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前編

伯爵令嬢の婿取りのすすめ、のスピンオフです

悪役令嬢ヴィクトリアの物語


 ──背中が痛い……

痺れるような鈍い痛みにハッと我に返った

痛い…なぜ?

まさか…わたくしパーシーに刺されたの?

 誰かいないの?

「……だ…れか」

声を出したら口内の乾きに激痛を覚えた

心臓が激しく脈打つ

 息が吸えない、苦しい……

身体は指一本たりとも動かせない

眼球だけを動かして周りを見た

家具の無い、埃っぽく薄暗い部屋だった

硬い寝台の薄汚れたシーツにたったひとり横たわっていた

─ここはどこ?わたくしはどうしたの?ライアン…?ライアンはどこ!

耳に響く声があった

「愚かな君は決してフレドリクに愛されない」

パーシー…?!…酷い…!何故……

………………

全身を走る激しい痛みに意識が遠のいて行く

その時

誰かが入って来た…

男女の声が聞こえる

「あれ、死んじまったのかい?」

「半年も何の反応もない木偶のまま寝てたんだ、よく確かめろ」

「……死んでるよ。やれやれ、せっかく背中の褥瘡の手当でもしてやろうと思ってたのに」

「…思ってただけだろ」

下卑た笑い声

 そして

次の瞬間、全てが闇に包まれた──

***



 「大丈夫かい?ヴィクトリア」

心配そうに眉を寄せフレドリクが聞いた


わたくしは転んだまま呆然としていた

地に倒れた瞬間だった…

 あらゆる記憶が一時に雪崩落ちて来たのだ

ひどく混乱していた


 ……今日は宮殿の園遊会だ

庭園にある低い石段を踏み外し芝生へと前のめりに倒れたのだ

膝が痛い…

薄桃色のドレスの裾が捲れ、そこに僅かな擦り傷がある

恐る恐るフレドリクの顔を見た

……幼い…。まだ少年だ

そしてわたくしの……手足も小さくか細い

そうよ……わたくしはまだ十歳

 こんな恐ろしい記憶を持つはずがない…

では何故?

いったいこれは何なの…!

動転して取り乱し、一瞬、意識が薄れた

………… 


──フレドリク……

愛しているわ…愛してるのに何故帰って来ないの?

あんな女なんかに…絡め取られて

『妻はわたくしなのよ!』──


叫んでハッと意識が戻った

倒れた自分を数人が覗き込んでいる

驚いて身を起こすと、ひとりの婦人に抱き締められた 

「お、伯母様…」

「ああ…大丈夫?ヴィクトリア、気を確かに…どこが痛いの?」

「あ、膝が少し」

心配げに擦り剥いた膝に目をやる伯母はこの王城の女主人…そう、王后だ

「まあ…誰に罰を与えましょう?誰があなたをこんな目に」

周りの侍女や衛兵の顔が引きつる

そうだ……いつもならこんな時

『酷いの…伯母様、誰もわたくしを助けてくれなかったの』

泣きながら伯母に抱きつくのがわたくしだ…

だが蘇った記憶が危険を告げた


「伯母様、わたくし誤って自分で転んでしまっただけです。誰も悪くありませんわ」

慌てて言うと再び抱き締められた

「……なんて、なんて優しい子なの…ああ、先月、母を亡くしたばかりでさぞお寂しいでしょうに」

───*


王宮の医療所で膝に布を当ててもらってから帰りの馬車に乗った 

「ご立派な態度でございました。急に大人になられて…」

侍女の言葉は耳に入って来なかった

 これは…何なの……

そう、母を亡くしたのは確かに先月、悲しみは今もこの胸に溢れている

物心ついてからの記憶もしっかりある

では…この未来の記憶は……?

