第47話 南無阿弥陀仏
からんころんの翌朝、日が昇ると同時に寝室の襖は普通に開き、中では、憔悴していまにも息を引き取りそうな島田が倒れておりました。というようなこともなく、島田は幸せそうに眠っており、昨夜も、訪ねてきた高尾太夫とよろしく一夜を過ごしたと満足気。
寝ずの番をしていた疲れと苛立ちもあってか、少佐が軍刀を抜いて試し斬りです。島田ではなく襖を斬ったのではありますが。この時は昨夜のようなことはなく、すぱりと両断されたもので御座います。
島田がうるさく文句を言ったのは当然のことですが、そのようなことは些事も些事、少佐が話して聞かせたことに比べれば、まるでどうでも良いことでした。
少佐が言うには、島田を情夫とし、とある御大尽の身請け話を断り続けたばっかりに、可愛さ余って憎さ百倍、高尾太夫は刃傷沙汰に巻き込まれて死んだというのは真っ赤な嘘。いまも生きているのだとか。
そのことがわかってきたのは、人胆や霊天蓋、脳味噌の黒焼きなど、死体を薬にして売る輩を捕まえたことからでした。主となる事件を片付け、さらに調べていったところ、薬にして売るだけでなく、火車の如く死体を攫い、それを犯罪や何や様々に使っておったのです。
高尾の件もそのひとつでした。
不敬ながら、死体というのも使いようでして。廓からの足抜け、借金の踏み倒し、駆け落ちなどなど、誰かを死んだことにしたい時には役に立つのです。
高尾太夫を身請けしようとしていた御大尽にとって、情夫の島田は邪魔で仕方がない。と言って殺してしまっては足がつく。そこで死体のもうひとつの使い道、高尾の方が死んだことにしようと思ったわけです。詳しい話は舩坂少佐に任せましょうか。
「高尾太夫は吊るして膾斬りにされたと言われているだろう?」
「そうだ。ひでぇもんだったよ」
島田が顔を顰めてみせます。よっぽど酷い有り様だったのでしょう。しかし、
「そこが付け目だ。似た年頃、背格好の娘の死体に花魁の着物を被せ、顔がわからんくらいに斬り刻んで、殺された高尾太夫で御座いとやればどうだ」
「まさか……」
「そのまさかが付け目というやつさ。奇術でも手妻でも、人の気持ちの隙を突いて通すのがやり口だろう」
「だが、それなら高尾はどうなったんだ。もし、生きているならどこにいて何をしているんだ。なぜ、俺のところに来ない。逆に反魂香でやってくる高尾は何者なんだ」
「後者の方は私にもわからん。だが、本物の高尾がどこにいるか予想がつかんでもない。その御大尽の元に幽閉されとるんだろう」
そう聞いて、取るものも取り敢えず表へ飛び出そうとした島田の襟首を掴んで、
「まあ待て。行ってどうするつもりだ。門前払いを喰らうのが関の山だぞ」
「うるせぇ! 無理やりにでもかちこんで、高尾を助けてやるんだ」
叫んで少佐の手を振り払おうとする島田でしたが、ぐるんと投げられ、ぐぇ、と潰れた蛙の如き有り様です。
「気持ちはわかるが、ここは私たちに任せておけ。一緒に行って、きちんと説得してやろうじゃないか。丁寧に話せばわかるさ。乱暴狼藉はよろしくない。何事もすぐ腕力に訴えようというのは良くない傾向だぞ」
少佐の御説教に返事はなく、十五郎が島田を抱き起こしました。前後不覚、完全に気を失っております。
「……少佐、聞こえてませんよ」
ん、と振り返らずに頷く舩坂少佐です。そんなやりとりを横目に、そろりそろり、その場を離れようとしている者も。反魂香を売り捌いて一儲けの商売人、柑子屋でありますな。
これまた振り返らずに少佐の厳しい声。
「柑子屋、島田を背負って付いて来い」
「へっ? なんでわてが」
「嫌なら別に構わんぞ」
背を向けたまますらりと軍刀を抜きまして、鏡のように柑子屋の姿を映して見せます。
閑話休題。
無言の圧力に屈した柑子屋が島田を背負い、少佐と十五郎に挟まれて歩いております。例の御大尽の元へ向かっておるのですが、ひぃひぃと息を切らしながら、
