1−3
二人に連れられて礼奈がやってきたのは先程の現場からほど近い、オフィスビルの最上階だった。
株式会社アルモニアス――
ゴシック体でそう書かれたプレートは真新しいもので、エレベーターホールには申し訳程度に置かれた無人の受付カウンター。素通りして奥へ進むと、そこはデスクが並ぶ、なんということはない普通の事務所だった。到着するなり女に手渡されたのは替えの服とバスタオルで、濡れたものはこれに入れてください、と丁寧にもビニール袋まで用意されていた――
「貴方を助けられてよかったです」
フロアの片隅、応接セット、衝立の陰で濡れた服を脱ぎながら女は言った。
ちらちらと礼奈の視界に入るのは艶々と光る女の髪と白い肌。滴る水を拭き取る彼女は気だるげで、その物言いは少々ぶっきらぼうである。しかしそこに苛ついている様子はなく、女はただぼんやりと思考に耽っているだけのようだった。
「……ありがとうございます」
お手を煩わせてすみません、と謝るのも少し違う気がして、結局礼奈が伝えたのは本日何度目かの礼の言葉。
他の言葉も、続く言葉も見当たらなかったのだろう。礼奈が黙って渡された服、少し大きめのカットソーに袖を通すと、彼女の知らない甘い石鹸の香りが漂った。
女からの返事はない。女をちらりと見ると彼女は変わらず気だるげで、知らない匂いも、この場の空気も落ち着かず、やはりそれ以上は何も言えないのだった。
「……雨華。私の名前です」
気まずい空気のまま、先に着替えを済ませた礼奈が汚れた服をビニール袋に詰め込んでいると横から女の声がする。
少し素っ気なくなってしまったと、彼女なりに思うところがあったのだろう。ただでさえ怖い思いをした少女をこれ以上緊張させてどうするのだ、と、女はそう思っていたに違いない。
「雨に華で、雨華。本当はユーファって読むんですけど、でも、言いにくいみたいだから、あめか」
訥々と続けた雨華の言葉に礼奈は顎に手を当て首を傾げる。ユーファという響きが引っかかったのだ。日本語にはまず無い、聞き慣れない音は雨華が異国の者であることを示していた。
「ゆー、ほわ……」
音を確かめるよう、ひとつ、礼奈は呟いた。
この近辺には外国人も多く住んでいる。だから礼奈も今更驚きはしないのだが、なんとなく雨華のことが気になったのだ。
「中国の方、なんですか?」
雨華は不思議な魅力のある女だった。着替えを終えた彼女が髪を掻き上げると、ふわりと甘い香りが漂う。それは瑞々しい果実の香りで、暖かい室内でほんのりと上気した彼女の頬はまるで桃のよう。
礼奈がぼんやり彼女を見つめながら問うと、雨華は相も変わらず、気だるげに礼奈を一瞥。それから彼女は髪を纏めながら口を開いた。
「ああ、名前でわかりましたか。そうですよ。私、日本人じゃないです。まあ、ヒトでもないですけど」
あっけらかんと答えた彼女の言葉の意味は、礼奈にはよくわからなかった。
「それはどういうことでしょうか」
確かにあのような化け物を見た後だ。人ならざる者がいても何もおかしいことはない。
それでも礼奈は、彼女のようなどこから見ても人間としか思えない者がそのようなこと、ヒトではないなどと口にしているのが不思議だったのだ。
礼奈はよくわかりませんと素直に、雨華に問う。その時、彼女の瞳がきらり、黄色く光ったような気がした。
「見せてあげます」
妖しげな笑みを浮かべた彼女が、その右足を差し出した。
白くしなやかな脚、官能的な光景に礼奈はごくりと唾を呑む。カモシカの足のよう、というのはこのことをいうのだろう。
するり、美しい足をなぞるように細い指が滑る。
綺麗だ、と礼奈はただただ見惚れていた。
しかし、その指が足の甲から足首、そしてふくらはぎまでを辿ったところで礼奈はあることに気が付くのだ。
「あれ、傷が……」
