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8.本当に大切にしたいこと

「なあ、仁威。おめえは隊長である前に男であって人間なんだぞ」


 ぽつりとつぶやかれたそれは、あまりに哲学的で、普段の駿来らしくなかった。男同士には硬い話は不要、体と心でぶつかりあえさえすれば意思の疎通はできるのだと本気で信じているこの男のこの突飛な発言に、仁威は思わず駿来のほうを見た。


 すると駿来も仁威に目をやり、そして柔らかな表情になった。


「いいよいいよ、もっと悩めよ若人よ。そんでもって、おめえが本当に大切にしたいことを決めるんだな」


「本当に……大切なこと」


「おう、そうだ。そしてそれはな、絶対に『贖罪』なんかじゃあないよ。どんな悪い人間だってな、贖罪を宝にして生きていこうなんて無理なこった。いくら周りがどうこう言おうと、楊家の娘がおめえを批判しようと、おめえのやったことに泣きわめこうとも、それでもおめえはな、仁威、おめえのもっとも大切なことを捨てちゃあいけねえんだ。それを失ってまで生きる価値なんて、いったいどこにあるっていうんだ。

 そんな苦しくて辛いだけの道、俺だって嫌だよ。罪を償う、それは大事なことだ。だがなあ、それとこれとは話は別だ。罪の深さのために生きることをあきらめるなんて、きっと誰にもできやしないよ。なあ、そうじゃないか?

 まあ、そりゃあ俺だって、不愉快な奴は殺したくなるし、実際、何人もの奴をこの手で殺めてきたけどな。ああそうさ、死ななきゃいけねえ奴ってのも、今の世の中、やっぱりいるよ。……でもなあ、生きていることが赦されている奴に本当の人生を歩ませないことは、その命を絶つよりも非道だと、そう俺は思うぞ。

 それに当の楊枢密使がおめえに第一隊隊長をやらせているっていうことは、おめえのその罪ってやつはそこまで重いものなんかじゃないと俺は思う。楊枢密使はおめえの言うその罪ってやつを知っているのか?」


 問われ、仁威がためらいながらもうなずいた。それを見て駿来が心底うれしそうに笑い、その手であぐらをかいている膝をぱちんと叩いた。


「やっぱりな!」


 指にはさまれたままの煙草から灰がぱらぱらとこぼれ散る。


「あの楊枢密使だ、ちゃんと分かっていて、それでおめえを使っているんだ。それは楊家はおめえのことを赦している、そういうことだ」

「それは楊枢密使にも言われました。ですが、それでも俺は」

「だからなあ、そうやって真面目なところ! それこそが一番の問題なんだよ」

「……それも楊枢密使に指摘されました」

「だろう? やっぱりよく分かっているよ、あの人は」

「ですが楊珪己は俺の本当の姿を知りません。それを知ればあいつは……!」


 再び体を起こそうとした仁威の腹に、がつんと駿来の剛拳がねじこまれた。寸分たがわず先ほどと同じ場所を突かれ、まるきり警戒していなかった仁威は息を飲んだ。


 頭がくらくらする。ぼんやりとしてきた視界で駿来が笑っていることだけは分かった。


「そうやって考えてばかりいるな。他人じゃない、自分に訊け。おめえがどうしたいかってことをな……」


 薄れゆく意識の中、駿来の言葉は最後まで仁威の耳に届いていた。


 そして駿来の言葉がかき消える間際、代わって仁威の脳裏に浮かんできたのは、やはりあの少女のことだった。


 あのまま二人、何も知らない関係のままでいられたらよかったのだ。彼女のことは過去の恥辱の一場面として、苦みをもってときたま思い出すだけでよかったのだ。こんなふうに、この年齢で、この地位にたどり着いて……今さら根本から悩み苦しむことになんてなりたくなかったのに。


 二人、知り合ってからも今思えば近づきすぎていた。何らかの理由をつけて距離をおけばよかったのだ。侑生に言えばよきように取り計らってくれただろう。……なのにそれをせず、依怙地なくらいに上司としての自分にこだわってしまっていた。


 また駿来の声が聞こえたような気がした。


『――おめえが本当に大切にしたいことを決めるんだな』


 大切なもの?


 過去から逃げない自分。

 武芸者としての誇り。

 隊長としての矜持。

 国を護ること。部下を護ること。


(……本当にそれだけか?)


 溶けゆく意識の中で心がほぐされていくようだった。


 己を護ること。


 楊珪己を護ること。


(――ああ)


 本当に大切なこととは何だろう。

 たった一つを決めることなどできるのだろうか。

 どうして一つだけを選ぶことができるのだろうか。


 その一つ以外は捨ててもいいと誰もが思っているのだろうか。

 それとも捨てなくてもよいほどの力や覚悟があるというのだろうか。

 皆が皆、そんなに強いのだろうか。


(俺にはそのような素質があるだろうか……)


 しかし、もうそれ以上のことは考えられなかった。

 仁威の意識は暗い底へと、深く深く沈んでいった。

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