↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴェリタスの最終定理4:飛竜アスナ・ヴェリタスの覚醒【2位】  作者: .
●第10章:飛竜アスナ・ヴェリタスの覚醒

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

54/80

定理1:ラブで世界を破壊したい!(1)

私の両親のいつもの行動を描いています

「世界を救う論理の出力は、天才の演算精度と、観測者という名の君の熱量に正比例する」


王都の昼下がり。


陽光は白亜の石畳に反射し、街全体が金色のベールに包まれているかのような、絵画のごとき美しさを誇っていた。


この世界は、平和である。


人々は魔法の恩恵を等しく享受し、日々の生活は清潔と秩序によって守られていた。

飢える者は少なく、路地裏にさえ花壇が整備され、色とりどりの花が咲き誇っている。

そんな平和の象徴たる王都の中心に位置する、魔導玩具店。

その日は、ある特別な商品の発売日であり、店内は溢れんばかりの熱気に包まれていた。


商品の名は、生命のテディベア。


一見すれば、単なる、柔らかい毛並みを持つ高級なぬいぐるみである。しかし、このテディベアには最高峰の魔導処理が施されていた。

もちろん、ただの玩具ではない。

命を吹き込まれたかのように、愛らしく動き、瞬きをし、抱きしめれば微かな温もりと鼓動すら感じさせる。


その開発理念は、完全なる平和と慈愛の循環であった。


アレルギーや住宅事情、あるいは貧困によって保護施設から本物のペットを引き取れない子供たちが、命を慈しむ心を学ぶため。


あるいは、昼夜を問わず他者のために尽力し、自らの孤独を癒す時間すら持てない研究者や医師たちに、安らぎのひとときを提供するため。


そして何より画期的なのは、持ち主がテディベアを抱きしめ、語りかけ、愛情を注いだ「時間」が、内部の魔導炉によって慈愛の魔力へと変換されるシステムだった。

変換された魔力は空間を越えて送信され、保護施設で暮らす動物たちの生命維持や、親に見捨てられた孤児たちの生きる意志、学ぶ意欲を支えるためのエネルギーとして寄付されるのである。


自己の癒しが、そのまま見知らぬ弱者の救済へと直結する。

まさに、この世界の希望を体現するような、究極の善意の結晶であった。


その日、リーベ・ニヒスツは、棚の奥にぽつんと残されていた最後の一つのテディベアをそっと両手で抱き上げた。

リーベは、柔和な目元と少し疲れたような微笑みを浮かべる壮年の男である。彼は、このテディベアを愛する娘に贈るために、非番の時間を削って早朝から列に並んでいたのだ。

娘の喜ぶ顔を想像し、リーベの胸に温かいものが広がる。彼はテディベアの柔らかい頭を軽く撫でると、安堵の溜息を吐きながらレジの最後尾へと向かった。


その時だった!


背中を、鋭利な刃物で撫でられたような悪寒が走った。

リーベが静かに視線を巡らせると、数メートル離れた通路の陰から、一人の子連れの主婦が自分をじっと睨みつけているのに気がついた。


その眼光を見た瞬間、リーベの全身の筋肉が本能的に硬直した!


彼は、人生の経験から、その目の正体を痛いほど知っていた。

あれは……ただ、欲しい商品を買えなかったから悔しがっている目ではない。


社会のあらゆる場所、学校であれ会社であれ趣味のサークルであれ、自らわざわざそのコミュニティに潜り込み、男には媚を売り、女には同類としての共感を強要しながら近づく!


そして、ひとたび内側に入り込めば、血眼になって他人の気に入らない点を探し出し、周囲を巻き込んで自分を悲劇のヒロインに仕立て上げる!


特にそれが欲しいわけでもないのに、他人が幸せそうに持っているものを横取りすること自体に無上の喜びを感じ、他者の平穏を破壊して自身の虚栄心を満たす!


まさに、寄生虫のような、底なしの悪意と自己顕示欲に塗れた「当たり屋」の目だった!


