辺境領主と古い地図
馬車が止まった。
車輪のきしむ音が消えると、
代わりに風が窓を揺らす音が聞こえてきた。
リオネル・アーヴェントは、
膝の上に置いていた手を握り直した。
「緊張してます?」
向かいに座るカイル・ローデンが、
面白そうに尋ねてきた。
「していない」
「そうですか。さっきから同じところを三回も撫でてますけど」
言われて、リオネルは自分の手が上着の裾に触れていることに気づいた。
すぐに手を離す。
「服の乱れを直していただけだ」
「領主様ともなると、裾の乱れにも厳しい」
「カイル」
「はいはい。そう硬くならなくても大丈夫ですよ」
カイルは肩をすくめ、先に馬車の扉へ手をかけた。
その態度には、これから赴任する土地への緊張など欠片もない。
もっとも、彼は領主ではない。
誰も引き受けたがらなかった王直轄領でグレインを任されたのも、
そこで起こるすべてに責任を負うのも、リオネルのほうだった。
「着きましたよ、グレイン領に」
「ああ」
扉が開く。
冷たい風とともに、領主館の姿が目に入った。
領都ベルネの外れに建つ、灰色の石造りの館である。
二階建てで、左右に短い棟が伸びている。
古びてはいるが、造りそのものは悪くない。
リオネルが馬車を降りると、
館の前に立っていた二人の男がそろって頭を下げた。
片方は、腹回りの厚い五十過ぎの男だった。
「お待ちしておりました、リオネル・アーヴェント様。
代官を務めております、ゴルド・バルゼンにございます」
声も仕草も丁寧だったが、
長年この土地を預かってきた者特有の落ち着きがある。
もう一人は、まだ二十代後半に見える細身の青年だった。
「代官のエリオット・フェルンです。
遠路、お疲れさまでございました」
「リオネル・アーヴェントだ。
本日より、このグレイン領を預かる。世話になる」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
型通りの挨拶が終わると、カイルは自然に一歩下がった。
先ほどまでの気安い態度を引っ込め、
護衛としてリオネルの斜め後ろに控える。
ゴルドが館の扉へ手を向けた。
「それでは、まずは中へご案内を――」
「少し待ってくれ」
リオネルは館を見上げた。
二階の窓の位置。煙突の数。壁面の張り出し。
使用人用と思われる小さな出入口。
陽光の差す方向。
頭の中に、建物の輪郭が線となって浮かぶ。
「執務室は東側だな」
ゴルドがわずかに目を細めた。
「食堂は北側。厨房に隣接している。
主人の部屋は二階南側の角部屋。
階段は中央ではなく、玄関から入って右手にある」
リオネルが続けると、エリオットが館とリオネルを交互に見た。
「すごいですね。
外から見ただけで、そこまで分かるのですか」
「窓と煙突、それに出入口の位置を見れば、
おおよその用途は分かる」
「おお!」
それに対して、ゴルドは感心したようにも、
単に話を合わせただけのようにも聞こえる声を漏らした。
「その通りでございます。
マッパーというものは、ダンジョンだけでなく、
こうした建物の図面も描けるものなのですね」
言葉遣いは丁寧だった。
だが、その声音には薄いものが混じっていた。
珍しい芸でも見るような響きだった。
リオネルは特に気に留めず、館から視線を外した。
「ええ。見たものであれば、大抵は」
「懐かしいっすねえ」
後ろから、カイルが口を挟んだ。
護衛らしい顔を作っていたはずなのに、
口元には笑みが浮かんでいる。
「神託の日も、こんな空気でしたよね」
その言葉で、リオネルの意識は一年前へ引き戻された。
*
王都カレスタの大神殿。
十五歳を迎えたリオネルは、両親と親族が見守る中、
祭壇の前に立っていた。
アーヴェント家は、
代々「戦士」の適性を告げられてきた武門の家である。
領内から兵を集め、王の命に従って戦場へ赴く。
その軍勢を率いる者たちも、ほとんどが戦士だった。
リオネルも例外ではないと、誰もが考えていた。
三男とはいえ領主の息子である。
幼いころから剣を握り、馬に乗り、
兵を率いるための教育を受けてきた。
神官がリオネルの額に手を当て、長い祈りを終えた。
そして、告げた。
「神託に示されし適性は――マッパー」
