第8話 水垢離
幕末から明治にかけて、既存の宗教が力を落としていくなか、新たに興ってきた神道のひとつが心水教で御座います。
教祖の白里様は、元は芸者だったとも遊女だったとも言われますが、その出自も経歴も曖昧模糊としたもので、年老いた今となっては過去を知る人もいないようです。
信徒も多く、あちこちに拠点となる建物や地所があり、土御門光雄らが招かれたのは浅草は不忍池にほど近い屋敷でした。
光雄らというのは、土御門光雄、舩坂和馬少尉、立花美由紀の三人です。心水教から頼まれた失せ物探し、詳しいことは教祖から伝えると言われてやって参りました。
本来、光雄一人で良いようなものですが、本人たっての希望により、舩坂少尉と美由紀も同行してきた次第です。
「なぜ、俺まで出向かねばならん」
不満たらたらの舩坂少尉に、へらへらと笑いながら光雄が同行を頼んだもの。
「まあ、そう言うな。この話には何か裏がありそうだぞ。きなくさいところ、色々ありそうな気がしてね。僕は荒事には向いていないんだ。助けると思って付き合ってくれ」
「仕方ないな。新神道に興味がなくもない。その代わり、しばらく、たちばなの払いを任せるからな」
「そう来たか。官憲の端くれのくせに、困窮する民草から搾り取ろうたぁ、悪いやつだよ」
「ふん、華族の端くれに言われたかない」
「僕自身には爵位も何もないぜ」
かんらからから、笑ってみせる光雄でした。もう一人、同じく同行を求められたのは立花美由紀です。こちらもまた、
「和馬さんはともかく、あたしが行ってもいいの? なにも役に立たないと思うけどなぁ」
「そんなこたぁない。美由紀ちゃんにこそ来てもらいたい。こいつは僕の勘だがね、必要になるような気がするんだ。なに、何かあっても和馬が守ってくれるさな」
「はぁ、嘘でも自分が守るって言いなよ」
「いやぁ、無理だねぇ。人には向き不向きがあらぁな。僕は分を弁えているのさ。出来ないことを出来ると自分を騙す、これほど不誠実なことはないぜ」
「はいはい、御立派に情けない主張ですこと」
などと呆れ顔の美由紀とのやりとりを経て、心水教からの迎えの人力車に乗って屋敷へ辿り着いた一行で御座います。
不忍池の西側、少し離れた通りの大きな屋敷です。元は武家屋敷だったのでしょうか。瓦屋根のついた朱塗りの板塀がぐるりを囲んでおります。
和洋折衷の建物も増えてきた時代のことですが、塀から門扉、植木まで、和の香りが馥郁と漂ってくるのでした。
数寄屋造の母屋に至るまでに、離れがあり、土蔵がありました。広々とした庭園はまめに手を入れてあるらしく、侘しくも美しい秋の色合いに映えています。
案内役の信徒から、河津を呼んで参りますのでしばらくお待ちをと言われて待つ間、舩坂少尉と美由紀とは大人しくしていましたが、どこか子供っぽいところのある光雄は、興味津々、あちこち見て回っていました。
すると、離れと母屋の間、小さな格子戸の向こうから水の音が聞こえたのです。ひょいと覗いてみると、そこには小さな井戸があり、その前で女の子が水垢離をしていました。
濡れた白装束を柔らかな体に張り付かせ、水を汲んでは頭から被っております。まだ日も高い頃合いとはいえ、秋空の下、井戸の水は相当に冷たいことでしょう。
子供のわりに長い黒髪から水を滴らせ、黙々と行を続けているのは、先だって河津と一緒にたちばなへ来ていた沙希に違いありません。
格子戸の隙間から、じっと眺めて腕を組んで立つ光雄の表情は常になく固いものでした。別段、水垢離の様子を覗こうというものでもなく、光雄を見つけて近寄ってきた舩坂少尉も、格子戸の向こうを見つめてぽつり。
「強いな、あれは」
その視線の先、水垢離をする沙希の向こうで、井戸を挟んで半裸の男が独特の呼吸と動きを繰り返していました。
釣瓶の落ちる音、からからと巻き上げられ、かたんと置かれ、少しの間をおいて飛沫の音、ぽたぽたと滴る水、また釣瓶の落ちる音。
儀式的に続く音に合わせるように、男の呼吸と動きも繰り返されます。永遠に続くようにも思える情景を破ったのは明るい女性の声。
「二人とも、なに見てんの?」
言って、格子戸の先に目をやった立花美由紀が非難の声をあげました。「あ! こら、覗きはだめよ。声もかけずになに覗いてるのさ。この間の女の子じゃない。助平! 変態! 唐変木!」
