で、魔導端末から放たれる青白い光だけが、私の顔を冷たく照らしていた。時刻は深夜二時をとうに過ぎている。
本来ならば、今頃はヴェリタス探偵事務所の、あの使い込まれて少しだけへたったソファで、白衣の主が淹れた泥のように苦くて非論理的な珈琲を無理やり飲まされているはずの時間だった。
「……嘘でしょう。何かの間違いですわ。あってはならないことです……」
私は震える指先で端末のキーを叩き、画面に羅列された警告ログを何度も読み返した。
「……そんなこと、絶対にさせませんわ!」
私は端末から兵器の強制停止コードを物理データ結晶へと書き出すと、それを制服の懐深く、心臓に近い場所へと仕舞い込んだ。決意と共に床を叩いた私の太い竜の尻尾が、重厚な地響きを鳴らす。
「あの人」の「過去の罪」は、妻である私が、誰にも知られずにこの王都の闇の中で清算する。それが私の、そしてこの誇り高き尻尾にかけて誓う矜持であった。
・・・・・・・・・・
王都の朝は、いつもと変わらぬ喧騒と共に幕を開けた。貴族街の虚飾とスラムの現実が交差する境界線に建つ、ヴェリタス探偵事務所。そのキッチンでは、ナラティブ・ヴェリタスが分厚いステーキ肉を豪快に焼いていた。
「もう、お母様ったら全然起きてこないじゃない!せっかくの霜降り肉、このままじゃ脂が固まっちゃうわよ!」
フライパンから上がる激しい音と香ばしい匂いの中、彼女の視線の先では、アリシア・ヴェリタスが優雅に紅茶を啜りながら、テーブルに広げられた膨大な書類を睨みつけていた。
「文句を言わないの、ナラティブ。それよりも……今月のエンゲル係数、既に我が家の経済的閾値を突破しておりますわね」
アリシアは慈愛に満ちた微笑みを絶やすことなく、しかしその手元では冷徹に計算機が弾かれていた。彼女が指摘するのは、ナラティブがゲームセンターでゲームの筐体を破壊した際の賠償金、エラーラが実験で吹き飛ばした公園の噴水の修理費、そしてアスナが昨日、公務の合間にこっそり買い占めていたエラーラ・ヴェリタス非公式ブロマイドの莫大な請求書であった。
「アスナも一体、何を考えているのかしら!というか、あの生真面目な公務員、今日はえらく静かじゃない。いつもなら肉の焼き加減にまで規制局のガイドラインを持ち出してくるはずなのに」
ナラティブが肉をかじりながら首を傾げると、天井のダクトから白い影が音もなく滑り落ちてきた。グリッチ・オーディナルが、正体不明の電子部品を弄りながら不敵に笑う。
「アスナお姉ちゃんなら、夜明け前にはもう出て行ったよ!緊急の仕事だって言ってたけど」
・・・・・・・・・・
そのノイズの源流は、王都の地下深く、かつて魔導産業革命を支え、今は打ち捨てられた旧世代プラントの最深部にあった。錆びついた蒸気パイプと剥き出しの魔導回路が複雑に絡み合う空間で、武装したテロリストの指導者は、冷たい瞳で中央のクリスタルコンソールを見上げていた。
「王都の愚民どもは、真理を、全く理解していない」
指導者の声が、沈黙した炉心に木霊する。
「数多の争い、無意味な諍い、それらすべては個の自我という境界線が存在するが故に発生するバグに過ぎない。なぜ、あの天才魔導師エラーラ・ヴェリタスは、この美しき調和を封印したのか」
コンソールの中で、赤黒い光の脈動が徐々に速度を上げ、地下の冷気を熱へと変えていく。それはエラーラが若き日の傲慢さゆえに設計し、その完成度の高さから自らの手で葬り去ったはずの戦略級論理兵器。
コードネームは『魂の共鳴』。
「全生命体の脳神経に直接干渉し、絶対的な幸福感を与える。痛みも悲しみも、孤独すらも存在しない。すべてが至福の中に溶け合い、自我の境界線が消失する。世界は完全なる静寂という名の幸福に包まれて終わるのだ」
狂信的な部下たちが、その言葉に酔いしれるように頷く。起動シークエンスは最終段階に入り、王都の地脈は逆流を始めていた。もはや何人たりとも、この甘美なる終焉を止めることはできない。
絶対的な幸福による、世界の消滅。
この世界が白紙にフォーマットされる瞬間は、刻一刻と近づいていた。
・・・・・・・・・・
再び、王都のヴェリタス探偵事務所。寝室の扉が力なく開き、ボサボサの銀髪を無造作に掻き毟りながら、私、エラーラ・ヴェリタスが這い出してきた。
「……フム。なんだか今日は、妙に静寂のデシベル数が高いねぇ」
私は愛用の白衣を羽織りながら、テーブルの上に置かれていたミスター・マジックのドーナツを手に取り、大きくかじりつく。すかさず、昨日の残りの泥のような珈琲を胃袋へ流し込んだ。強烈な糖分とカフェインが、私の優秀な論理回路を強制起動させる。
「おはようございます、おかあさま。お昼ご飯の用意ができておりますわよ」
アリシアが完璧な笑顔で微笑みかけ、ナラティブが呆れ顔で鉄扇を揺らし、グリッチが私の脈拍を計測して喜んでいる。いつも通りの見慣れた日常だ。だが、やはり何かが足りない。本来なら、この時間に私が起きてきた時点で、黒髪に細縁眼鏡の小うるさい官僚が、立派な竜の尻尾で床を叩きながら、私の生活習慣の乱れを非論理的だと断じ、説教を始めているはずなのだ。
「アスナ君は、今日は早出かい?」
私がドーナツを咀嚼しながら尋ねると、アリシアがテーブルの隅を指差した。
「ええ。おかあさま宛てに、書き置きが残されておりましたわ」
私はドーナツを持ったまま、そのメモ書きを手に取り……読んだ。
『緊急で長期の特別監査に行って参ります。行き先は機密事項です。私が帰ってくるまでに、私を探してください。ただし、最後までは私に近づかないように。――アスナ・クライフォルト』
生真面目なアスナらしい、几帳面な筆跡だ。だが、私の脳内の演算ユニットが、直ちにこの文章の論理的矛盾を弾き出した。このメモは、彼女が一人で死地へ向かう際の、私への不器用な暗号であった。
「……なるほどねぇ。実に非合理な強がりだ」
私は小さく息を吐き、ドーナツの最後の一口を飲み込んだ。アスナの不在。そして、あの馬鹿正直で不器用な妻が、一人で抱え込もうとしている巨大なバグの正体。私の過去が、今、王都の心臓部で鼓動を始めている。
「おかあさま?どうかなさいましたの?」
アリシアが首を傾げる。私は白衣のポケットに手を突っ込み、いつものように不敵に笑ってみせた。
「いや、何でもないよ。今日は天気がいいからね、少し風に当たってこようかな。ちょっとそこまでさ。……なに、すぐ戻るよ」
私は家族たちの騒がしい声に背を向け、探偵事務所の扉を開けた。窓の外では、王都を繋ぐ地脈WiFiが激しく明滅し、目に見えない論理の解体が始まっていた。
「さて……私の愛する妻は、一体どんな計算違いをしているのやら。少しばかり、論理的な散歩と行こうじゃないか」
私は白衣の裾を翻し、王都の路地へと歩み出した。




