第48話 膾斬り
商家の奥から彷徨い出てきた高尾太夫ですが、少佐の睨んだ通り、座敷牢に閉じ込められていたのだとか。それが、軒先から島田の声が聞こえ、気付けば錠前も開いていたために、ふらふらと表へ向かったのでした。
島田の姿を見て涙に咽ぶにもわけがありまして。此方はこちらで島田は死んだものと騙されていたのです。
舩坂少佐は、膝をつく店の主人を見下ろしながら引導を渡すように。
「高尾太夫にも、斬り刻んだ別の男の死体を島田であると示したわけか。さらに親類縁者を同じ目に遭わせてやろうかなどと脅した。まあ、そんなところであろう」
力なく顔を上げた主人に、詳しい話は白州で聞いてやると淡々と伝えます。それを聞いてがくりと首を垂れた主人でした。
これにて一件落着。という雰囲気をみて、愛想笑いの柑子屋が揉み手で御座います。
「いやぁ、良かった良かった。死体を刻まれた娘はんらも浮かばれますな。ほな、これで。わて、もうええですかな?」
「駄目だ」と少佐殿。
「なんで?」と泣きそうな柑子屋です。
「反魂香の件は、まだ終わってないぞ」
というわけで、高尾太夫に話を聞いてみると、夢の中で島田の寡暮らしを訪れ、庭の木戸を開け、砂利を踏み、縁側から寝室へ通っていたのだといいます。死者でなくとも魂を呼び寄せたと言えるのでしょうか。
「ほれみてみぃ、うちの反魂香は本物や。生きとる人にさえ効き目があるんやで、もうええやろ。わては帰らしてもらいまっせ」
「そうだな。柑子屋、御苦労だった」
「へいへい、はぁ、酷い目におうた」
立ち去ろうとする柑子屋に、では、と厳しい表情の少佐殿で御座いました。
「では、柑子屋、最後に聞くぞ。反魂香は、どこから仕入れた? どこで誰から買ったのか、それさえ確認できれば帰してやる」
言われて柑子屋の愛想笑いが凍り付きました。体を震わせ、落ち着きなく懐を探ります。
「嫌や、それは話せへん。あれは本物や。怖いんや、怖い女やった」
「女?」
はっとしたように上げた柑子屋の顔は蒼白で、脂汗に塗れています。詰め寄る舩坂少佐から後ずさり、地面に投げつけたのは反魂香。火もないのに、とろりと甘い香りが漂います。
霧状の煙が渦を巻いてその場を取り囲み、その向こう、逃げ出した柑子屋を追おうとした少佐殿の足が前へ出ず、突き出した手が煙に弾かれました。
それはまるで昨夜の襖がそうであったように、煙と香りとが、彼方と此方を断ち切っているのです。
さっと周囲を見回すと、座り込んだままの主人に、不安げに抱き合う島田と高尾太夫、霧の向こうへ出ようともがく十五郎の姿が見えました。どうやら、柑子屋以外、香りの牢獄に閉じ込められてしまったようです。
甘い香りが深まり、どろりと濃厚になってきました。つれて、ひどい匂いに変わり、終には腐った溝川のような匂いとなったのでした。
薄煙も色を増し、深い霧の底にいるようです。五人の周囲だけが丸く切り取られた形で、匂いと霧の向こうは何も見えませぬ。
ただ、遠くから幾つもの足音が響いて来るのです。不吉さと恐れとが形を取るようにして近付いて参りました。そして、
……ちりんと鈴の音が。
此方からは彼方へ出られぬのに、彼方から此方へは入れるのか、ぬるりと霧の外から突き入れられた腕に続いて、黒い狩衣姿の男です。
胸元に捧げ持つ小さな箱は、金属のような布のような不思議な風合いを持ち、見る角度によって様々な色彩が浮かびまする。その男の顔を見た少佐殿が、
「光雄……」
と、二の句が継げぬ様子でありました。
だけでなく、続けて入ってきたのがフロックコートに中折れ帽の男。にやりと笑うその顔を見て、今度は十五郎も絶句しておりました。数年前に浜辺で介錯し、自らの手で首を落としてやった明石吉之助だったのです。
さらにさらに、もう一人、河津そっくりの男が入って参りました。着流し姿に天狐の面、そいつがぱかりと割れて出たのは美貌の青年、原田の顔。さらにその顔も割れ、下から目も鼻もないぬるりとした無地の顔です。