それどころか、今の意識は既に未来を生き…死んだ……自分のものだ

幼くはない

まさか、まさか…

まさか…


 未来の記憶通りなら来月……

父が庶子を生んでいた妾を新しい妻として家に入れる

悲しみもまだ癒えないこんな時、存在さえ知らなかった女と弟がやって来た

 わたくしにとっては酷い仕打ちだった

怒りに震え、二人に侮蔑の視線を投げて…

それ以降は、いつも罵っていた

妄想なのか確かめるため、待ってみよう……


そして、もうひとつの事に思いを馳せた

…フレドリク

未来の記憶の中でも……もちろん今も慕っている

だが

今日、わたくしをエスコートしていたフレドリク

石段を踏み外し体がグラついた時…

 とっさに掴もうとした彼の腕が、スッ

と逃げた

 フレドリクは腕を引いたのだ

確かに、たかが二、三段でも階段だ、巻き添えは食いたくないだろう

でも

咄嗟に求めた助けを拒まれた衝撃

その直後「大丈夫かい?」さも心配げに覗き込んだ優しげな眼差し


 未来の記憶と混ざり合い気持ちがどんどん沈んで行った

───* 


 「ヴィクトリア様…これからどうぞよろしくお願いいたします」

スカートの後ろにしがみつく二歳違いの弟の肩に手を置いた女が笑った

「新しいお母様だ、仲良くやってくれ」

記憶通りだった… 

激しい怒りが湧き父の顔を睨もうとしてハッとした

いけない…… 

女の顔も弟の顔も記憶のまま…

もう疑う方が変だ

わたくしは記憶を持ったまま過去に遡っている

冷静な判断をしなければ…

静かに礼だけとって自室に戻った


過去をそのまま繰り返しているか、というとそうでもない気がした

 ややこしくはあるが……

未来の記憶の中の過去

 わたくしは庭園で転びはしなかった

だから…先を変えることは可能かもしれない


 未来の記憶の最後

あれは多分我が家の…スペンサー家の、ある別邸だ

存在だけは知っていた

歴代が係累で不始末を犯した者を押し込めた別邸と言う名の牢獄

わたくしはそこで命を落としたに違いない


わたくしをそこへ送る事が出来たのは次期のスペンサー侯爵…

そうスカートにしがみついていた腹違いの弟だ


妾だった女と腹違いの弟への対応に気をつけなければ…

 ……危険だ

そう思うのに親しくは出来なかった

情けないが、未来の記憶があろうが元来の自分を変えるのは難しい

嫌悪感が拭えないのだ

仕方無い…

今は精一杯、礼だけは尽くし極力関わらないようにしよう


 それでもひとつ

大事な決心だけは出来た

もう……フレドリクに関わらない


 スッとわたくしの腕を避けたフレドリク

あの出来事がわたくしにきっかけをくれた

前の人生で、あの彼に気が付いていたら…

心が冷えた今なら分かる

あの思いは幼い頃の初恋を拗らせただけの……ただの執着、ただの我欲だ

そんなもので何人もの人を陥れ

 罪を犯し

その罪を抱いて破滅したのだ

 わたくしは確かに愚かな人間だったかも知れない

だけど……

わたくしだって幸福など知らない人生を送ったのだ

自業自得だと笑われ謗られようと構わない

幸福を知りたい

今度は誰も傷つけず自分も傷つくことの無い人生をやり直したい

 生き直して……

そう、幸いにもわたくしは生き直せているのだから

***



十五歳

王立学園高等部

わたくしは一年、フレドリクは三年生だ

決心通り、今ではすれ違うと目礼を交わすくらいで話をする事も無い

わたくしと同じクラスにいるクラリス・ブーリン

彼女はフレドリクの唯一の想い人だった


 助けを求め伸ばす手……

水を飲み藻掻きなから沈む身体

『フレドリクを奪ったあなたが悪いのよ…!』

前の世界で、わたくしは彼女を憎み溺死に導いた……

映像が頭に浮かび硬く目を閉じる

 

