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4.船上での交渉

 その広大な船内は、一歩足を踏み入れればまさに異国そのものであった。


 船内に漂う匂いは何かの香料なのか、独特の刺激を鼻孔で感じる。気にさわるほどではないが、明確に湖国との違いが香っているのだ。


 船内を行き交う人々についても、髪や瞳の色は全て湖国民と同じ黒であるのになんとなく造形に違いがある。たとえば目鼻や口が若干大きく、肌の色が若干濃い。それらは些細な違いではあるのだが、全体を一つとして捉えれば彼らが異国人であることは明らかであった。


 まるで突然湖国から跳躍して芯国に入り込んだような錯覚すら感じられる。


 湖国の官吏を出迎えた芯国人は、同郷人の中でもひときわ背の高い男であった。武官にもなかなか見ないようなその高身長の男を、標準的な体格の珪己は最後尾から見上げるしかなかった。そしてその男がほほ笑みながら口を開けば、話されることは意味不明の謎の呪文のごとくであった。男の後ろに控える老人が、


「大使は『本日もようこそおいでくださいました』と申しております」


と流暢に通訳したが、その男――大使が本当にそう言ったかどうかなど、珪己に分かるわけもなく。祥歌が、


「今日は事前にお伝えしたとおり、礼部尚書と枢密院の官吏も同行させていただきました」


と述べ、籐固と侑生が大使の前に進み出ると、各々、


「お久しぶりでございます。大使とは貴船が開陽に入られた時以来ですね」

「初めまして。枢密副使の李侑生と申します」


などと述べながら、大使とにこやかに握手をかわしはじめた。


 珪己は二人の堂々とした所作にほおっとため息をついた。芯国の民は握手をすることで相手へ敵意がないことを示す――そう同僚の張温忠から聞いていたが、実際に目の当たりにすると感動すら覚えた。湖国では友人同士でしかしないようなその行為を、風格漂う異国の大使とやってみせる勇気は珪己にはない。


 二人の言葉を礼部所属の緑袍の老官吏が流暢に通訳していく。それもまた珪己には呪文にしか聞こえない。かろうじて二人の名前が単語として聞き取れたくらいだ。


「『李枢密副使にはお初にお目にかかります。私は貴国との親善のために大使を拝命しておりますアソヤクと申します』」


 通訳の発する声の中に自身の名を認めて、その大使――アソヤクがほほ笑んだ。


 するともう一人、アソヤクの隣に一歩下がって立つ青年が口を開いた。


「『わたしは副官のイムルと申します』」


 その青年――イムルが差し出した手も、籐固と侑生は気負いなくとり握手する。


 この青年も湖国民の平均的身長をゆうに超えており、アソヤクに比べれば若干低い程度である。その証拠に、それなりに背の高い侑生は視線の動きだけでイムルと挨拶できたが、小柄な籐固は顔ごと見上げる必要があるほどだった。


 ただし、何より珪己が驚いたのは、そのイムルという青年の瞳の色だった。青い。いや、青というよりも紺、紺というよりは黒に近い濃紺か。深い色味がその青を黒に近い色に認識させる。しかし透き通るように深い青なため、一目見ればその青年が非常に稀有な瞳を有していることが如実に分かった。


 と、イムルの視線が対応すべき紫袍の官吏から最後尾に控える珪己のほうに移った。まっすぐにイムルの視線を受け、珪己はあわてて顔を下げた。


(……いやだ、無遠慮に見すぎたんだ。気をつけなくちゃ)


 侑生はイムルの興味が自分の背後のほうにうつったことに気づき、首だけを回して肩の向こうを見た。そこにいるのは枢密院事の二人と礼部の官吏の面々、そして最後尾でなぜかうつむく官吏補の少女だけだった。


 アソヤクが何か言い、侑生は意識を目の前に引き戻した。


「『それでは話し合いの場に参りましょう』」


 イムルは静かな笑みをたたえていた。



 *



 芯国一向は湖国の関係者を船内の一室へと通した。巨船なだけあって、総勢二十名近い面々が入ってもまだ余裕がある大部屋だ。


 長い机の両側に湖国と芯国の面々が移動する。芯国側は大使とその副官の二名、湖国側は礼部尚書と礼部侍郎、そして枢密副使の三名が椅子に腰をおろした。湖国の残る官吏や芯国関係者、そして通訳はその後ろに立つ。珪己はその中でももっとも後ろのほうに隠れるように居場所を確保した。前に立つ官吏はみな珪己より背が高いため、珪己には人と人の間からこちら側の三人の背中が見えるだけだ。


 祥歌は座るや、持ってきた書類を机の上に重ねた。そしてきりりと前方を見据えた。彼女はどんなときでも自分のやり方を崩そうとはしないのだ。


「さあ、それでは始めましょう」


 緑袍の老官吏によって言葉は訳され、そこから交渉は始まった。

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