その瞬間の静けさを、リオネルは今でも覚えている。
父の表情が固まった。
母は笑みを保とうとして、わずかに目を伏せた。
親族たちは互いに顔を見合わせ、
誰もすぐには言葉を発しなかった。
役立たずだと、面と向かって言われたわけではない。
ただ、期待されていたものではなかった。
それだけだった。
それだけで、十分に場の空気は変わった。
「まあ、俺も似たようなものでしたけどね」
神殿からの帰り道、カイルはそう言って笑っていた。
カイル・ローデンは、
幼いころからアーヴェント家に仕えてきた従者だった。
従者といっても、身の回りの世話だけをする者ではない。
剣の稽古ではリオネルの相手を務め、戦場では主を守る。
いずれはアーヴェント家の軍勢の一部を
預かる者として育てられていた。
家中では、将来の部隊長候補と見られていた。
そのカイルが一年前の神託で示されたのは、
「ハンター」だった。
役に立たない適性ではない。
だが、アーヴェント家が抱える兵士の大半は戦士であり、
兵を率いる者を育てる仕組みもまた、
戦士を前提として作られていた。
ハンターをどのように鍛えるのか。
どのような兵を預けるのか。
将来、どのような役目に就けるのか。
家中の誰にも、その答えがなかった。
それまで部隊長候補として扱われていたカイルは、
神託を境にどう育てればよいのか分からない人材となった。
「戦士じゃない俺に、戦士の部隊を預けるわけにもいかない。
かといって、今さら猟師にするわけにもいかない。
偉い人たちも困ったでしょうね」
カイルは他人事のように言った。
そこへ持ち上がったのが、
国王直轄地の領主を探しているという話だった。
魔物が多く、未整備の土地も広い辺境では、
マッパーとハンターが探索者に近い働きができる。
そのような説明とともに、リオネルは領主として、
カイルは護衛兼従者として送り出されることになった。
「要するに、家の中で育て方に困った二人を、
まとめて辺境に出したってことでしょう」
カイルは自嘲するように笑った。
リオネルは少し考えてから、答えた。
「別に、悪い話でもない」
必要とされない場所に残るより任された場所へ行く。
そこがどれほどの辺境であろうと領地は領地だ。
やるべき仕事があるならそれでよかった。
*
「リオネル様?」
エリオットの声に、意識が館の前へ戻った。
「いや、何でもない。案内を頼む」
「かしこまりました」
館の中は、外から想像した通りの造りだった。
玄関右手に階段があり、東側の廊下の先に執務室がある。
ゴルドは慣れた足取りで一行を案内し、重い木製の扉を開けた。
室内には、大きな机と書棚が並んでいた。
机の上には帳簿が何冊も積まれている。
「今後の政務について、まずはどうされますか」
ゴルドが尋ねた。
「まずは地図を出してくれ」
「地図、でございますか」
ゴルドはわずかに眉を上げた。
「そのようなものをご覧いただかずとも、
収支や報告の内容は私どもが正しく把握しております。
着任早々、そこまでお手を煩わせずとも」
言葉は丁寧だったが、
暗に「必要ない」と告げている響きがあった。
「いや、まずは自分の目で見たい。頼む」
リオネルが重ねて言うと、
ゴルドはそれ以上は止めず、書棚へ向かった。
取り出されたのは、黄ばんだ一枚の地図だった。
机の上に広げられたそれをリオネルは無言で見下ろす。
領都ベルネ。周辺の村。森。川。街道。
線は曖昧で、縮尺も場所によって異なっていた。
「この川は、ここではなく村の西を通っているはずだ」
「は?」
声を上げたのはエリオットだった。
「西、ですか。ですがこの地図では、ずっと東を――」
「館へ来る途中に橋を渡った。
街道との距離から考えると、この位置では合わない」
エリオットは地図とリオネルを交互に見た。
「着任されたばかりで、そこまでお分かりになるのですか」
「馬車の速度と、曲がった回数を覚えている。
もっとも、今は概算だ。歩いて確かめる必要がある」
リオネルは地図の余白へ、目を落とした。
空白の多い、粗い一枚だった。
だが、それでいい。
「まずは、この地図を埋めていこうか」
机の上に広げられた古地図を見つめ、リオネルは静かに言った。




