1−2
雨の都会の午後八時、週末の繁華街は狭く暗い路地裏。濡れた栗色の髪を靡かせ息急き切って駆けるのは制服姿の少女だった。表情は恐怖に引き攣り、額には汗か雨か、前髪がぴたりとはりついていた。
聞こえてくるのは激しい鼓動の音とエアコンの室外機が回る音、それから足元で水が跳ねる音だけで、背後から伝わる殺気は彼女の脳へただ一言、ひたすら逃げろと告げている。
近道なんてするんじゃなかった!
その時、少女はただただ後悔していた――
◆
時間は遡って三十分ほど前のこと。生徒会の集まりで少しだけ遅くなってしまった帰宅時間。少女は家路を急いでいた。
今日に限って電車の遅延が重なっているのだからまったくもってタイミングが悪いというもので、外はすっかり暗く、電車の窓では雨粒が光を反射してきらきらと輝いている。
少女は小さく短く、息を吐いた。生徒会の仕事も、電車の遅延も仕方がないことだというのは彼女も十分に分かっていた。少なくとも、そのつもりではあったはず。それでも苛々としてしまうのが人の心の面倒なところで、彼女の心も例に漏れず、晴れぬままだった。
ドアの前、もらった学習塾のボールペンをくるりくるりと回してぼんやりと見つめ、そんな風にもやもやとしていると、気づけば電車は最寄り駅。車内から押し出されるように降りると、まだ少し冷たい春の風がスカートをふわりと揺らす。
「早く帰って課題をやりたいのに……」
誰にともなく呟いた文句と小さな溜息は、走り出した電車の音に掻き消され、風と混ざり合って流れていく。
学校指定のバッグのポケットから、徐に取り出したスマートフォンには、母から一言、「お夕飯はどうするの」と短いメッセージが届いていた。
お腹が減った、と少女は腹を擦る。いつもならとっくに夕飯を食べている時間、おまけに今日の彼女は特別疲れているのだから、そう思うのも無理はない。
「帰りたい……」
人の流れに身を任せて歩いたホーム、降りた階段、抜け出した改札。
一刻も早く帰宅したいと少女が近道に選んだのは駅前にある繁華街、風俗店が多く立ち並ぶ通りだった。
少女の自宅は繁華街を抜けた先、街中にあるマンションで、決して治安の良い場所ではない。その為いつもは駅前の大通りから迂回するように帰宅しているのだが、今日の彼女は少し違う。吸い寄せられるように繁華街へと歩いていくのであった。
毒々しい明かりに照らされる制服は不釣り合い。騒がしい街の中、時折聞こえてくるのは異国の言葉と耳を塞ぎたくなるような下品な言葉。風俗店も多い繁華街において少女の姿はまさに異質そのもので、通りすがる者たちは皆、彼女は奇異の目で見ているようだった。
ただ、近道をするだけ、家に帰るだけ、と少女は自分に言い聞かせる。しかし衆目に晒される感覚はどうにも落ち着かないようで、彼女はそそくさと脇道に逃げ込んだ。
どこか、逃げ場が欲しかったのだろう。自宅までの道のり、どこを通って帰ろうか、少女は顎に手を当て思案した。しかしそんな歩みを止めての逡巡も束の間だ。
少女は思いついたように歩き始める。
躊躇う彼女の目の前を、一匹の三毛猫が通ったのだ。三毛猫は路地裏、ビルの隙間を駆けていく。
少女が猫の後を追うようにビルの隙間に入ってみると、人が通れるスペースがあった。
「こんな道があったんだ……」
普段ならそのような場所を通ろうなどとは思わないことだろう。
しかし、既に彼女は誘導されていた。
あるはずのない路地裏に、
彼女の命を狙う何者かに、
あるいは、彼女を救い出そうとする何者かに――
そしてここが、運命の分かれ目だったのだ。
そうしてビルの合間を歩き始めた少女だったが、一向に開けた通りに出る気配がない。地図上では間違いなく、自宅の方向へと進んでいるのに、何かがおかしい。視線の先、真っ直ぐ前方には広い道があるはずなのに、この路地裏からなかなか抜け出せないのである。
気味が悪い、と少女は呟き足を止める。
上を見上げると都会の狭い空、厚い雲と降る雨は街の光が反射して、薄ぼんやりと灰色に染まっていた。
空はまったくいつも通りなのに、繁華街の喧騒は聞こえない。静まり返った路地裏、急に不安になった彼女が振り返ろうとしたその瞬間だった。
それは突然やってきた。
生臭い、血の匂いが漂い始めたのだ。
少女の肌は粟立ち、吐き気がこみ上げる。ぞくぞくとした悪寒がその身を走る。
考える余裕も、間もなく、彼女の足は勝手に駆け出していた。
「助けて!」
賑やかな繁華街から隔離されるように伸びる路地裏では人っ子一人居やしない。助けてくださいと声を出せど、叫び声はビルの合間で響くのみ。
誰か人が顔を出してくれないものかと見上げた雑居ビルの窓は、外の世界を拒むように締め切られている。
振り返る余裕などなかった。得体の知れない何かが追ってきている、その感覚だけが少女を支配し、焦らせるのだった――
近道なんてするんじゃなかった!
