3.私、武芸者だから
さて、楊家では今朝は珍しく初めから食卓に珪己の姿があった。普段は稽古を終えた後、玄徳が食事を半分ほどすませた頃にやってくるのに、である。
「今朝は仁威との稽古はないんだね」
そう玄徳に問われ、珪己は一拍おいてようやく答えた。
「もう特別待遇は終わりなんですって」
「それはどういうことだい?」
箸を動かす手を止めて珪己をじっと見つめる玄徳に、珪己は茶碗を手にするや威勢よくご飯を口に入れた。大きく咀嚼し、飲み込み、ようやく口が空になったところで父を見ると、まだその瞳は珪己に向けられていた。
机上の大皿に乗る魚に箸を伸ばしかけ、しかしその箸をいったん手元に戻した。
一息ついて、我慢の限界とばかりに父を睨みつける。
「どうもこうもないわよ。父様が袁隊長に私の警護を頼んだんですって? でもこう見えても私、武芸者だから。そりゃあ確かに、最近は女官やったり、官吏補やったり、今度は楽士までやるはめになったけど。稽古でぼろぼろになったりもしたけど。でも私、武芸者だから。どんなに駄目な武芸者でも、武芸者だから! そのことを忘れないでよね」
華の少女らしからぬ形相で責めたててくる娘に、玄徳は苦笑いを浮かべ、けれどぽつりと言った。
「珪己も私の娘であることを忘れてはならないよ」
「……ごめんなさい!」
珪己ははっとした。
「私、そんなに父様に心配かけていた……?」
「いいや、いいんだよ。子供の心配をするのは親のつとめのようなものだからね。珪己のことを愛している人間がここにいるっていうことを覚えていてくれたらそれでいい」
「……うん。そうよね。そうだよね」
二人は見つめ合い、そしてほほ笑み合った。
「ところで宴での琵琶の演奏はうまくいきそうかい?」
するりと話題が変わった。
「いやあ、楽しみだなあ。珪己の琵琶をあのような晴れ舞台で聴ける時がくるなんて、父さんは鼻が高いよ」
珪己が急きょ楽士を任じられたことは、玄徳も今朝方家人からの言付けで知ったばかりであった。なので玄徳は珪己とこうして食卓で話す時間が待ち遠しかったのである。早く娘とこの喜びを分かち合い、そして詳細を知りたい、と。しかし席に着いた娘の顔があまりに渋いので、ひとまず朝稽古の話から始めたというわけだ。
何のわだかまりもなく無邪気な笑顔をみせる玄徳に、珪己はつい苦い顔になった。
「ねえ父様。宴では絶対に私が父様の娘であることは言わないでね。ただでさえ急なことで練習不足だっていうのに、変に注目されたら、私絶対に失敗するわ。それにここまで来たんだもの、官吏補の間は父様の娘だってことは言わずに勤め上げたいの」
「分かっているよ。でも何年かして、いつか秘密でなくなる時がきたら、その時は自慢の種にしてもいいだろう? 実はあのときのあの子はうちの娘だったんだって」
「もう……。まあ、その時が来たら、だけどね。それにそんなふうに自慢できるような、記憶に残る演奏はできそうにないけど」
珪己の卑下する発言は玄徳には聞こえていないらしい。浮かれた様子で何やら空想にふけっている。
「珪己が登場したらみんな驚くだろうねえ。珪己が琵琶を上手に弾けることを誰も知らないしね。あの日の宴の楽士の一人が珪己だったってあとで知ってみんなが仰天する顔が今からでも想像できるよ」
珪己はこれまで、楊家と楽院でしか琵琶を弾いたことがない。楽院においても龍顕の個室で二人だけで練習してきた。しかし父である玄徳は珪己の琵琶の腕前を知っているから、今回ふってわいてきたような一人娘への特別な依頼が嬉しくて仕方ないのだ。
珪己が武芸に心酔していることも当然知っている。だが、好きだからこそ、この道一本と決めているからこそ、珪己は悩み苦しんでいる……そう見えるのだ。人生経験が深く枢密院での任に人生を捧げている玄徳は、それゆえ、珪己にはいくつもの道を提示できればと思っている。せめて娘には、と。
「蔡蘭も言っていたよ。珪己の琵琶をいつかみんなに聴かせてあげたいって」
「え、本当? 母様が?」
母の話が玄徳から出てくるのはめったにないことで、とたんに珪己の心が弾んだ。満面の笑みを浮かべた娘に玄徳がにっこりとうなずいた。
「ああ、本当だとも。蔡蘭も琵琶がうまかったけど、彼女は人前で琵琶を弾くのを好んでいなかったからね。自分の音色には嫌な自分が表れすぎている、と言っていた。だから人前では弾きたくないのだと。だけど珪己の音色は自分とは全然違っていて、どんな色にでも染まれるから、いつか珪己が素敵な女性になったら、その音色もきっと素敵で、そんな素敵な珪己のことを琵琶でたくさんの人に知ってもらいたい、そう蔡蘭は言っていたね」
「そう……母様はそんなことを」
母が琵琶のことを、自分のことをそのように解釈していることを、珪己は初めて知った。……自分は母の思うような人間になれているだろうか?
「珪己の琵琶の音には、珪己の強い面がよく表れているよね」
「そ、そう?」
父から自身の琵琶についてこれほどまでに言及されることもめったになく、珪己は若干の戸惑いを感じた。まるで秘密にしていた日記を親に読まれていることに気づいてしまったかのような羞恥すら感じる。だが玄徳は珪己の動揺に気づくことなく、目を閉じてどこかに思いを馳せていった。
「うん、なんていうのかな。……そう、まさに武芸者として生きる覚悟を歌っているように、珪己の琵琶の音は聴こえるよね。時たま、切なげな音色も聴こえるけど、それでも最後には勇ましい音をかき鳴らすまでは決して弾くのをやめないだろう? いつでも前向きに生きていくんだっていう、生きていきたいんだっていう、そういう珪己の心が聴こえるんだよ。だから私も珪己の琵琶を聴くといつだって頑張ろうという気になるんだ」
「……今、母様の気持ちが分かった」
「どういうことだい?」
「だから、人前で琵琶を弾きたくないっていう気持ち。……丸裸にされたような気持ちになる」
赤面する娘に玄徳が朗らかに笑った。
「大丈夫、大丈夫。珪己の裸は赤ん坊のころにたくさん見ているから、今さら驚くことはないよ」
「もう、父様!」
箸と茶碗を手にして頬をふくらませた珪己はまだまだ子供じみていて、そんな娘の所作に玄徳は心からの愛しさを覚えたのだった。