先の戦闘で出来たはずの傷が塞がっていたのである。あれ程深い傷があったのに、彼女が脱ぎ捨てたストッキングは破れ、血に塗れているのに、その傷は痕がうっすらと残っている程度ではないか。
驚き目を丸くする礼奈を見て、雨華は言う。
「ね、こういう、ヒトじゃない生き物って結構いるんです。私は仙狸、妖かしです」
内緒ですよ、と悪戯っぽく笑った彼女は、何事もなかったかのように着替えを済ませるのだ。
そうして呆然としている礼奈をよそに、衝立の向こうから聞こえてきたのは「着替えは済んだか」という先程助けてくれた男の声。
「はいはい、急かさないで下さいよー」
急いで脱いだ服を片付けた雨華が間延びした声で返事をすると、礼奈は自らの名を名乗る暇もなく事務所の奥へと案内されるのだった。
ただのオフィスビルには似つかわしくない、派手な装飾の施された扉を開けると、内部は絢爛豪華な応接室となっていた。
部屋に漂うのは淹れたてのコーヒーの香りで、ぴかぴかのテーブルにはコーヒーとともに茶請けが出されている。やはり落ち着かないとそわそわする礼奈の前に現れたのはにこにこと笑う髪の長い男。
「いらっしゃい。俺は秦梨サイ。よく来てくれたね」
秦梨サイ、と名乗った彼は、このオフィスの主で雨華たちの雇用主、つまりは社長なのだと礼奈に言う。それからサイは礼奈の向かいに座ると、よろしく頼むとひとつ会釈をした。
「か、風張礼奈です」
なんてところに来てしまったのだろう、と礼奈は挨拶をしながらも視線を泳がせていた。
棚の上、大事そうに飾られているのは四つ足の龍のような置物に何かの鉱石、振り子時計に八卦に壺と異国情緒溢れる品々。壁の掛け軸には大変読みにくい、よくいえば達筆な文字で『呉越同舟』と書かれている。
今更ではあるが、いくらなんでも怪しすぎるのではないか。
決して顔には出さないが、礼奈は心の中で「本当に大丈夫なの」と繰り返す。
そうしてそわそわとしていると、サイは大丈夫だよと一口コーヒーを啜り微笑んだ。
「緊張しなくてもいい。ただ、今日あったことは他言無用ということで、ね?」
カップを置いてから、秘密、と口元で人差し指を立てたサイは朗らかな笑みでいて穏やかな口調。それは脅迫めいた言葉なのに、サイは「怖がらせてしまってすまない」なんて謝るのだから、礼奈も「いえ、平気です」としか返せない。
静かな応接室、時計の針が時を刻む中で礼奈はなんだか拍子抜けしてしまったと、ミルクを入れたコーヒーを覗き、くるりくるりとスプーンで円を描いた。
「あの、さっき私を襲った鬼、みたいな生き物は結構いるんですか……?」
俯いたまま、礼奈はサイに問い尋ねる。礼奈が見つめたカップの中で揺れるのは吊るされたシャンデリアの光と自身のシルエット。
この世に妖かしの類が存在するということは認めざるを得ない、と、礼奈は現実を受け入れていた。しかし、彼女は鬼に襲われたなどという話は聞いたことがないのである。人を襲う妖かしがいるのなら、もう少し大事になっていてもいいのではないか。
礼奈は顔を上げ、訝しげにサイの顔を見やる。
「君を襲ったのが生き物かといったら違うのだけど、そうだね。彼らのような人を襲う魔物は少なからず存在しているよ」
「魔物……」
「……とは言っても、俺たちもその総数は把握していないんだ」
サイはまた一口、コーヒーを啜り、困ったように眉尻を下げた。
鬼とは、冥界の餓鬼や人に仇なす死霊、生霊、それから異界よりやってきた者の総称なのだとサイは言う。勿論その全てが悪というわけでもなく、神として崇められている者もいることから、悪鬼、善鬼と区別されているのだそうだ。
「悪鬼というのは人を食らうことでこの世界に魂を繋ぎ止めている存在でね、今回君を襲ったのは怨念を持った死霊なんだよ。心霊番組では怨霊とも呼ばれているね」
そして君は獲物として襲われた――