 前の世界と同じ

フレドリクとクラリスはいつも一緒だ

肩を寄せ微笑み合う仲睦まじい姿

今は嫉妬など微塵も感じ無いけれど……

ただ浮かぶ記憶だけが憂鬱で背を向けた


フレドリクの弟パーシーとも疎遠だ

同じクラスだが話した事も無い

 前の世界

自分より目立つ兄に屈託を抱いていた彼

彼にいつも悪事の片棒を担がせた 

面差しの似た彼にフレドリクを重ね、でもフレドリクでは無い彼に憎しみも抱いた

『愚かな君には……』

『愚かな……』

パーシーとの最後の記憶…

あの後、彼はどうなったのだろう…

知る術もないけれど

……もう止めよう

フレドリクにさえ関わらなければ起こらない未来なのだ


 起こらない未来

そこに…… 

たったひとつ心残りがある

ライアン

わたくしの息子…たった一度のパーシーとの過ちで生まれた

でもライアンの存在は前の世界で唯一の幸福だった…

愛していた

 ごめんなさい…今度の世界であなたと会う事は無い

前の世界も今の世界も勝手なわたくし……

 さぞ憎むでしょう

ごめんなさい、愛する事だけ許して

たとえ存在しなくても……

 今度も…今の世界でも愛しているわ 

────*



 やがてフレドリクも卒業し憂いの減った高等部最終学年の頃

わたくしは来月で十八歳を迎える

後妻に入った義母と腹違いの弟とも今はうまくやれている

母を亡くした悲しみを時が癒してくれるのに従って日常会話くらいは交わせるようになった

時に弟はわたくしを姉と慕う素振りさえ見せてくれる

密かに胸を撫で下ろした

───*


 「まあ…ヴィクトリア……あなたフレドリクがお望みでは無かったの?」

大きく目を見開く伯母

フレドリクとの婚姻の話にわたくしが首を振ったからだ

「まあ…まあ、どうしましょう……わたくしったら、てっきり」

伯母は青くなっていた

王后の立場を使いわたくしへ来る縁談は全て遮断していたらしい

幼い頃と変わらず今もわたくしが彼を慕っていると思っていたからだ

そのうち婚姻をねだって来るだろうと待っていたらしい

前の世界では伯母の思った通りの行動をした……

しかし今回はわざと今となるまで自分の婚姻に関して触れなかった

 未来の記憶のせいで婚姻したいと思わなかったからだ

この年になれば令息は大抵婚約していてめぼしい相手も居ないだろう

修道院に入れたらいいのに…

前の世界を生きている筈のライアンの幸福を祈りながらの静かな生活

 とても幸福だと思えた……


そう思っていたわたくしの目論見が外れたのは三ヶ月程、後の事だ

***



 「グレイ伯爵家のベンジャミン様…?」

「そう…今年二十二歳になられて…あなたより四つ年上、丁度良い釣り合いですわ」

 笑顔だが、伯母が焦って見繕ったに違いない

確かにその方なら……家柄も良く初婚で婚約者もいない唯一の男性だ

ただ…

会った事は無いが、いわく付きの男だと知っていた

「伯母様…でも、その方は……」

「大丈夫よ。噂など気になさらないでいいわ、良い方です」

「……」

噂、をご存知なのに……

伯母は面子にかけて是が非でもわたくしを嫁がせたいのだ

でなければ噂を承知で話を進める筈がない

……わたくしは諦めた

伯母はいくらわたくしに甘かろうが王后…

王家の人間なのだ

フレドリクとの縁を断って次の縁談にまた首を振る事は不敬すぎる

それに、もう決定事項なのだろう……

噂、それは

 婚約を二度も破談にした男

その原因は、妹を愛しているから…というものだった


記憶と同じ道を辿らないよう生きてきた

 でも……

生き直しても結局は同じだったのか

 他の女性を愛する男と結婚する運命

愛しても愛されず

白い結婚を求められるかもしれない運命


 ……これは罰なのだろうか

苦しめ…と


前の人生で人を傷つけたぶん、今度は自分ひとりで苦しめと


 その為にこの生き直しが与えられたのかもしれない……

───*


端正な佇まいの男…

それが第一印象だった

フレドリクのように綺羅綺羅しく目立つ訳ではない

 だが全てが過不足無く整っているように見えた


伯母に引き合わされた王宮の一室

密かに虚しさを抱くわたくしに悠然と紳士の礼をとった、そして…

「ヴィクトリア嬢とこの様な御縁を頂き光栄でございます」

 恭しく言った


 前の世界と同じ…

学園卒業の半年前にわたくしの婚約は整った

 ただ違うのは相手

今の世界でわたくしの婚約者はベンジャミン・グレイとなった


 イオーネ・グレイ

噂のベンジャミン・グレイの妹

まさに名前通り、すみれの花のような可憐な令嬢だった

 日を置いて行なわれた両家の夕食会 

わたくしの腹違いの弟など少し頬を染め彼女に見惚れていた程だ

両家の親達がすまして無難な会話を交わす中、ベンジャミンが説明した

「妹イオーネは五年前に我が家の養女となりました。元は遠縁の娘にあたります」

「そう…でございましたの…」

「ええ、十二歳で…両親を亡くしまして」

「…まあ」

この説明の意味は…

 噂を肯定しているのだろうか

実の妹では無いから愛する事に何の問題も無い、だから文句を言うな……と

 わたくしはそう思いながら受け答えをしていた

イオーネの方も、大人しやかにしながら時折わたくしに向ける視線に険を含ませるのが分かった…

 