本当に、後悔してももう遅いのだ。
壁と壁の隙間から見える広い通り、少女は外灯の光を目指して走る。走る。もつれそうになる足を前に踏み出しただひたすら、必死に、懸命に前を目指した。
進んでも進んでも近付かない出口を目指し、それからどれほど走ったか。やっと見えた通りの明かりに、彼女がもうすぐ家に帰れると安堵し、目を輝かせたその時――
背後の気配がさっと消え、目の前に大きな人影が現れた。
鬼、化け物、とでもいうのだろうか。とにかくそれは人間ではない何かだった。
すべての光を遮るような漆黒の身体に頭部に生えた二本の角。ぎょろりと光る赤い目は少女を捉え、口からは白い牙と真っ赤な舌が覗いていた。
彼女がたじろぎ後退りをすれば、そいつはにたにたと気味の悪い笑顔を浮かべながら一歩近づく。
異様に大きな手が少女の元へと伸ばされて、今まさに、そのか細い腕を掴もうとしていた。
「だれか……!」
腰が抜けてしまって動けない。少女はへたりとその場に座り込み、嫌だ嫌だとうわ言のように繰り返す。
この化け物は何者なのか、何が起きているのか、そのようなことは少女にわかるはずもなかった。
腕を掴まれ持ち上げられると、彼女の体は宙に浮く。開いたままのバッグの中身が溢れ落ち、水溜りの中に散らばった。
ああ、きっとこのまま食べられてしまうのだ!
少女は理解した。諦めるように固く目を瞑れば、大きなそいつの口が、ねちゃりと粘着質な音を立てて開く。
さようなら――
家族の顔が浮かんでいた。
どうか夢であってほしいと願っていた。
少女がうっすらと開いた目の隙間、涙が流れたその時だ――
「何諦めてるんですか‼」
一陣の風が吹いた。
今助けますと女性の声が聞こえ、弾みをつけて地面を蹴る音がしたかと思えば響き渡る化け物の咆哮。
少女が驚き目を見開くとフードを被った女がコートの裾を翻し、化け物に飛びかからんとしているところだった。
彼女の手は小さな刃物。切っ先は鈍く光り、柄には縄。斬り掛かれば雨粒はきらり、弾け、化け物はぐらりと、バランスを崩す。
地鳴りのような、怒気を孕んだ唸り声が路地に響いた。化け物の真っ赤な瞳は女を捉え、少女を掴む腕とは反対、空いている腕を振り回し女に殴り掛かる――
ひらりと、女が舞った。
転身、女がビルの壁を蹴り、大きなそいつの一撃を躱せば、彼女が居た場所、ビルの壁は崩れて壁面を伝うパイプはひしゃげて曲がる。
コンクリートが、砕け、飛び散り、破片は彼女の右足に突き刺さった。
「もう……痛いじゃないですか」
すう、と呼吸を整えるような息遣いが聞こえた。
体勢を立て直した女が化け物に斬りかかると、はらり、被っていたフードが脱げて、さらり、黒髪が流れた。
女の年齢は少女よりいくつか上だろうか。ひとつに纏めた髪を靡かせ、彼女が縄のついた刃物を振り回すと風切り音が鳴った。彼女の口元は弧を描き、そしてその表情から伝わるのは余裕と自信。脚の傷などまるで意にも介さないといった具合に、ただ、彼女は立っていた。
女は、化け物の再度の一撃を躱す。腕が振り下ろされた瞬間、地面を蹴って跳び上がったのだ。
まるで傷などなかったかのように、軽やかに――
それから彼女は縄の付いた刃物、決して大きくはないそれで、少女をがっちりと掴む化け物の腕をいとも簡単に切り落とす――
「司馬さんはその子をお願いします」
「急に言われても……!」
女が口を開き、それからもう一人の、男の声が聞こえてからすぐのこと。少女が切り落とされた腕と共に落下すると、化け物の腕は意思を持っているかのように暴れだした。
弾みで少女の体は、まるで道端の紙切れのように、あるいは今まさに捨てられんとしている空き缶のように宙に放り投げられる。
そうして少女が壁に叩きつけられるその寸前だ。
間に男が割り込み、彼は少女を庇う形で壁に激突した。
男を下敷きにするようにうつ伏せに着地した彼女には、一体何があったのかさっぱりわからず、司馬と呼ばれたこの男のことを気にかけている余裕すらなかった。
慌てて女に視線を戻せば、女は刃物を化け物の喉元に突き立てているところ。そしてその薄い唇がただ一言、さようならと言葉を紡いだところだった。
「あ……」