口があるべき箇所が開き、ぬたりと笑う。
光雄、明石、原田、三人の死者を警戒して少し退がった少佐殿、脇に十五郎が並び、二人して軍刀を抜きました。後ろには島田と高尾太夫、前には中洲に取り残されたような形で例の御大尽、大店の主人です。
腰が抜けて立てぬ主人の顔に、ぺたりぺたり、落ちかかるもの。拭ったその手に付いたのは赤黒い腐った血でありました。
その血の色によるものか、周囲の霧も赤黒く染まります。先の見えぬ霧の向こうから、ぺたぺた、ぴょこん、ぺたぺた、ぴょこんと入り込んで来たのは、捌きたての生肉の如きもの。細かく斬り刻まれた肉片が蛭のように跳ねてやってくるのです。
ぺちゃぺちゃと肉片にへばりつかれ、ひっ、ひっ、と声も出せずに悶える主人でした。
腐った溝川のような匂いの奥からどろりとした霧を破って血塗れの腕が伸び、ぎりぎりと主人の喉を締めつけます。続けて、ぬるりと泥水から抜け出るように、血に塗れながらも華やかな、花魁のように豪華な着物で飾られた娘が姿を見せました。
締め上げられて言葉も出せぬ主人に代わって申し上げますと、これが高尾太夫として斬り刻まれた娘の死体、いや死体の娘で御座います。同様に、島田の身代わりに斬り刻まれた死体の男も赤黒い霧を抜け出してきました。
元の顔もわからぬほど無残に刻まれた顔を突き出して娘と男とが迫ります。二人して主人を抱きかかえるようにすると、両脇に原田と明石が立ち、それぞれ無言で手をかざしました。
しゅっ、しゅっ、と音だけがして、主人の顔が斬り刻まれ、悲鳴と血飛沫が上がります。
こんな屑でも見捨てるのは夢見が悪い。そう思って一歩踏み出した舩坂少佐の足が止まりました。大店の主人を挟んで向かい合うのは、土御門光雄です。
影となってわからぬ表情のまま、光雄が胸元の箱を開きました。ちりんと鈴の音が響き、開いた箱の奥は底の見えぬ暗闇で、風が吹き込んでいきます。
昏い黄泉穴じみた箱に、主人の顔から上がった血飛沫が吸い込まれていくのでした。その間にも全身を膾のように斬り刻まれて。時間にすれば、ほんの寸刻のこと。主人であったものの肉片も血も、ぐるぐると箱へ消えていきました。最後に残った血の跡も、削り取られるようにして、がりがりと箱の中へ引きずり込まれて行ったのです。
風が止んだ時には、そこには何も残らず。大店の主人が居た痕跡はまるでなくなっておりました。膾斬りにされた死体の男女も姿を消していたと言います。
一方、光雄、明石、原田、三人の死者はまだそこにおり、少佐らが死者の名を呼びますが返事はなく、黙々と迫るのです。躊躇いなく間合いに踏み込んできました。
ちゃきっ、と軍刀を持ち直して、舩坂少佐は峰打ちの形で一閃。光雄の肩辺りを狙ったのですが、そのまま横一線に通り過ぎました。避けられたわけでもなく、ただ光雄の体が霞の如く軍刀を擦り抜けたのです。
十五郎に目で合図して退がらせた少佐殿に光雄の腕が伸びます。伸ばした手の先、開いた手のひらから、ぐっと圧が向かってきます。
それが寄り集まって鋭い鎌鼬の如く。しゅっ、しゅっ、と舩坂少佐の頰が切れ、鮮血が吹き出しました。明石と原田も手を伸ばし、ぐつぐつと圧が煮えたぎって襲いかかってきます。目に見えぬ無数の斬撃が放たれているような。十五郎を後ろに庇い、少佐の腕が、足が、肩先が、胴が、頰が、耳が、少しずつ削り取られていく。左半身、独特の構えを崩さず、然りとて一撃を繰り出すこともできずに、血塗れのまま片膝をつきました。白い軍帽が弾かれ、斬られた髪が宙に舞うのです。
ぐらりと倒れた少佐の目に、光雄が持つ箱の中が映りました。それは昏く空虚で底冷えする闇と見えたとか。地獄に通じる穴のよう。周囲の物を吸い込み、飲み込んで行くのです。宙に舞った少佐の軍帽も箱に吸い込まれ、ばりばりとへしゃげて消えてしまいました。
全身を斬り刻まれ、痛みよりも熱さを感じつつ、自分の体から血とともに魂が流れ出していくようで、それ以上、目を開けていることができないのです。