リーベは即座に視線を逸らし、関わり合いを避けようとレジへの歩みを早めた。


だが、それがまずかった。


彼女のような人間は、相手が避けたという事実を自分への加害行為と即座に変換し、攻撃の大義名分にしてしまうからだ。


「ああっ!」


突然、店内を劈くような甲高い叫び声が響いた。

主婦の連れていた七歳ほどの息子が、リーベの真正面に飛び出してきて、床にへたり込み、まるで三文芝居の決まり文句のような台詞を叫び出したのだ。


「あっじゃあ……ぼく、このテディベアがずっとずっと欲しかったのに!ずっと前から楽しみにしてたのに!さきに見つけたの僕なのに!それが最後の一つだったのに、おじさんが取っちゃったぁぁぁ!」


わざとらしいにも程がある大泣きだった。


涙など一滴も流れていない。


だが、その声は店内の人々の視線を一気に集めるには十分すぎた。

すかさず、主婦がヒステリックな声を張り上げて息子に駆け寄る。


「ああっ!?……あ、あなたねえっ!」


主婦はリーベを指差し、怒りに満ちた声で怒鳴りつけながら脇腹をこづいた。


「子供がこんなに泣いて、テディベアを欲しいって言っているじゃないですか!なんで!なんで譲ってあげないんですか!」


「いや、先にレジに来たのは私だから」


「はああああ!?ひどすぎる!あなた、いい大人でしょう!?大人が子供のおもちゃを奪うなんて、恥ずかしくないんですかっ!早く……!……早く!譲りなさいよ!」


「いや、あんた。さっきから何なんだよ」


「ひっ!殴るの!?女を殴るの?最低ね!……あなたーっ!」


周囲の客たちがざわめき始める。大人が子供から、最後の一つを、なんて酷いという、断片的な情報だけが彼らの脳内で都合よく組み合わされていく。

リーベは、静かに目を閉じた。

ここで反論すれば、相手の用意した泥沼の土俵に引きずり込まれるだけだ。彼は完全に無視を決め込み、前を向いたままレジの列を進もうとした。

すると、群衆を押し分けて、主婦の伴侶である男が姿を現した。肥満体で、顔に脂を浮かべ、安物のスーツを着崩した男だった。彼は妻と息子を庇うようにリーベの前に立ち塞がると、鼻でせせら笑いながら大声で言い放った。


「お前おいブス!お前だよ。お前、俺の妻を襲っているのか。いい根性してるじゃねえか。なあブス。……おいブス。おい無視かよ!どうせおめえみたいなブスは、結婚もしてなけりゃ子供もいない、孤独な独身男なんだろう。俺なんかすごくてさ、このアイングランツの腕時計を見ろや。お前買えないだろ?ブスだもんな!だから、このテディベアを買うなんて、本物のペットを買う金も、飼う部屋もないような、底辺の貧民に違いないんだよ!ほら帰れよブス!」


男の言葉は、テディベアの開発理念すらも足蹴にする暴言だった。だが、彼の演説は止まらない。彼はリーベの顔をじろじろと見つめ、突然、勝ち誇ったように大声を上げた。


「おまえどうせ王都人じゃないんだろ。俺は魔導福祉センターの職員だからな。お前みたいな気持ち悪い障害者野郎の国籍は調べりゃわかんだよ。……あ!?おいみんな、こいつの顔を見てみろ!こいつ、ゼッチーだぜ!」


その言葉が発せられた瞬間、店内の空気が一気に凍りついた。


ゼッチー。


それは、王都の隣国であるゼランティアの出身者、あるいはその血を引く者たちを徹底的に見下し、人間扱いしない最も忌まわしい差別用語であった。

公共の電波では決して流すことができず、もし書籍に一言でも記せば、直ちに社会的な死と出版停止が命じられるほどの、重篤なヘイトスピーチである。


この王都において、そんな言葉が堂々と口に出されたことに、周囲の人間は息を呑んだ。

しかし、男は周囲の動揺を自分への支持と勘違いし、さらに声を張り上げた。


「ゼッチーの分際で、我々の王都にのこのこと移民してきやがって!この障害者!気持ち悪いんだよ!お前魔導福祉センターに来てそうな顔だもんな!王都人を差別ばかりしやがって!俺の息子のテディベアを買いたいという純粋な願いを、他国から来た貧民のゼッチーが踏み躙るなんて、これは王都への侵略行為だ!国へ帰れ左翼野郎!……さあみなさんご一緒に!『王都に栄光あれ!』」