優しげに垂れ下がっていた彼の眉が吊り上がる。口元に笑みはなく、眉間には皺が深々と刻まれている。その表情は、怒り、憤り。揺れる瞳は少しの悲哀を帯びており、サイはじっと、何かを考えているようだった。
「あの……」
「ああ、ごめんね。少し考え事をしてしまったみたいだ。それより、腕を見せてくれないかな。痣になってるらしいじゃないか」
礼奈に微笑みかけたサイは取り繕うような、憂いを振り払うような、そんな笑み。彼は懐から小瓶と薬匙を取り出すとふたつ並べて卓上に置く。それから薬を塗ってもいいだろうかと問うのだった。
「はい」
言われるがまま、袖を捲くって腕を差し出す。礼奈が視線を腕に移すと、そこには手形状の痣が浮き出ていた。
先程と比べると随分とはっきりした形になってきている。赤く腫れ上がった腕、出来た痣は得も言われぬ禍々しさを放っていた。
じっくり、礼奈の腕を見たサイは、眉を顰めてひとつ呟く。
「なかなかどうして、これはひどい」
サイが確かめるように痣を擦り、軽く押すと、腕には鈍い圧痛。そんなにひどいですか、とサイに聞けば、彼は、そういう意味ではないのだと頭を振った。
「ああ、いや。年頃の女の子になんてひどいことを、ってね。でも安心してくれて構わないよ。すぐに治してあげるから」
大丈夫、と言った彼は、先程卓上に置いた小瓶を揺らしてみせる。中身はさらさらとした液体なのか、瓶を揺らす度に中からちゃぷちゃぷと音がした。
「少し刺激が強いかも知れないけれど我慢するんだよ」
サイの口調は、まるで子どもをあやすようなものだった。嫌ではないが、むず痒い。それから彼は「見ててごらん」と礼奈に微笑むと、匙を手に取り小瓶を突付く。
「おまじない」
「おまじない、ですか……?」
「そう。早く綺麗になるように、ってね」
そう言った彼が小瓶の蓋を開け、薬を匙で掬い上げると、礼奈は目を丸くした。
「あれ……どうして」
液体だとばかり思っていた小瓶の中身は、粘度の高い、乳白色の膏薬だったのだ。いや、確かに、中の薬は液体だったはずである。こんなことがあるものか、と彼女は目をぱちくりとさせ、不思議そうに膏薬を見つめた。
サイが何かを混ぜた様子はなかった。ならば、衝撃を与えると固まる液体なのだろう、とするとこの薬には何が入っているのだろうか。
大真面目に礼奈が思案していると、サイはくつくつと喉を鳴らして笑う。一体何が可笑しいのか、礼奈は彼の失笑の意味がわからずに眉根を寄せた。それは疑義と、ほんの少しの不快感の表れであった。
「ああ、ごめん。笑うつもりではなかったんだけど、なんだか可笑しくて。いい顔をするね。これだから魔術師はやめられないんだ」
サイがすまないと付け足した言葉の意味もまた、礼奈にはよくわからない。
「まじゅ、魔術……?」
そうして解せないと問いかけた礼奈の、魔の抜けた顔が余程おかしかったのだろう。とうとう堪えきれなくなったサイは声を上げて笑いだす。しばし笑った後にサイは指で目尻を拭い、こほんとひとつ咳払い。指先に膏薬を取って礼奈に問うた。
「ヒトならざる者を見ただろう?」
腫れ上がった腕に薬を塗られ、礼奈の身体に痛みが走る。まるで焼かれるような、じりじりとした痛みにきつく目を閉じた礼奈だが、その波はすぐに引いていく。そして礼奈が次に腕を見たときには何事もなかったかのように、鈍痛も痣も、綺麗になくなっていた。
「妖かしが存在するのだから魔法使いも魔術師もいるんだよ」
ほら、綺麗になったと、サイは手に付いた膏薬を布巾で拭いながら笑ってみせる。礼奈はまだ少し腫れている腕を擦り、今起きたばかりの現象、魔法や魔術といった不可思議な力が存在するという事実に、ため息を吐いた。
それは感嘆――痣が消えた腕を曲げて、伸ばして、目の前で起きた出来事に、礼奈はすっかり言葉を失っていた。
