5.皇帝の悲しい性(さが)
皇帝・趙英龍は、異母弟である趙龍崇のみを連れて歩いていた。
普段の彼は、当然侍従を伴って移動する。しかしここ飛橋内では事情は異なる。
飛橋とは、東宮と昇龍殿、武殿、そして二つの楼閣の間をつなぐ、皇族のみが利用できる通路をいう。橋といっても四方は壁に囲まれており、窓一つなく、その壁の向こうに何があるか推測できる手段は皆無である。
このような無機質で均質な空間を、手にした灯り一つを持って二人の皇族は歩いていた。この迷宮を利用する皇族は、当然、飛橋内のことを全て把握している。そしてこの二人が今歩いているのは、昇龍殿と鏡楼の中間あたりであった。
二人は鏡楼の牡丹の間へと向かっていた。目的は調印式の会場の準備の程度を確認することにある。ただ、この多忙な時期に突然この二人が現れては混乱を生じさせるから、彼らは牡丹の間との境界にある壁からのぞき窓を使って簡単に現場を視察しようと考えていた。こういうことを彼らは秘密裏に、気軽に、日常の延長としてよく実行していた。
と、龍崇がつぶやいた。
「顕叔父がいるようです」
英龍が耳を澄ますと、目的地の方からかすかに琵琶の音色が聴こえた。
英龍が軽く目を見開いた。
「ほお。音で分かるのか」
「分かりますよ。ここに来るまでほぼ毎日聴いていましたからね。あれは顕叔父の音だ」
「いや、そんな理由で奏者を言い当てることのできる者などいないと思うがな」
龍崇の足が止まった。
「崇?」
「……申し訳ありません。私は今夜はこれ以上おつきあいできそうにありません」
「なんだ。顕叔父に会いたくないのか」
「ええ、そうです。ご存じのとおり、私は顕叔父が苦手でして」
悪びれずに年上の皇族をこう語るのは、龍崇が少年時代にこの叔父にいくらか心をゆるしていたからであって、決して嫌いなわけではない。今こうして宮城で暮らすようになってからも、龍顕に会うと、龍崇は恥ずかしさで満ちた幼い自分を、彼を通して垣間見てしまうのだ。それは青年となった龍崇にとってはあまり心躍ることではなかった。
「分かった。では今宵はもう西宮に帰ってよい」
「西宮ですか?」
西宮とは皇帝以外の皇族――つまり龍崇の住まう宮である。
「まだ昇龍殿に戻って仕事をするのでは?」
「いや、余も今日は久しぶりに東宮に戻ろうと思っていたのだ。この国の皇帝ともあろうものがこのように疲れ切った顔をしていては芯国の者になめられるからな。そうではないか? 崇も今宵はよく休め」
その時、あたりが静寂に包まれた。一瞬遅れて、演奏が終わったのだと合点がいくと、龍崇は英龍に頭を下げて足早に来た道を戻っていった。その速度からして、龍顕が苦手だというのは本心からのものなのだろう。ここでもたもたしていると、同じく西宮に住まう龍顕に追いつかれる可能性がある。
英龍は異母弟の後ろ姿を苦笑しながら見送り、それから踵を返すと鏡楼へ再度その足を向けた。
*
まずは予定通り牡丹の間を覗いてみると、このように遅い時間だというのにまだ幾人かが働いていた。目を凝らすと、図画院から運び出した国宝の絵画が壁の至るところに飾られており、机や椅子は予定した数の半分ほどが並べられているのが確認できた。
(もう少しか……。だが当日までには間に合いそうであるな。此度の式にふさわしい調度であるし品格も問題なさそうだ)
式の運営は礼部主導で行われている。が、英龍は湖国皇帝の悲しい性で、自身が関与していない会場の設置状況といった小さいことまで己の目で見なくては気が済まなかったのだ。だが一目見れば十分だった。
英龍のすぐ右手には椿の間へと続く扉がある。飛橋と鏡楼を繋ぐ扉は、ここと、他にあと一か所ある。しかしこの扉が開くことがなく龍顕とすれ違わなかったということは、龍顕は今も室内にいると考えるのが妥当に思えた。
宴の芸事を今日になって変更したことを、英龍は事後報告として聞いていた。なので、楽院長として宴の芸事を取りまとめてくれている龍顕に詫びをしておくべきかと考えた。
念のために椿の間の方ののぞき窓を開ける。龍顕以外の者がいれば、黄袍をまとう英龍が姿を見せるわけにはいかないからだ。この国では皇帝の姿を見ることができる者は限られている。また、湖国以前からの概念とは恐ろしいもので、皇帝を直視すると目がつぶれると信じる者がいまだいる。毎日の朝議ですら、上級官吏の幾人かは最初から最後までじっと頭を下げているくらいなのだ。
そんなふうに事務的に室内をのぞいた英龍だったが、窓から見えた光景に思わず息を飲んだ。
そこには龍顕の姿はなく、代わりにたった一人の女官吏補がいた。
こちらに背を向けたその官吏補は膝に乗せた琵琶を構え直すと、英龍が見ていることにも気づかず奏で始めた。その音色は先ほどまで耳に届いていたものと同質にしか聴こえない。
(これは……上席楽士でもないというのに)
物心ついたときから楽士の中の楽士、上席に連なる奏者の手による本格的な音楽ばかりを聴いて育った英龍には、この官吏補の腕前に思わず身震いした。龍顕ほどの奏者の音色をそっくりそのまま模倣できるということは、よほどの才の持ち主といえる。
その指の震えが、押さえていたのぞき窓の蓋を揺らした。
小さくカタリと音が鳴った。