周囲の人間も叫び出した。


「……王都に栄光あれ」


「「王都に栄光あれ!」」


「「「王都に栄光あれぇっ!…………うおおおおおおおおおっ!歌うぞッ!国歌斉唱ッ!」」」


「「「「黎明の空あああ!切り裂くのはあああ!我らが進軍の足音おおお!旗を掲げよッッッ!ただひたすらにッッッ!進めッッッ!鋼鉄の巨足よおおおッッッ!」」」」


……もはや、商品の譲り合いなどという次元の話ではなかった。

人々は、自らの鬱屈したルサンチマンと排外主義を、リーベという見ず知らずの他人にぶつけ、優越感に浸っているだけだった。


周囲の客たちの中には、男の差別発言に眉をひそめる者もいたが、同時に、外国人なら、子供からおもちゃを奪うような真似をしてもおかしくないという、無意識の偏見に囚われ始める者も出始めていた。


リーベは、自らに向けられた凄まじい悪意と差別の刃を前にしても、決して声を荒げることはなかった。彼の瞳には、ただ深い悲しみと、この一家への憐憫の情だけが浮かんでいた。

彼は静かに、しかしよく通る、真摯な声で答えた。


「あのですね。あの。私は、王都魔導規制局に勤務する職員です。そして、私にも愛する娘がおります。これは、その娘への贈り物なのです。どうか、道を開けていただけませんか」


その言葉は、事態を収拾するための最も誠実な事実の提示であった。


だが、それは主婦の逆鱗に……最悪の形で触れることとなった!


「てめえ!おいこら障害者!……私の旦那を愚弄する気かよ!」


主婦の顔が歪んだ。

彼女は髪を振り乱し、口角に泡を飛ばしながら、リーベに向かってヒステリックに絶叫し始めた。


「てめえ!うちの旦那が、魔導規制局の下部組織の窓口職員だって知ったからわざとそんなウソ言っただろ!見下してんじゃねえよ!障害者のゼッチーが調子こいてんじゃねえ!愛する娘がおりまーすだって!愛する娘がおりまーすだって!そんな顔で嫁とかいるわけないだろブス!おめえみてえなブス見たことねえよ!おめえの出身、獣人部落だろ!最底辺のキツネ獣人が友達ってか?キツネが好きなのか?気持ち悪い!マジで王都人を差別すんなクソブス!」


主婦の狂乱は、もはや論理の枠を完全に逸脱していた。彼女の脳内では、リーベの自己紹介が、自分たちの社会的地位を嘲笑するための悪質な攻撃に変換されていたのだ。


「カタワのゼッチーが、エリートの魔導規制局の職員になれるわけがないだろ!もし仮にそれが本当だとしたら、裏で脅しや殺しをして、成り上がったに決まってるじゃんよ!あ!わかった!女性職員を力ずくで拷問して、無理やり組織に潜り込んだんでしょう!ってことは……うわ!うわうわうわうわ!みなさん!こいつ強姦魔です!」


主婦は、自らの妄想を絶対の真実であるかのように確信し、店内中に響き渡る声で叫び続けた。


「みなさぁぁん!! 聞いてくださぁぁい!! この男は、強姦魔です! 女性を脅して権力を握った、ゼッチーの強姦魔ですよおおお!!」


その常軌を逸した叫びに呼応するように、足元にいた息子も再び金切声を上げた。


「この気持ち悪いおじさんが、ぼくが買うはずだったテディベアを、暴力で取り上げたんだ!じゃあぼくぶたれた!あ、あと今蹴り飛ばされた!じゃあ……今すごく痛い!体を蹴られたから、すごく痛い!助けて!誰か、この悪いゼッチーをやっつけてよぉ!」


狂気という名の感染症が、店内に蔓延した瞬間だった。

大人が子供を泣かせている、ゼッチーである、強姦魔らしいという、主婦たちがばら撒いた毒に満ちたキーワードが、周囲にいた暇を持て余した老人たちの、歪んだ正義感に火をつけた。

