第9話 人外の地
母屋を過ぎて、心水教の教祖である白里様の居所へ至るまでには長い距離を歩かねばなりませんでした。
裏手が深い竹林になっており、そこかしこに粗末な小屋が建てられ、子供、老人、また病人らしき者、まれに若い女の姿も見えます。
河津の姿を見ると嬉しそうに声をかけてきますが、声をかけられた河津の方は無愛想に頷いたり手をあげる程度です。
その対応と人気ぶりに不思議な思いでいる美由紀は、いつのまにか竹林の最奥に着いていることに気付いていなかったといいます。
途中にあった掘っ建て小屋とは違い、粗末でありながら、手入れの行き届いた草庵です。こじんまりとした庭園と井戸もあり、元々は茶室として使われていたのでしょうか。
目隠しの向こうに人の気配があり、それ以外にも、何人もの目がこちらを窺っているような気がします。決して歓迎されているわけではなさそうですが。
草庵のにじり口の前に、異様な風体の者が仁王立ちしておりました。身の丈六尺はあろうかという大男。その大きさだけでなく、ごつごつとした顔は剛毛に覆われ、人と言うよりは熊のように見えます。
それもそのはず、熊、熊と呼ばれているこの男、かつては浅草六区の見世物小屋で世にも珍奇な熊男としてその巨体と怪力を披露していたのです。当時は逃げたり暴れたりしないよう、本物の熊のように檻で飼われていたとか。
また熊の左肩には、潰れた蛙面のような小男が乗っており、のこのことやってきた一行を薄ら笑いを浮かべて見つめています。蛙面が、ぱかりと口を開けました。
「よお、河津。珍しいじゃねぇか。いったいぜんたいどういう風の吹き回しだ」
「白里様はおられるか?」
「おられるかだって? ああ、そりゃおられるさ。この草庵に御坐すわな。出歩けるような御身体だと思うのか。日頃の御世話どころか、たまの見舞いすら来やがらねぇ。この不忠者め」
噛み付くような物言いを捨ておいて、河津がにじり口に近付きました。
「こちらは白里様の御客人だ。通せ」
「駄目だ。今日は御加減が宜しくない。また別日にしてもらおう」
「はっ、なんだそりゃ。誰に言ってんだ。え、蛙よ?」
「手前だよ! おい、熊!」
呼ばれた大男が丸太のような腕で河津を払い飛ばしました。宙を舞った体が、敷き詰められた玉砂利を弾き、ぱりぱりと音を立てます。
突然の狼藉に息を呑んだ美由紀の前に、とんと降り立った潰れ面の蛙です。
「へへっ、愛らしい娘さんだね。ここは心水教の理がすべての人外の地だ。河津に連れて来られたのが運の尽きってもんよ。
だがまあ態度次第で見逃してやってもいい。ここらにゃ、いい女がいなくてねぇ。あたしに大人しくついてくるなら、無事に下界へ帰してやるぜ」
地面の底から見上げる蛙の目がくるくると回り、美由紀は、猫に憑かれていた時のようなふわふわとした心持ちになってきました。
思わずついて行ってしまいそうな気になりますが、それを光雄の軽薄な声が搔き消しました。美由紀を後ろに退がらせて。
「ふぅん、ついていったら御馳走でもしてくれるのかい?」
「そんなわけねぇだろ。なに、目を瞑ってりゃ、すぐに終わるさ」
へへっ、と下卑た笑いとともに身振りで熊に指示をして、光雄を軽く押しのけ、美由紀を捕らえようとします。
その丸太のような腕をいなして前へ出たのは、御存知、舩坂少尉でありました。軍刀の柄に手を掛けてひと睨み。
「それ以上、近付いてみろ。蛙だか熊だか知らないが、等し並に、膾に変えてくれる」
「なんだぁ、痩せこけた官憲風情が。あたしらは、ずっと法やら世間やら、人の世から外れたところで生きてきたんだ。やれるもんなら、やってみるがいい」
そう言って熊の肩に飛び乗ると、やっちまえ、との無責任な叫び声。やりあうのは熊であって蛙ではなかろうに。
熊が一歩踏み込むと同時に、かちりとわずかに鯉口を切る音が聞こえました。はてさて、どういうことに相成りましょうか。
結果は、熊の巨体がぐるんと回って地面に叩きつけられておりました。
舩坂少尉は軍刀に手を掛けたまま動かず。熊を投げ飛ばしたのは河津でした。当然、肩に乗っていた蛙も落っこちまして、腰を強かに打ち付けたのです。この野郎! と身を起こし、
「赤黒! こっちへ来い!」
と叫ぶと、伸び放題の竹林の奥から唸り声が響いてきました。
獣じみた声の底に暗い怒りが混じって。あたりを深く包みこむ低音が重なり、ぴりぴりと肌を刺すようです。
美由紀と光雄を自分の後ろに押しやって少尉が軍刀を抜き、静かに両の手に握りました。体を深く沈めて左半身の独特の構えです。
唄うような唸り声は、音で間合いを測っているのでしょうか。縒り合わせた糸が一本ずつ千切れていくが如く緊張も増してくるのでした。それが限界に達しようとした時、
はらり、
竹林の高み、透かし見える青空から落ちてきたものを舩坂少尉の軍刀が真っ二つに断ち切りました。ひらひらと地に落ちたのは、白い鳥の羽です。
ほとんど身を揺らがせることなく羽を断ち切った少尉の腕前に恐れをなしたとも思えませんが、唸り声が鎮まり、竹林の奥へ消えていきました。
同時に、青い空の向こうか地の底か、どこから響くともしれない透き通った女の声がゆったりと聞こえました。
「蛙、熊、やめな。白里様の御客人だよ」
「でもよ……」
「でも、なんだ?」
続く沈黙に蛙の抱く恐れが伝わってくるのでした。潰れた蛙面を青ざめさせ、未練たらしく河津を睨みつけると熊を連れて立ち去っていきました。続けて、女の声が。
「御客人、騒がせて申し訳なかった。白里様が中でお待ちだ。入りなんせ」
声と合わせて、にじり口がからからと開きました。中にいるかも外にいるかもわからぬ女の声が、河津に釘を刺して消えて行きます。
「河津、おまえも名代だからって調子に乗ってんじゃないよ」
「へいへい」
その場で頭を下げ、光雄らを中へ誘いながら、お恥ずかしいところを見せやしたと一言。それ以上は説明もしない、そういうような区切りでした。
肌寒い時季に、草庵の中は思いの外にあたたかく。人もないのに炉にかけられた茶釜がしゅんしゅんと沸いております。