少女の声は言葉にならず、さらさらと消え行く化け物の姿をただ眺めていることしかできない。
そうして口をぱくぱくと動かしていると、振り向いた女はひと仕事終えたという表情で少女に歩み寄り「大丈夫ですか」と声をかけた。
「はい……でも、怪我――」
少女の目に入ったのは女の脚。破けたストッキングから除く肌はコンクリートの破片が深々と突き刺さり、血に塗れていた。
大丈夫ですかと少女が問うと、女は破片を引き抜き頭を振る。
「平気ですよ。私、体は丈夫なんです。それより貴方、腕は平気なんですか」
「私は大丈……あっ……」
大丈夫です――少女がそう言い終える前に、女の手は動いていた。
袖が捲られて露わになる少女の肌。腕は真っ赤に腫れており、所々に黒く靄がかった痣が出来ている。
「やっぱり、穢れて痣になってますね。こんなに綺麗な腕なのに……体調は大丈夫ですか?」
「だ、だいじょう、大丈夫……です」
怖かった、と少女の脳裏には恐怖が蘇る。
少女が、ありがとうございますと感謝の言葉を絞り出すと、堰を切ったかのように止めどなく溢れる涙。
緊張感から解放されて安心したのだろう。そんな彼女の姿を見た女は、怖かったですよねと、泣きじゃくる少女の頭をゆっくり撫でて、羽織っていたコートのポケットからチョコレート菓子を二本取り出した。
「一本どうぞ。まずは食べて落ち着きましょう」
間延びした女の声はつい今しがたまで化け物と対峙していたとは思えない程に落ち着いており、声音はとても優しいもの。しかしその表情は何かどこか、複雑そうな、何かを憂いているような、そんな険しいものだった。
「おいおい、全部終わったみたいな顔してんじゃねーぞ」
少女が菓子を受け取ったところで不服の声をあげたのは、下で仰向けに倒れている男。
彼は心底居心地の悪そうな顔で早く退けてくれと少女に告げる。
「あ……! あの、ごめんなさい! ありがとう、ございます!」
我に返った少女が飛び退き頭を下げ、涙を拭って礼の言葉を伝えると、男はこちらこそ申し訳ないと恥ずかしそうに頭を振る。
一方、女はというとチョコレート菓子を咥えながら、ポケットからもう一本、菓子を取り出して男に手渡したのだった。
「ああ、すみません。はい、どうぞ。司馬さんの分です」
「違う、そうじゃない」
「ありゃ、違いましたか」
男は菓子を女に突き返し、面倒臭そうに頭を掻く。それから、先にやることがあるだろう、と、大きなため息と共にしゃがみ込み、少女の落とした荷物を拾い始めた。
「あ、バッグ……すみません」
「こっちこそ、巻き込んじまって悪かった。荷物、濡れちまったな」
教科書とノート、ペンケースにスマートフォン、少女の持ち物はどれもが濡れて汚れてしまっていた。
男が教科書についた砂粒をはたき落とし、すまなかったと再度頭を下げると、その隣、菓子を咥えた女もまた、すみませんでしたと頭を下げる。
「いえ、助けてくださってありがとうございます」
少女も命を助けてもらった上に謝られるとは思わなかったのだろう。平気ですと首を振って頭を下げる。
それに、今の彼女にとって、学用品の汚れなどはほんの些細なことなのだ。
まだ少し震えている体を無理くり押さえつけ、彼女は残りの荷物を探して拾い集めた。
気付けば、雨は上がっていた。
少女はすっかり文字の滲んでしまった課題のプリントを拾い上げながら考える。
もしかしたらこれは夢なのではないか。
化け物に掴まれていた腕を擦ると、ちくり、体に痛みが走り、ふらり、彼女は目眩を催した。
「あまり無理はしないほうがいい」
倒れ込んだ少女の体を支えたのは男だった。
彼は羽織っていたジャケットを地面に敷き、その上、少女を壁に凭れ掛かるように座らせた。
春とはいえどもまだ寒い。ジャケットを脱いだ男を見た少女が「そんなの悪いです」と慌てて立ち上がろうとしたが、彼女の足は思うように動かなかった。
「いいよ、無理すんな」
男はやんわり少女を制し、それを見ていた女は先程差し出した菓子を指差し言う。
「食べてください。チョコレートはおいしいです。落ち着きますよ」
「あ、はい」
少女は言われるがままに包装を剥がし、いただきますと口に含む。