「なんでわてが、こんな。あかん、えらいわ。もう歳なんやで勘弁してぇな。十五郎はんいうたか、あんさん、若いんやで代わってぇ」
「駄目だ」
鋭く、振り向かずの少佐殿です。「柑子屋、まだ貴様への疑義は晴れておらんぞ。島田を背負っておれば、さぞかし逃げにくかろう」
「そんなんせんでも逃げへんがな」
「駄目だ。さっきも逃げ出そうとしていただろう。それに、ひぃひぃ言って歩く姿を見ているのもおも……」
「いま、面白いて言いかけた?」
「いや、重くて大変だと思うが、大事な得意先なのだから、しっかり運んでやってくれ」
「ああ、まあ御得意さんではあるでなぁ」
釈然としない思いながら、島田を背負い直して歩いて行きます。やがて辿り着いたのが両国近く御大尽の屋敷です。
江戸から続く豪商で、維新を経て御用商人からは外れたものの、まだまだ権勢盛んなりと言ったところ。随分と阿漕なこともやってきたらしく、黒い噂の絶えない商家で御座います。
そびえる蔵に大きな店構えを見上げて、柑子屋がぽかりと口を開けました。
「はぁ、すごいのぉ。わてみたいな木っ端商人とはわけが違うわ」
さて、どう話をつけるかという段になって、間の悪いことに島田が目を覚ましたのです。自分がどこにいるか知って、止める暇もあらばこそ、軒先から、高尾を出せ、どこに隠したと喚き立てたのでした。
騒ぎを聞きつけて表に出てきたのが噂の御大尽でして。愛想だけは良く、でっぷり太った腹をさすりながらの応対です。
いまにも突っかかって行きそうな島田を十五郎と柑子屋が押さえ、痩せぎすの舩坂少佐と対峙しての話です。
「ここの主人だな。聞きたいことがある」
「はいはい、なんでござんしょ」
「膾斬りにされた高尾太夫を覚えているな」
「ええ、そりゃもう。相手にもされませんでしたが、あたしも入れ上げてましたから、亡くなったと聞いた時にはまあ悲しかったですな」
袂で涙を拭う仕草をします。それを見た島田が、かっと火を吹くように、
「よくも抜け抜けと! てめぇが高尾を囲ってんだろう。出せ! 出さねぇか!」
と責め立てますが、主人の方は余裕の表情で、ほっほっほっと笑うばかり。
「妄想も大概にしてほしいですな。高尾太夫は亡くなりましたよ。役所でも警察でも、まだ生きているかと聞いてみたらよろしかろう」
笑う太鼓腹を睨みつけながら、腕を組んだ舩坂少佐が改めて問い正します。
「あくまで居ないと言うのだな」
「ええ、おりませんとも。見たところ陸軍の将校さんのようですな。当家も軍部の御歴々とは仲良くさせていただいておりますよ」
「恫喝のつもりか」
「いえ、滅相もない。ただ、そんな士族崩れのあぶれ者よりも、当方と仲良くしていただいた方がお得でござんしょう」
懐から金子を取り出してそっと握らせます。両手で仕舞い込むように渡されたそれを、少佐は興味なげに放り捨てました。
「いいから、女を出せ」
淡々とした言葉に驚きと怒りの表情を浮かべる主人で御座いました。出せ、いや居ないものは出せない。居るだろう、いや居ない。と埒があかないやりとりの中、ひぇっ! と悲鳴が聞こえました。
腰を抜かした柑子屋が、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏を唱えておりますが、それもそのはず、ふらふらと店の奥から昨夜の女が彷徨い出てきたのです。
島田の姿を認め、また島田も女の姿を認めてひっしと抱き合いました。それを見て絶句する主人に、少佐が冷たく声をかけます。
「あれが高尾太夫だな」
問いかけに応じる余裕もなく、主人は、馬鹿な、馬鹿なと繰り返しているだけです。
「ば、馬鹿な、馬鹿な。あの座敷牢から出られるわけがない。誰だ、誰が錠を開けたのだ」
狼狽する主人は気付いてもいませんでしたが、高尾太夫の背中には和紙で折られた姉様人形が張り付いており、ぱたぱたと春風に吹かれていたのです。