「なに言ってんだ。僕はもちろん、助平の和馬だって、あんな小さな子に変な気を起こすわけがなかろう。規則正しく躊躇のない水垢離は、見惚れるほど美しいがね。沙希ちゃんを見ていたわけじゃない」
「じゃあ、何をじっと見ていたの?」
「あっちだ、あっち」
光雄が指差した先、諸肌を脱いだ男を見て美由紀が頰を赤らめました。騒ぎ立てる美由紀の声に、動きを止めてこちらへ歩み寄ってくるのは、河津の達と名乗った先の男です。
一見して堅気らしくなく、目の下についた深い隈と鋭い目付きが人を不安にさせます。格子戸の前で立ち止まった河津に見つめられた美由紀は、なにやら自分が物になったような嫌な心持ちでありました。
蛇のような目付きの河津が、ぼそぼそと。
「やはり極上、いや上玉か。あと、ひとつふたつ若ければな……」
そこへ、ぱしゃんと水の音が響いて。河津は、はっとしたように振り返り、沙希の元へ向かうと身振りで水垢離をやめさせました。
さて、濡れた体を拭いて着替えのためにその場を立ち去った沙希を別として、河津が三人を案内していきます。まず光雄に向かって頭を下げると、
「すいやせん。みなさんがお見えとは聞いておりやしたが、日課の最中で、ついお待たせしてしまいやした」
「いや、こちらこそ。声もかけずに覗くような真似をして申し訳なかった。日課というのは、体の鍛錬と水垢離のことかな」
「さいですな。まあ水垢離の方は……」
「神道だし、禊と言った方がいいかい?」
「あ、いや、その辺は気にしないでくだせぇ。白里様も、細かいことは言いなさらんので」
なんとなく歯切れの悪い河津に、ちょっと怒った声で美由紀が疑問を投げました。
「禊か水垢離か知らないけど、あんな小さな女の子に何をさせてんですか! 沙希ちゃん、風邪をひきますよ。ただでさえ、あちこちで虎狼狸も流行ってるっていうのに」
「お嬢さん、小さな女の子でもね、いや、小さな女の子だからこそ、そうするしかねえことってのもあるんでさ。
無責任な優しい言葉を吐くのはやめていただきてぇ。沙希の奴は、ここで生きていくしかねぇんですから」
冷たい物言いにかちんときて言い返そうとした美由紀でしたが、隈取りしたような河津の両眼にぎろりと睨まれ、うなだれてしまいました。
「あ、あたし……。ううん、ごめんにゃさい」
ん? と眉をひそめた河津の脇で、光雄が、くくくと笑っておりました。その頭を美由紀がぽこんと叩き、それを見て今度は舩坂少尉が笑いを堪えているのでした。
ふわりと弛緩した空気に当てられたか、河津も口元を緩め、ふぅと息を吐いて、美由紀に向かって頭を下げます。
「重ね重ね、すいやせん。こちらから招いておきながら、待たせた上に悪態をつくような真似をしやして。
そもそも、あっしは人様にどうこう言えるような人間じゃねぇんで。変に熱くなっちまいました。おはずかしい。
沙希の水垢離ですがね、あいつ自身の思うところがあってか、あっしが鍛錬中は必ずやるんでさ。目障りなんでやめろと言ってもききゃあしねぇんで。思いのほか頑固でして」
「そうなんですね。あたしの方こそ、事情も知らないのに、差し出がましいことを……」
「いや、今日も、みなさん来ていただいて助かりやした。本来なら迎えに出向くべきところを。正直、吉原にはあまり近寄りたくないんで、すいやせん」
「それはやっぱり、色街だから? 心水教の教えの関係ですか」
「ええまあ、そんなとこです。では、白里様の居所へ案内いたしやす」
先導していく河津に、舩坂少尉、光雄、美由紀と続きます。一番後からついていく美由紀のもとへ、つつっと光雄が下がりまして小声で。
「美由紀ちゃん、どうかしたかい。吉原界隈の志士崩れ、宿無し、ろくでなし。そんな奴らに一歩も引かないたちばなの看板娘にしては大人しかったじゃないか」
「うん。そうだね」
「怖かった? びびっちまったのかい?」
光雄の揶揄いに、美由紀は真面目な顔で首を振ってみせました。
「ううん、怖くなんてなかったわ。ただ、すごく悲しそうだったから。あの人は、きっと自分に怒っていたんだと思うわ。だから、あたしは何も言えなかったの」
「そうかい。美由紀ちゃんがそう言うならそうなんだろうさ。沙希ちゃんのことといい、依頼以上に気になる男だね」
「おい、おまえたち遅いぞ!」
前方から苛立ったような少尉の声が飛んできます。美由紀は光雄と顔を見合わせて小さく舌を出すと、小走りに後を追いました。