自分たちの退屈な日常に、突如として現れた叩いてもいい悪のサンドバッグ。彼らは、事実の確認など一切することなく、嬉々として正義の執行者気取りでリーベを取り囲んだ。


「この恥知らずの獣人部落民め!」


「子供を泣かせて、王都の女を汚すとは何事だ!」


「移民野郎!ゼッチーは国へ帰れ!」


杖を持った老人がリーベの背中を打ち据え、別の男がリーベの顔面を殴りつけた。


「ぐっ……!」


無抵抗のリーベは床に崩れ落ちた。その拍子に、彼が大切に抱えていたテディベアが手から滑り落ち、冷たい大理石の床に転がった。

群衆の暴行は止まらない。彼らは正義の味方のような陶酔した顔で、うずくまるリーベに蹴りを入れ続けた。


そして。


その光景を、主婦と旦那と息子は、群衆の輪の外からニヤニヤと笑いながら見下ろしていた。


「……ざまあみろ!ブス!」


旦那が卑しい笑い声を漏らす。

主婦も、口元を歪めて醜く嗤った。


「自業自得!悪いことをすると、必ず業が返ってくる!因果応報!……ま、ゼッチーは言葉を知らないからわからないか!あーウケる」


彼らは、床に転がったテディベアを見下ろした。

息子が、その愛らしいテディベアの顔を、泥だらけの靴で踏みつけた。


「このテディベア。欲しかったかい?娘へのプレゼントだっけ?」


旦那が嘲笑いながら、テディベアの腹部を思い切り蹴り上げた。


「ならば、今ここで、俺たちがブチ壊してやろうぜ!世の中はなあ!金がなかったらおしまいなんだよ!社会を学べ!」


三人の当たり屋一家は、狂ったように笑いながら、生命のテディベアをめちゃくちゃに踏み躙り始めた。


「やめろ……! それは……!」


血を流しながら顔を上げたリーベの目の前で、凄惨な破壊の儀式が行われる。

テディベアに内蔵された魔導処理が、極度の物理的ダメージを受けて誤作動を引き起こした。


「ギ、ピィィィィィィッ!!!」


テディベアの口から、本物の動物のような、あるいは幼い子供のような、甲高く痛ましい断末魔の叫び声が上がった。

踏みつけられるたびに、内部の魔導炉が破壊され、慈愛の魔力に変換されるはずだったエネルギーが、赤黒い血のような液体燃料となって継ぎ目から勢いよく吹き出した。

赤い液体が、主婦たちの靴を、白亜の床を、そしてリーベの顔を汚していく。

テディベアの四肢はあらぬ方向にひしゃげ、硝子玉の瞳が砕け散る。

それでも彼らは、笑いながら踏みつけ続けた。


「ギャアアア!イタイ、イタイヨォォォ!」


テディベアの音声機能が壊れ、泣き叫ぶようなノイズを撒き散らす。

やがて、完全に魔導炉が沈黙し、血のような液体を水溜りのように広げたまま、テディベアは完全にただの汚い布切れへと変わり果て、機能を停止した。


「マジうけるわ!」


主婦が、額の汗を拭いながら満足げに息を吐いた。


「で、はい、代金。これで文句ないでしょ?」


旦那が、ポケットからしわくちゃの紙幣を取り出し、近くのレジ台に乱暴に叩きつけた。


「ジュキア!アイリ!帰ろか。こんなキモい店、もう用、ないし!……あ、俺の車エルドランのLシリーズの2000だから!お前は買えないよな!だってゼッチーだから!ギャハハハハ!王都人を、なめんな!」


三人は、周囲の群衆に一瞥もくれることなく、自分たちが生み出した惨状を放置したまま、楽しげに歌でも歌うような足取りで店を出て行った。


彼らは、テディベアなど最初から欲しくもなかったのだ!


あの子供も、テディベアに興味などなかった!


ただ、他人が幸せそうにしているのが許せなかった!


他人が自分の手に入らないものを大切にしているのが気に食わなかった!


この男なら差別しても反撃してこないだろう!


弱そうだから、いいように嬲って、自分たちの惨めな日常のストレス発散の道具にしてやろう!


ただそれだけの、あまりにも低俗で、醜悪で、底無しの悪意だった!


店内には、破壊されたテディベアの残骸と、血だらけで倒れ伏すリーベだけが残された……

正義感を振りかざしてリーベを殴っていた老人たちは、相手が抵抗しないとわかると急に興味を失い、「まったく、とんだ迷惑な奴だ」「カタワのゼッチーめ」と、なおもリーベを馬鹿にしたような目を向けながら、蜘蛛の子を散らすようにその場から離れていった。