「すごいだろう? これが魔術なんだ――」
魔術というのは限りなく魔物、妖かしに近い人間が生み出した学問、秘術である、とサイは言う。東洋では方術などと呼ばれているもので、力を使うには杖などの媒介を必要とするのが一般的であり、彼の場合は薬匙がその媒介にあたるのだそうだ。
「そして歴史に名を馳せる高名な軍師や有能な指導者も実は魔術師や魔法使いだった――」
彼の目は優しげに細められていた。何かどこかを懐かしむような瞳は凪いだように穏やかで、彼の言葉はまるで全てを見てきたかのような、そんな物言いだった。
「魔術も、魔法もひっそりと、でも俺たちにとっては当たり前に存在しているんだ」
「魔術と、魔法、ですか」
現実味のない話にただ頷くことしかできなかった礼奈は、ここでふと疑問を抱く。魔術と魔法、彼の口からはふたつの言葉が区別されるように出てきたのだ。
両者の違いは礼奈にはわからない。そもそも礼奈は、そのような言葉の違いを考えたことがなかったのである。
魔術も魔法も、言葉こそ違えどそこに差異があるなどとは到底思えない……と、礼奈は思っていた。
「あの、魔術と魔法は違うんですか」
彼女が投げかけたのは純粋な問いで、素直な疑問。爛々と輝く瞳と、スカートの裾ごと、きゅっと握り締められた拳が物語るのは礼奈の好奇心。サイはそんな礼奈の様子を見て、嬉しそうに目を細めた。
「そう。魔術も魔法も力の根源は同じなんだけど、その実、まったくの別物なんだ」
魔法は魔物、妖かしが使う力だよ――
サイは饒舌に語る。
魔術を“ヒトにより生み出された学問”とするのなら、魔法は“妖かしが生まれ持つ本能的な力、その法則の総称”なのである、と。
先程礼奈を助けた女、雨華を例に挙げれば、彼女は山猫の妖かし、仙狸といい、傷の治りが早いのは、妖かしとして生まれ持った大きな力、すなわち魔法のお陰なのだという。
「似たような言葉が沢山あってよくわからないだろうけど、俺たちは妖かしの動物的、本能的な力によって起こされる現象、存在を全て引っ括めて魔法と呼んでいるんだよ」
「本能……ですか」
「そう。そして、その中でも取り分け人間に近く、魔法を自在に使いこなせる理性を持った者を魔法使いというんだ――」
魔術には杖などの媒介が必要なのに対し、魔法は媒介を必要としない。
魔術をヒトが創り上げた力とするなら、魔法は妖かし本来の力。
最後にひとつ、ふたつとまとめたサイは少し語り過ぎてしまったと苦笑して照れた顔を誤魔化すようにコーヒーを啜る。礼奈も同じようにカップに口をつけると中身は既に冷めてしまっていて、その生温さに感じたのは時間の流れ。どれ程時間が経ったのかと礼奈が時計を見上げると、針は既に九時を回っており、彼女は慌てて、急くようにコーヒーを飲み干した。
特に門限があったわけではない。ただ、帰宅がここまで遅くなることは初めてで、きっと家族も心配しているはずである、と礼奈は焦っていたのだ。
「ご馳走さまでした。あの、私そろそろ家に帰らないと……腕の怪我のこと、ありがとうございました」
深々と頭を下げ、着替えは明後日にでも返しますと続けた礼奈は、慌ただしく荷物をまとめて立ち上がる。彼女が何気なく確認したスマートフォンの画面には、不在着信と新着のメッセージが数件、ちかちかと表示されていた。
サイはそんな礼奈の姿を見て、すまないと一言謝り立ち上がる。
「時間を取らせてしまったね。他言無用と口止めしておきながらよく喋るやつだと思ったろう? 少し、聞いてほしかっただけなんだ――」
自虐的に笑ったサイは、穏やかな、しかしどこか寂しげな笑みだった。
似たような顔を先程も見た。礼奈がただ、そう感じただけかも知れない。それでも何か、彼女の胸には引っかかるものがあったのだ。
そうしてもやもやとした感情を抱えたまま、礼奈は応接室を後にした。