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4.喜びこそが生きる道を照らすたった一つの灯り

 この日の朝議は完璧なものだった。


 上段に座する皇帝は最初から最後までまさに皇帝然としており、的確に、正しく、見事な采配をふるった。


 これには最近隙をみては発言数を増していた中書令・柳公蘭も従うほかなかったようで、周囲を狼狽させるような過激な言動はいっさいとらなかった。湖国における皇帝の権威は今も力強く健在であることを、英龍は己自身の才で臣下に示したのである。


 龍崇は皇帝の隣から、今日も階下に居並ぶ官吏をざっと眺めて朝議の時を過ごした。そして昨日から特段何も変化がないことを見てとっていた。二日後に控える調印式の準備は滞りなく進められており、馬侍郎と李枢密副使はいまだうぶな恋に悩んでいる。楊枢密使の表情が若干明るく見えるのも悪いことではない。ここにも今朝方の龍崇の謎を解く鍵はないようであった。




 朝議を終え、龍崇は久方ぶりに昇龍殿の裏へと向かった。英龍があのように調子が良いのであれば、龍崇が一人秘密裏に進めている計画は不要なのかもしれない。であれば、この多忙な時期にわざわざその場所に行く必要はない。だが、龍崇の足は自然とそちらへと向かっていた。


 遠目からでも見える官吏補の濃紺の官服に、たなびく煙の流れに、龍崇の顔が一瞬ほころびかけた。しかしすぐに引き締まった。そこに求める人物がいなかったためだ。


 龍崇は足を止めるや、踵を返して元来た道へと戻っていった。



 *



 朝議から戻る道すがら、侑生は前を歩く上司の背に不思議な明るさを感じていた。踵が浮くような足取りの軽さは、枢密使である玄徳にしてはいささか――そう、いささか浮かれているようにも見える。


 他の枢密院の上級官吏らも侑生と同じ気持ちでいるようだ。しかし声をかけるにかけられず、そこはかとなく気恥ずかしい思いをしながら玄徳に付き従っている。結局、枢密院までの道のりにおいて、誰ひとり言葉を発する者はいなかった。


 各自が己の持ち場にほっとした顔で去っていき、ようやく二人きりになったところで、侑生はさりげなく玄徳の室へ共に入った。


 そして一気に核心に迫った。


「玄徳様。何か喜ばしいことでもおありですか」

「え。分かるかい?」


 くるりと振り返った玄徳の顔は、まさに満面の笑み。常であればその表情は玄徳が何か突飛なことを思いついたときに見せるものなのだが、今回は明らかに違う。玄徳の全身が彼の喜びを表していた。であれば正真正銘、玄徳には隠し切れない喜びがあるのだ。侑生の見立てた通り、玄徳の口がいつになく簡単に開かれた。


「実はね、珪己が」

「……珪己殿が?」


 その名に甘さ以上の冷たさを感じるのは、侑生に後ろめたさがあるからか。


「珪己が、なんと!」

「……なんと?」

「なんと……! あさっての鏡楼での宴に楽士として参加することが決まったんだ!」

「……楽士、ですか?」


 思ってもみない展開に侑生がぽかんとする様を、玄徳が愉快そうに見やった。


「やっぱり驚いたね。ふふふ、実は珪己は琵琶が得意なんだよ。いやあ、楽しみだなあ。侑生も宴を楽しみにしていなさい。ああでも、楽しみだけどやっぱりどきどきもするね。娘の晴れ舞台、分かってはいるけど、親の心臓にはよくないね。あと二日もこの調子で私は大丈夫かなあ」


 侑生はふと思い出した。先日楊家を訪ねたときに耳にした琵琶の音を。ぽろぽろと単調につまびかれていたその音は確かに悪くはなかった。だが上席に連なる楽士に比べればずいぶんと劣るものだった……ように思う。


 しかし玄徳を見れば、そのような不安をは口に出せなかった。玄徳は一人娘の才能を心から信じているようである。


 それにこんなふうに全身で喜びを表す玄徳を見るのは初めてのことだ。そう、八年前の事変以来、玄徳がこんなふうに無邪気に笑って未来を語ったことがあっただろうか?


 侑生は珪己とのことをあらためて思い出す。


 自分にとっての唯一の喜びを思い出す。


なぜこんなにも逐一思い出すのか、そんなことはわかりきっている。彼女だけが己の喜びであり、喜びこそがこの生きる道を照らすたった一つの灯りだからだ。


 それは玄徳も同じであるはずだった。辛く苦しいこの道は、その唯一の光があるからこそ歩むことができるのだ。


 だから侑生は玄徳の喜びを損なう真似などしたくなかった。その道をともす灯りを吹き消すようなことはできない、そう思った。


 と、ここで思い至った。


(であれば……やはり私の想いは満たされるべきではないのだろうな)


 自分の願いは玄徳の喜びを損なうだろう。二人の喜びの源は同じだが、二人で分かち合えるものではないからだ。そう、一方が奪えばもう一方は暗闇の中に取り残されてしまう類の願いだ。しかし玄徳を不幸にしてまで自分が幸せになる権利などなかった。それは八年前に己の所業によって定められたことだった。


(ああ、そうだ)

(幸福になる権利は誰にも平等にあるわけではないのだ――)


 侑生は悟った。まず間違いなく、己の幸福は玄徳のそれに比べて劣るべきだと。そうでないという理屈がこの世のどこにある?


 玄徳の笑顔を見つめながら、侑生はようやく決意した。本当にようやく――。それは認めたくない事実であったから、だからこそここまで時間がかかってしまった。しかしいつかは結論を出さなくてはいけないことだった。


 玄徳をとるか、それとも離れるか。

 これまでの生き方を捨てるか、それとも進み続けるか。


 その二者択一は、一つの結論なしでは語れない。


 つまり――楊珪己への思いを捨てるか、否かだ。


 玄徳は言った。自分は神ではないと。侑生にも幸せになる権利はあると。


 いつか玄徳の元を去るときがくるかもしれない。それでなくても、年功序列で玄徳のほうが早くに死するのが自然だろう。しかし今、玄徳の幸せを損なってまで自身の望みを叶えたいとは侑生には思えなかった。


 それはもはや過去に犯した罪への償いのためだけではなかった。これだけ長い時を玄徳とともに過ごして、どうしてこの上司のことを愛さずにいられるだろうか。


 そう、侑生は、玄徳のこともまた愛しているのだ。


 心が決まると、とたんに侑生の心は軽くなった。気づくと侑生はほほ笑んでいた。ひどく静かに……静かにほほ笑んでいた。


(あの夜の口づけが最初で最後だ)


 そう侑生は心に決めた。


(私には誰かと愛を交わす権利などなかったのだ。私のような罪深い者が、愛を利用して己を保つような愚かな人間が珪己殿をこれ以上穢してはいけないのだ。私のような者が触れていい方ではないのだ……)


 あの夜の口づけが、仄かに灯された炎のように侑生の胸の内に思いおこされた。それは温かかった。小さく頼りない炎であったが、それでも確かに温かかった。


 もうそれだけでこれからも生きていける――。


(そうだ。やはりあの少女へのこの想いは恋なんだ)


 その思いが迷いなく心に浮かんだ。すると、あれだけ珪己を求め続けていた自分が嘘のように、心はいつの間にか穏やかになっていた。


 玄徳の笑顔を見つめながら、侑生は胸の奥にひそやかに灯る思い出をそっと大事に包み込んだ。

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