誰一人として、リーベに手を差し伸べる者はいなかった。

リーベは、自らの血と、テディベアの流した赤い燃料に塗れながら、冷たい床に横たわっていた。

娘の悲しむ顔が思い浮かび、彼の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


世界は残酷だ。


善意は悪意に蹂躙され、真実は声の大きな嘘に塗り潰される。


その時だった。


「あなた……リーベさん?大丈夫ですか!?」


凛とした、しかし、焦燥に駆られた声が響き、一人の女性が人だかりを掻き分けてリーベの元へ駆け寄ってきた。

艶やかな黒髪のセミロング、知性を感じさせる細縁の黒眼鏡。そして、その背後で揺れる極太のドラゴンの尻尾。

王都魔導規制局の若きエリート官僚であり、その容姿と実力からマスコット的な人気を誇る有名人、アスナ・クライフォルトであった。

彼女は偶然この通りを歩いており、騒ぎを聞きつけて店に入ってきたのだ。

アスナは、血だらけのリーベを抱き起し、ハンカチで彼の顔の血を拭った。


「酷い……なんてこと!すぐに治癒魔法をかけますわ!」


アスナの温かい手が、リーベの傷に触れる。

その光景を見て、遠巻きに見ていた群衆が再びざわめき始めた。


「おい、あの子……テレビで見たことあるぞ!魔導規制局の官僚じゃないか!」


「ヴェリタスさんちの嫁さんの、アスナさんじゃん!媚び売っとこうぜ!」


「しかし、なぜあんなゼッチーのおっさんを助けているんだ?」


心無い群衆の囁きが、アスナの耳に届いた。

彼女は、床に散乱する無残なテディベアの残骸と、リーベに向けられる嘲笑の視線を見て、状況の異常さを即座に悟った。

アスナは立ち上がった。

極太の尻尾が、怒りで床を激しく叩きつける。

眼鏡の奥の青い瞳が、激しい怒りの炎を宿し、群衆を鋭く射抜いた。


「いい加減になさいっ!!」


アスナの怒声が、魔力を伴って店内の空気を震わせた。

群衆は、本物のドラゴンの凄みに圧倒され、一瞬にして静まり返った。


「貴方たち、いったい、自分が何をしたのかわかっているのですか!?この方は……リーベ・ニヒスツ様は、魔導規制局の職員の一人であり、私が心から尊敬する、直属の上司ですわよ!」


その言葉が響き渡った瞬間。

店内にいた全ての人々の顔から、血の気が引いた。


「えっ……」


「嘘……?」


「あのアスナさんの上司……? じゃあ、さっきの強姦魔っていうのは……」


自分たちが、何の罪もない、しかも王都の治安を担う魔導規制局の幹部を、見ず知らずの当たり屋の妄言を信じ込んで集団リンチにかけていたという、取り返しのつかない事実。


群衆の間に、後悔と恐怖による凄まじい戦慄が走った!


先ほどまでの安っぽい正義感は完全に吹き飛び、彼らはただ、権力からの報復に怯えるだけの矮小な存在へと成り下がったのだ!


アスナは、怯える群衆にそれ以上言葉をかけることすら嫌悪した。

彼女はリーベの肩を支え、ゆっくりと立ち上がらせた。


「……リーベさん、こんな場所に長居する必要はありませんわ。参りましょう」


「アスナ君……ありがとう。お見苦しいところを見せてしまったね」


リーベは痛む体をかばいながら、アスナの肩を借りて歩き出した。

二人は、誰一人として口を開くことのできない群衆の海を割り、静かに店を後にした。

残されたのは、真っ赤な燃料の海に沈むテディベアの残骸と、自己の愚かさに凍りつく人々だけだった。


……そして。


その惨劇の一部始終を、通りの反対側から、薄暗い路地裏の影に溶け込むようにして見つめている一人の男がいた。


ファントム・シュピーゲル博士。


彼は、破滅した並行世界からやってきた哲学者であり、人間の本質に潜む病を観察し続ける男。

彼の口元には、冷ややかな、しかしどこか諦観に満ちた歪な笑みが浮かんでいた。


「……素晴らしい」


博士は、乾いた声で呟いた。


「平和な世界。慈愛のシステム。だが……その土台を成す人間の本質は、私のいた元の世界と何一つ変わらない。他者の幸福を許容できず、己の劣等感を攻撃性に変換し、正義という名のリンチに酔いしれる。どれほど魔法が発達しようと、どれほど社会が豊かになろうと、この、歪み切った精神だけは、浄化することはできないのだ」


博士の脳裏に、かつて自らの世界を滅ぼした、あの無抵抗な破滅の光景がフラッシュバックする。

愛が世界を救うと盲信し、自立を放棄した結果の絶望。

そして今、目の前で繰り広げられたのは、その真逆にある、自立した個が他者を排斥し合うが故の絶望。


「見事な証明式だ。人間という存在そのものが、決して癒えることのない猛毒なのだよ。……さて。この正解は、いつまで、この醜悪な毒に耐えられるかな?」


シュピーゲルは、アスナとリーベが消えていった通りの先を、暗く、淀んだ瞳で見つめ続けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。