第62話 穴と腕 前段
蕎麦屋の戸を引いた三郎は、咄嗟に身をかわし、くるりと表へ出ました。周囲には熱気が満ちており、合間から赤子の泣き声が聞こえてくるのです。
三郎が避けたのは火の玉の如きもの。
暖簾が燃え上がり、消し炭と化します。半、千代、東昇も表へ出てきました。千代殿が首を回して辺りを眺めます。
「ふふん、妖しの話が妖しの物を呼ぶか」
鼻を鳴らす千代殿の目には、仲之町の切子灯籠もかくや、いくつもの火の玉が映っておりました。さらに腐った溝川のような匂いが立ち込め、足下の暗がりから、もぞとぞと大百足が湧いて出て来るのです。
火の玉の奥には小さな人影が見え、そこから赤子の泣き声が聞こえたとか。臍の緒の如き紐状のものが闇の奥に繋がっています。
ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつと火の玉が飛び来たるのでした。先手必勝とばかりに動いたのが東昇で、縁切り鋏で火の玉の緒を断ちます。
するとそれは、一声呻いて消えるのでした。
一方で千代や三郎、それに半も、足下の大百足を踏み付け、蹴散らし、千切っては投げ、掴んでは千切りとします。
ふわふわとした火の玉の動きも遅く、大百足も一匹や二匹ではどうということもありません。ただ、消しても消しても、潰しても潰しても、火の玉が、あるいは大百足が、次々と湧いて出てくるのでした。赤子の泣き声に、潰された大百足の頭から聞こえる、かやせ、かやせの大合唱。大百足の頭を捻じ切りながら、千代殿が音をあげました。
「ここでこうしていても切りがない。火の玉も大百足も、九郎助稲荷のあった方から来てるじゃないか。これで外れということもなかろうさ。九郎助の跡地へ行こうよ」
「承知した」
三郎が短く応じ、先陣切って走り出しました。東昇が火の玉を滅し、半を抱えた千代殿が後を走ります。その力と健脚に、降ろせと抗議するよりも驚く半でした。
寸刻のうちに辿り着いたのが九郎助稲荷の跡地です。昼間に見た際には穴なぞどこにもありませんでしたが、この闇夜にこそ浮かびあがるのか、大きな穴があいていたのです。
そこから、もぞもぞと大百足が這い出してきています。だけでなく、血塗れの赤子が放り出されたと思うと、その血がぼっと燃え上がって火の玉となるのでした。さらに三郎の目をとらえたのは、穴から突き出た一本の腕です。
どこかで見たことがあると思う間に、腕に続いて頭と胸が這い出てきました。全身血塗れの若い男です。着流し姿で、首元をすっぱりと斬られており、そこから止むことなく血を噴いておりました。その顔には、馴染み深い狐面。
「四郎!」
思わず叫んだ三郎でした。一方、穴から出た四郎は、すっと立ち上がって三郎に近付くと問答無用で投げ飛ばしました。続けて、千代と東昇に向かうと、これまた躊躇いなく投げ飛ばしたのです。
血塗れの狐面が半の前に立ち、じっと見下ろします。蛇に睨まれた蛙とはこのことでしょうか。逃げることもできず、悶える半の背中で、愛用の月琴が幽かに音を立てました。
四郎の腕が伸び、半の首を抑えます。先刻まで千代や三郎が大百足にしていたように首を捻じ切ろうというのやもしれません。
そこへ、その手を引き離して、三郎が四郎の腕を掴んで投げ捨てました。ぼきりと鈍い音が響きます。無理な姿勢で耐えようとした四郎の腕の骨が折れたのですが、それを気にするようでもなく、すぐに身を起こして別の手で三郎の喉を押さえ付けたのでした。
三郎の息が詰まるのはそのためだけではありません。四郎の体から腐った溝川のような匂いが染み出し、喉に張り付くのです。
逃れようともがく三郎の手が四郎の狐面に当たりました。狐面が外れてかたりと落ち、のしかかるようにしている四郎の顔が三郎だけに見えたのです。うっ、と息を呑むのと、蛆虫と百足が落ちてくるのと同時でした。
四郎には三郎のことがわからぬのか、わかったうえでこうなのか。三郎を凄い力で捉えて離さないのです。四郎の顔から次々と蛆虫が落ち、その腕を百足が這い回っております。
押さえ付けられている三郎には大百足も寄って来るし、いくつもの火の玉が近付いてきていました。かやせ、かやせとつぶやく大百足の首に溝川のような匂い、赤子の泣き声が混じり、ろくに息もできず、頭がぼうっとしてくる。その耳に、澄んだ音色が響きました。
大百足、火の玉、それに四郎の動きが止まり、押さえ付ける力が抜けました。その隙に四郎を蹴り飛ばしたのは東昇です。地面に転がった四郎を例の穴に蹴り落としました。
引き起こされた三郎の耳に聞こえたのは澄んだ月琴の音色です。抱え込むようにした月琴を半が爪弾いておりました。
千代殿に守られながら一心に月琴を奏でます。その音色は優しく子守唄のようで、それでいて力強く、穴から湧いて出る大百足と火の玉を押し返していくのです。
しかし、それに抗うように穴から突き出た一本の腕。四郎の腕だけが持ち上がってくるのでした。半が千代を見て何事か伝えますと、楽の音が変わり、千代が歌っての地蔵和讃。
これは此の世のことならず
死出の山路の裾野なる
賽の河原のものがたり
聞くにつけても哀れなり
ふたつやみつやよついつつ
とおにも足らぬ幼な子が
父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
此の世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり
長く低く侘しく続く歌声と月琴の調べを受けて、大百足も火の玉も穴へ帰って行きました。最後に、突き出ていた四郎の腕がずぶずぶと沈み込んで見えなくなると、次第に穴が縮まり、とぷんと消え失せました。
狂おしい呪いの声が響いて月琴の弦がすべて弾け飛び、半も千代も、三郎も東昇も、みな気を失って倒れたのでした。
訪れる者とていない九郎助稲荷の跡地に月明かりが落ち、星が落ち、やがて空が明け染めてきた頃、三郎は柔らかな手に抱き起こされました。御歯黒溝も高い塀も大門も関係なく飛び来たる鳥のさえずりに重ねて、
「こんなところで眠ってはいけませんよ。夏とはいえ風邪をひきます」
と笑うのは、逢初桜の下で出会った花車の女性でした。