 もちろん何も言わないし、誰に何の手出しをするつもりもない

この人生が罰であろうが無かろうが、相手に執着しなければいいのだ

 そう……

状況が似ていても前提を違えれば…いい

愛人だろうが

白い結婚だろうが

離縁だろうが

 やり過ごし……そして、それから修道院に行こう

───*


「お嬢様…グレイ様から花束とカードが届いております……」

侍女が申し訳なさそうに告げた

 婚約後、初の交流の為の面会日

我が家でのお茶会を予定していたが欠席との連絡が入ったのだ

どうやら妹が熱を出して寝込んだという事だった

 ああ…やはり、そういう事なのね…

胸に微かな失望感が広がる

想定の範囲内ではあるが…そう思いながらカードを開いた

 きっちりした文字の当たり障りの無い謝罪文……

花束はありがちな深紅の薔薇にかすみ草

〝華やかな貴女へ〟と、あった


二週間後

ベンジャミンから招待状が届いた

 今度はグレイ伯爵邸でのお茶会の誘いであった

ふたりで会話を楽しみたい旨の文だ


お茶会の日はよく晴れていた

 グレイ邸を訪れると庭園のガゼボに案内された

広く美しく良く手入れされた庭園はグレイ伯爵家の豊かさを物語っていた

 ふと…

前の世界で嫁いだフレドリクの邸(やしき)での思い出、荒れ果てた庭が浮かび緩く頭を振って追い払った

ぼんやり庭を眺めていると、近づいて来る人影…

 ベンジャミンとイオーネだ

「お招きありがとうございます」

わたくしは立ち上がって礼を述べた

「よくおいで頂きました」

微笑むベンジャミンの後ろでイオーネが言った

「ようこそヴィクトリア様…あの、わたくしもご一緒しては駄目かしら…?」

うんざりしたが笑顔を作った

 「ええ…どうぞ…」

「駄目だと言っただろう」

わたくしの言葉を遮ってベンジャミンが答えた

「ご挨拶だけ…とついて来たのだから挨拶が済んだら席を外しなさい」

「……でもヴィクトリア様は、どうぞ…と」

「ヴィクトリア嬢は私の招待で私と会う為に時間を取って足を運んで下さっている」

はっきり告げてから後は柔らかく言った

「彼女では無く、君の方が気を使いなさい⋯」

正直わたくしはかなり驚いた、この方はまともな感覚をお持ちだったのね

 しぶしぶ引き返して行く妹の方はそうでは無さそうに見えた……

「妹が失礼を致しました。それで無くとも前回、伺えなくて失礼をしているというのに」

「いえ、お気遣い無く、あの……ベンジャミン様」

「……私の事はどうぞベンと、あの私もヴィクトリア…と呼び捨てさせて頂いても?」

もう一度驚いた

 わたくしと向き合う気がお有りなのかしら…

拒否する理由も無く、頷いた

 「…はい。あの、どうぞ……ベン」

「ありがとう、ヴィクトリア」

その後また謝られた

「前回は妹が突然倒れて熱があると……私は家族なので妹と食卓を共にするでしょう…」

医師を呼び、自分の感染の可能性も考えて訪問を遠慮したと言う

「結局大した事も無く…とんだ我儘病で…申し訳無い事をした」

 優しいトーンで〝我儘〟と言った

その我儘も愛しているのか…


穏やかな会話に終始した茶会を辞去した時

見送りに、と再び出て来たイオーネがにこやかに言った

「ヴィクトリア様、今度わたくしのお茶会がありますの、ご招待しては駄目かしら」

「ご迷惑だよ⋯」

「だって…お兄様が今日お話しさせて下さらなかったんですもの……」

甘えるように言う

 いったい、わたくしと話したい事などあるものだろうか…

ベンジャミンは溜息をついて苦笑いした

「……お嫌でなければイオーネの我儘を聞いてやって下さい」

 頷く以外の選択肢を見つけられなかった

───*



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