第52話 狐、屋、敷
件の腹から出た瑠璃珠に刻まれた文字を合わせてみるに、狐屋敷に御座います。むろん、あの屋敷に相違ありません。
延々と続く墨塗りの土塀が敷地と外界を隔て、庭木の向こうにはスレート葺きの屋根も見えれば、瓦屋根も見えています。要となる場所には獣じみた形相の鬼瓦が鎮座し、屋敷を守護しているのでした。
元々あった邸宅に、和洋様々の増改築を繰り返してきたもの。御存知の方は御存知の神田の狐屋敷で御座います。名門神尾家の屋敷であり、見世物小屋での出来事から数日、沙希が件を連れて訪ねて参りました。
広い敷地の一隅に、こじんまりとした六角の庵がありまして。夏の走りの頃、庭木も項垂れるような日差しが目に眩しい。
しかし、小さな池では鯉が跳ね、鹿威しの音が響く室内は木陰の涼しさです。風鈴の囁きに混じる蝉の鳴き声に、
「五月蝿い。糞蟲」
と吐き捨てるのは、見たところ六つ七つほどの少女です。小綺麗な着物に身を包んでおりますが、あの件で御座います。
荒く削り出された一枚板のテーブルに着いて、茶を啜っては、
「苦い。不味い」
と舌を出しています。生意気な小娘と言ったところで、目を細め、向かいに座る部屋の主を睨むようにしていました。
「じゃ、これはどうかしら」
と笑って応じたのは、今日は琴葉でしょうか。洋装の御令嬢が、とんとんと庭に降りて冷たい清水の湧く池から涼やかな小瓶を引き上げました。それを見た件が嬉しそうに、
「霊水、ばばぁ」
と指差しました。美味、美味とごくごく霊水を飲む件を眺めながら、琴葉が問いかけます。
「この子が件なのですか」
「そうだな。件だったというべきかね」
応じたのは稲田十五郎です。狐屋敷まで沙希らを案内して来たのでした。沙希と件と、それと……。
ちゃぽん、鯉が跳ねて音を立てました。
件が立ち上がり、
「魚!」
と叫ぶと、たたたっと庭に降り、躊躇いなくざぶざぶと池に入って行ってしまいました。慌てて追いかけたのが白水です。
件は誰よりも白水に懐いており、白水もまた件の面倒をよくみていました。じゃぼじゃぼと着物を濡らしながら、
「魚、魚、魚」
と水中を探る件を池の外へ引っ張り上げます。今度は、
「冷たい、寒い」
と泣き出す始末。赤子が少しだけ大きくなったような無垢さを持った娘であります。
輸入品の上等のタオルで件と白水の体を拭き、日の当たる縁側に座らせました。琴葉は件の鼻先が黒く汚れているのに気付き、ごしごしと拭きますが一向に取れません。もげる、もげる、と怒る件です。不思議そうな琴葉に応じたのは沙希でした。
「それは汚れじゃないの。件の名残りかしら」
「そうですか。完全に抜けたわけではないのですね。今日は朝から妙な気配を感じていたのですが、このせいでしょうか」
「狐」
「件が吐き出した瑠璃珠に、狐、屋、敷と刻まれていたの。十五郎さんが、きっと此処のことだろうと」
「だと思います。沙希さんでしたね。あなたにもわかるでしょう? このところ、妙なことが立て続けに起きている。ずっと胸騒ぎが……」
「狐!」
「心水教でも、信徒らからおかしな話を聞きます。この東京に何かが……」
「狐! 狐!」
「ええい、五月蝿い! 誰が狐ですか!」
珍しく声を荒げる琴葉でした。ちょいちょい話の邪魔をしていたのは、もちろん件です。琴葉を指差しては、狐、狐と楽しそうに繰り返していました。どうやら怒られたらしいと察したのか、考え込むような件は、今度は、
「女狐!」
と言って琴葉を指差しては笑うのでした。やめなさいと沙希に叱責されても、余計に楽しそうに、
「女狐、女狐!」
と繰り返します。ふぅと息を吐いた琴葉が顔を上げた時、少し、その雰囲気が変わりました。十五郎にはすぐわかりましたが、これが葛葉でありました。
「人のことを女狐呼ばわりとは失敬な。狐より悪くなってるじゃないの。この子、嫌い!」
ぷいと横を向く葛葉でした。それを見て驚き、次に嬉しげに笑う十五郎です。
「何を笑うのです。大事な許嫁が女狐呼ばわりされておるのですよ」
「いや、悪い悪い。だが、葛葉がそんな風に怒るなんて珍しくてね」
言われて、はっとしたように胸に手を当てたものでした。
「たしかに。思った以上に、私が琴葉に、琴葉が私に近付いているのかも……」
「女狐! 女狐!」
沙希から逃げ回りながら、葛葉に飛びついては叫ぶ件です。考え込むことすらできぬ葛葉でありました。
庭から座敷からテーブルの上まで、走って跳んで遊び回る件に振り回されて、四半刻は相手をさせられたでしょうか。遊び疲れた件がうとうとし出して、ようやく人心地です。
件と白水とに昼寝をさせて、葛葉、沙希、十五郎とは、三ツ矢印の平野水で一服しておりました。しゅわしゅわと炭酸水の音が聞こえるほど静かです。ところが、その静けさも長くは保たず、がたがたと戸棚が揺れ出したのでした。
地震ではない。戸棚だけが揺れていました。
すっと立って、葛葉が戸棚を開けますと、そこにあったのは、手のひらに乗るほどの小さな箱です。金属のような布のような不思議な風合いで、見る角度によって色彩を変える。その箱が、戸棚の中で、がたがたと揺れていたのです。箱の上には、色鮮やかな和紙で折られた姉様人形が乗せられておりました。




