定理45:自分のアイドルを推していたい!(前編)
●リメイク元
「ナラティブ・ヴェリタス」侵食される日常
「ナラティブ・ヴェリタス」未来から来た黒い百合
「ナラティブ・ヴェリタス」世界からの不採用通知
「個と全の境界線は、高い粘度の愛の前では、物理的にも概念的にも溶解する」
王都の朝は、いつものように蒸気と魔導ノイズ、そしてドーナツを揚げる香ばしい匂いと共に始まるはずだった。
ヴェリタス探偵事務所にて。
最強の魔導師エラーラ・ヴェリタスは、眉間に深い皺を刻み、目の前の「物体」を凝視していた。
「……ナラティブ、これは一体どういう冗談だい?」
「冗談ではありませんわ、お母様。あたしだって困惑しているのです」
エラーラの手には、マグカップが握られている。いや、「融合」していた。隣では、ナラティブ・ヴェリタスがナイフとフォークを構えていたが、両手の金属食器はすでに「ひとつの銀色の塊」となり、皿の上のステーキは付け合わせのポテトと渾然一体となって、得体の知れない有機的な泥と化していた。
「見て!お姉ちゃん!私のケーブルがサラダに刺さってドレッシングを吸い上げてるよ!新しいエネルギー補給?」
「グリッチさん、それは単なる漏電と汚染です。……あら、私のエプロンも、ドレスとくっついて……取れませんわね」
グリッチ・オーディナルとアリシア・ヴェリタスもまた、世界の「境界線」が曖昧になる現象に巻き込まれていた。
「……解析完了だ。何らかの強大な概念存在が、王都全体を『ひとつ』にしようとしている」
エラーラが冷静に分析した瞬間、窓ガラスが「液体」のように波打ち、室内に流れ込んできた。それは半透明の粘液状の怪異であり、意思を持ったアメーバのように四人を包囲する。
「ほう、興味深い。この粘液の主成分は、対象の『執着心』を触媒にしているのか」
「解説している場合ですか、お母様!」
ナラティブが叫ぶが、遅かった。
怪異は、彼女たちの「欲望」を餌に、甘美な幻影を見せたのだ。
エラーラの前には「解読不能な古代の石板」が。
ナラティブの前には「無限に湧き出る霜降りステーキ」が。
アリシアの前には「誰もが手を取り合う平和な世界」が。
そしてグリッチの前には「全裸のエラーラ」が。
「……フム。少しだけ触れてみようか」
「いただきますわーッ!」
「さあ、ハグをしましょう」
「お姉ちゃーーーん!」
瞬く間に、ヴェリタス探偵事務所の最強メンバー四人は、自ら怪異の中にダイブし、巨大なスライムの一部として取り込まれてしまった。
一方その頃、王都駅前のドーナツ店『ミスター・マジック』。
ここでもまた、世界は崩壊の危機に瀕していた。
「なんだこりゃ!?俺のオールドファッションが、カフェオレと結婚してやがる!」
王都中央警察署のカレル・オータム警部が絶叫した。彼の手の中で、ドーナツは液体化し、茶色い泥となって制服のズボンに滴り落ちている。
「父さん!物質のトポロジーが狂っています!」
息子のゴウ・オータムが、スレート端末を必死に操作しながら叫ぶ。
「あーもう!あたしの自慢の尻尾の毛並みが、椅子とくっついて離れないんだけど!?」
狼獣人のリウ・ヴァンクロフトが、野性的な勘で危険を察知し、無理やり立ち上がろうとして「ベリベリ」という嫌な音を立てた。彼女の金髪ポニーテールも、重力に逆らって天井に向かって伸びている。
「……リウお姉ちゃん。……パフェが、溶けた。……悲しい」
その横で、妹のルル・ヴァンクロフトが、ドロドロになったパフェを虚ろな目で見つめていた。
「呑気なことを言ってる場合か!逃げるぞ!」
リウがテーブルを蹴り飛ばし、全員を促す。
店の外では、すでに建物と地面、馬車と御者が融合し、街全体が巨大なスライムの胃袋のようになりつつあった。
「歯車通りへ向かう!あそこならジャンクパーツが多すぎて、怪異も消化不良を起こすはずだ!」
カレルの判断で、四人は路地裏へと駆け込んだ。
王都の裏側、鉄屑と蒸気が支配する「歯車通り」。入り組んだ迷路のようなこの場所だけが、まだ辛うじて原型を留めていた。
「父さん、この怪異、ただの物理現象じゃありません!『執着』です! 何かに強く固執している人間ほど、早く溶かされています!」
走りながらゴウが叫ぶ。
その言葉に、カレルは顔色を変えた。
ゴウの懐には、厳重に梱包された包みがあった。それは、エラーラから「見つけたら借金してでも買っておいて」と頼まれていた、旧文明の超レアな演算ユニットだ。
「ゴウ!その包みを捨てろ!それがお前の『執着』のアンテナになってる!」
「で、でもこれ、師匠がすごく欲しがってた……僕が届けなきゃ、師匠の研究が……!」
ゴウは真面目すぎた。師への敬愛と責任感が、彼を怪異のエサへと変えてしまう。
背後から、津波のような粘液が迫る。その先端が、鎌首をもたげてゴウを狙った。
「ゴウ、危ない!」
ドンッ!