甘ったるいチョコバーは、小さい頃によく買ってもらって食べた味なのか。甘さと香りが口に広がれば、少女は幾分か落ち着いたような、そんな気分になった。
男と女に挟まれた少女は、何か、守られているような安心感の中で安堵のため息を吐く。
「落ち着いたみたいですね」
それから少し間を開けて、話がある、と男は少女に問うた。
「ほんの少しの時間でいい、一緒に来てくれないか」
スマートフォンで時間を確認した男は用事は三十分で済む、と指を三本立てる。
彼が見せた画面に表示された時間は午後八時十七分で、ついて行っても九時には帰ることができそうだがどうするべきなのか――
少女は悩んだ。
襲われていた自分を助け出してくれた二人だ。悪い人とは思えない。しかし、信用に値するかといえばどうにもこうにも胡散臭い。
躊躇いを見せる少女の後ろでは菓子を食べ終えた女が誰かと電話で話をしながらくるくると長い髪を弄んでいた。
「目標はきちんと仕留めましたから、早く迎えを寄越してください。寒いしびしょ濡れだし、助けた子だって風邪引いちゃいます」
目標。どうやらこの者たちはあの化け物を追っていたらしい。彼女の口ぶりからすると二人は誰かの指示で動いているようだった。
やっぱり夢を見ているみたい、と少女は思う。
ぼうっとする頭では先程の出来事を反芻するように、何度も、何度も同じ映像が繰り返される。
早く、現実に帰りたい――
そう、それならば、断ってしまえばいいのだ。
家に帰れば母親が作った夕飯が食べられる。幸い今日は金曜日、課題は後回しにして、土曜日に頑張ればいい。これが夢なら、さっさと目を覚ましてしまえばいいのだ。
断ろう、と少女が立ち上がり口を開きかけたとき、男はわかっているとでも言うように頷いた。
「まあ、あんなことがあってすぐじゃ無理だよな。すまん、さっきのことも、今の言葉も忘れてくれて構わない」
少女には「悪かった」と謝罪して、電話をしていた女のスマートフォンを取り上げた。
「あ、ちょっと司馬さん!?」
慌ててそれを取り返そうとした女に、男は静かにと指を立てて制止する。
「悪い、女の子よっぽど怖かったみたいで逃げちまった。てことで俺らに迎えはいらん」
そうしてあっさり、簡潔に、早口で用件を伝えて通話を終え、画面の暗くなったスマートフォンを女に返す。
「嘘なんてついてよかったのでしょうか」
不安な様子の女を、男はコートについているフードを被せて黙らせた。彼は嘘をついたことを悪びれもせずに、平気平気とおどけてみせるのだ。
「俺が勝手に逃したことにしときゃいい。お前もこれ以上一般人を巻き込みたくはないだろ?」
「まあ……確かにそうですね」
「何あったら、俺がなんとかする」
地面に敷かれたジャケットを拾い上げ、男は少女に笑いかける。
「すぐそこは大通りだ。明るいところに出れば平気だろ? 安心して帰っていいぞ――」
気遣ってくれているような、優しい笑みに少女ははっとした。
夢を見ているときのような、まるでこの世界にコートの女と、この男と、それから自分の三人しか存在していなかったような、そんなぼんやりとしていた感覚が去っていく。
少女の耳に、繁華街特有の騒々しさが帰って来る。
それとも、少女が現実世界に帰ってきたのか。
少女が感じたのは今まで感じたことのない、得も言われぬ安心感、言い知れぬ期待感だった。
この人たちともう少し――――
それじゃあまたと手を振って、大通りへ飛び出すコートの女。それに続くように男も歩き始め、背中はだんだん遠くなる。
もう少しだけ、話がしたい!
名残惜しいと少女が感じたその時だ。男は何かに気が付き足を止めた。
「おや、まだ何か落ちてるな。ほれ、嬢ちゃん」
足元に落ちていたものを拾い上げ、男がひょいと放り投げたのは彼女が通う高校の生徒手帳。
「大事なものだろ?」
「あ……」
運命的なタイミングだと思ったが最後、少女の足は駆け出していた。
落とし物に気が付いて良かったと笑う男の顔を見上げ、少女は待ってくださいと引き止める。
「私も行きます――」
彼女の名は、風張礼奈。
この時点では彼女はただの、女子高生だった。
そして今踏み出した数歩が、今発した言葉が、彼女の非日常への入り口だったのである。