カレルが息子の体を突き飛ばした。
代わりに粘液に飲まれたのは、カレルだった。
カレルは、息子を守るという「親としての強烈な執着」を逆手に取られ、瞬く間に半透明のゲルの中へと沈んでいった。その顔は、息子を救った満足感と、これから溶かされる恐怖がない交ぜになっていた。
「父さぁぁぁん!!」
「ゴウ、立つんだ!父さんの犠牲を無駄にするな!」
リウが泣き叫ぶゴウの襟首を掴み、無理やり引きずって走る。彼女の腕力だけが頼りだった。
ルルも遅れじとついてくるが、その瞳は常にスレート端末の画面を追っている。
「……解析、不能。……でも、ナラちゃんの反応、あり」
ルルが足を止めた。
路地裏の突き当たり。そこに、道を塞ぐように鎮座する巨大なスライムの塊があった。
その半透明の腹の中に、黒いドレスの少女が浮かんでいた。
ナラティブだ。彼女はスライムの中で、幻影のステーキを幸せそうに頬張っている。
「……ナラちゃん」
ルルが呟く。彼女にとって、ナラティブはただの友人ではない。ゲーマー仲間であり、そして密かに憧れる「推し」でもあった。
「ルル!見ちゃダメだ!取り込まれるぞ!」
リウが叫ぶが、ルルの耳には届かない。
「……ナラティブ。……一緒になる」
ルルはスレート端末を放り出し、フラフラとスライムへ歩み寄った。
スライムの表面が、歓迎するように開く。
その中には、無防備なナラティブがいる。
ルルは自らスライムに抱きつき、そして沈んでいった。
「馬鹿野郎!どいつもこいつも、欲望に忠実すぎんだよ!」
リウは地団駄を踏んだ。
残されたのは、リウとゴウのカップルだけ。
リウは「自由人」であり、ゴウを愛しているが、依存しているわけではない。ゴウは「恐怖」が勝っており、執着を持つ余裕がない。
だからこそ、二人は生き残っていた。
「リウさん、あそこへ!『王都魔導規制局』の合同庁舎です! あそこなら対魔導障壁があるはず!」
ゴウが指差す先、無機質なビルが聳え立っている。
二人は最後の力を振り絞り、庁舎のロビーへと滑り込んだ。
そこには、異様な光景が広がっていた。
ロビーは無数の怪異スライムに包囲されていた。
だが、その中心で、一人の女性が仁王立ちしていた。
竜人のアスナ・クライフォルトだ。
彼女は炎を吐き、書類を振り回して応戦しているが、奇妙なことに、怪異たちは彼女に触れようとしない。まるで腫れ物に触るように、一定の距離を保ってウネウネしている。
「私は忙しいんです!エラーラさんの指名手配書の更新とか、隠し撮り写真の整理とか、やることは山積みなんです!」
アスナが叫び、炎を放つ。スライムたちは「すいません」「ごめんなさい」と言わんばかりに縮こまりながらも、決して彼女を飲み込もうとはしなかった。
「……は?」
リウとゴウは、その場に立ち尽くした。
最強のエラーラたちが瞬殺されたこの世界で、なぜ「エラーラへの執着の塊」であるアスナだけが、無傷で生き残っているのか。




