第3話 美咲の迷い
雨上がりの夕方だった。
サロンの前の石畳はうっすらと濡れていて、街の灯りをやわらかく映している。昼間の忙しさが過ぎたあとの店内には、温めたタオルのほのかな湯気と、静かな音楽がゆるやかに流れていた。
美咲は受付の横で予約表を見つめたまま、しばらく動けずにいた。
手元の紙には、来月から先の予定が細かく書き込まれている。担当のお客様の予約、スタッフのシフト、研修の日程。見慣れたはずの文字の並びが、今日はなぜか少し遠く感じられた。
「どうしたの」
声をかけられて顔を上げると、未沙が立っていた。
いつもの落ち着いた表情だったが、美咲の手元に向けられた視線は静かにやさしい。
「いえ……」
そう答えかけて、美咲は言葉を飲み込む。
ごまかせる気がしなかった。
「少し、考えごとをしてました」
「そう」
未沙はそれ以上すぐには聞かず、受付のカウンターに置かれたペンを整えた。
その沈黙が、かえって話しやすかった。
美咲は小さく息をつく。
「結婚のことです」
「うん」
「式の準備とか、新しい生活のこととか、そういうのもあるんですけど……」
そこで一度言葉を切る。
「仕事を、このまま続けていけるのかなって」
口にした途端、胸の奥にあった曖昧な不安が少しだけ輪郭を持った。
未沙は黙って聞いている。
「続けたい気持ちはあるんです」
美咲は予約表から目を離し、少しだけ視線を落とした。
「でも、結婚したら今までみたいにはいかないかもしれないし、家のこともあるし……。彼は続けていいって言ってくれてるんですけど、それに甘えていいのかなとか、ちゃんと両立できるのかなとか、考え始めるとわからなくなって」
言葉にしていくうちに、自分が何に迷っているのかが少しずつ見えてくる。
続けたい。
でも不安だ。
幸せになりたいと思うほど、その先で何かを失うのではないかという怖さも出てくる。
「やめたほうがいいのかなって思うときもあるんです」
美咲は苦く笑った。
「そのほうが、ちゃんとした選び方なのかなって」
未沙はすぐには答えなかった。
少しだけ考えるように視線を落とし、それから静かに言った。
「ちゃんとした選び方って、誰にとっての?」
「え……」
「世の中の空気とか、周りが安心する形とか、そういうこと?」
美咲は返事ができなかった。
図星だったからだ。
誰かにそうしろと言われたわけではない。けれど、結婚を前にすると、自然とそういう空気がまとわりついてくる。
落ち着くこと。
無理をしないこと。
家庭を大事にすること。
どれも間違ってはいない。だからこそ、逆らいにくい。
未沙は美咲の顔を見て、やわらかく続けた。
「結婚したら何も変わらない、とは言わないよ」
「……はい」
「生活は変わるし、思うようにいかない時期もある。仕事を続けていれば全部うまくいくわけでもないし、家庭を優先したから安心できるとも限らない」
その言葉に、美咲は顔を上げた。
未沙の声は静かだった。
けれど、ただ励ますための軽さはなかった。
「結婚したら迷う人は多いよ」
未沙はそこで少しだけ言葉を切った。
「どっちかだけを、きれいに守れることなんてあまりないと思うの」
美咲は何も言えなかった。
未沙の過去を詳しく聞いたことはない。けれど、何も知らないわけでもなかった。
このサロンをひとりで立ち上げたこと。
その時期に、五条と別れていたこと。
それでも仕事をやめなかったこと。
そして今また、こうして結婚し、子どもを育てながらここに立っていること。
その全部をくぐってきた人の言葉なのだと思うと、胸の奥が静かに揺れた。
「でも」
未沙はまっすぐ美咲を見る。
「だからって、最初からどちらかを諦める前提で考えなくていい」
「……」
「仕事を選ぶなら幸せを削る、家庭を選ぶなら自分を消す、みたいに考えなくていいよ」
その言葉は、まっすぐ胸に落ちてきた。
美咲は思わず目を伏せる。
自分でも気づかないうちに、そういうふうに考えていたのかもしれない。
どちらかを取るなら、どちらかは薄くなる。
幸せになるなら、自分の何かを少し差し出さなければいけない。
そんなふうに。
「両立って、きれいに半分ずつ持つことじゃないと思う」
未沙はカウンターに軽く手を置いたまま言う。
「その時々で偏ることはあるし、うまくできない日もある。でも、それでも持っていていいものはある」
「……」
「美咲ちゃんがこの仕事を好きで、ここまで積み重ねてきたことは、結婚したからってなくなるものじゃないでしょう」
美咲の喉の奥が、少しだけ熱くなる。
好きだった。
この仕事が。
最初は必死だったけれど、続けるうちに、誰かの身体がやわらぐ瞬間や、帰るときの表情が軽くなるのを見るのが好きになった。
自分の手でできることが増えていくのも、うれしかった。
ここで積み重ねてきた時間は、たしかに自分の人生そのものだった。
「幸せになることと、自分の人生を持つことは、別々じゃないよ」
未沙はそう言って、美咲をまっすぐ見た。
「一緒に持っていていい」
その言葉は励ましのようでもあり、許しのようでもあった。
けれどそれ以上に、美咲には何かを返してもらったように感じられた。
選ぶ自由を。
自分で決めていいという感覚を。
未沙は「続けなさい」とは言わなかった。
「家庭を優先しなさい」とも言わなかった。
ただ、どちらかを諦めることを前提にしなくていいと伝えた。
それは答えを与える言葉ではなく、美咲の手に答えを戻す言葉だった。
しばらくして、美咲は小さく笑った。
「私、たぶん……怖かったんだと思います」
「うん」
「幸せになろうとしたら、今までの自分が少しずつ遠くなる気がして」
「そう感じることはあると思うの」
「でも、本当は手放したくないです」
美咲は自分の声が思ったよりはっきりしていることに気づいた。
「仕事も、ここで積み重ねてきたことも」
未沙は静かにうなずく。
「じゃあ、手放さなければいい」
あまりにもまっすぐな言い方に、美咲は思わず笑ってしまった。
「そんなに簡単じゃないかもしれないです」
「うん。簡単じゃないと思う」
未沙も少しだけ笑う。
「でも、難しいことと、諦めることは同じじゃないから」
その言葉に、美咲は深く息をついた。
胸の奥に絡まっていたものが、少しずつほどけていく気がした。
店の奥では、片づけを終えたスタッフが静かにリネンを整えている。
いつもの夕方の光景だった。
けれど美咲には、その景色が少し違って見えた。
ここで働いてきた時間は、ただの通過点ではなかった。
結婚までの仮の時間でも、いつか手放す前提のものでもない。
自分が選んで積み重ねてきた、自分の人生だった。
「続けます」
美咲は、今度は迷わず言った。
「形は変わるかもしれないけど、仕事ごと手放したくないです」
「うん」
「ちゃんと考えて、無理のないやり方は探します。でも、最初からなくすことにはしたくない」
「それでいいと思う」
未沙の返事は短かった。
けれど、その短さがかえって心強かった。
大げさに背中を押されるよりも、自分の選んだ言葉をそのまま受け止めてもらえたことがうれしかった。
外では、雨上がりの空気が少しずつ夜に変わっていく。
街の灯りが濡れた道ににじみ、サロンの窓にもやわらかく映っていた。
美咲は受付の上に置いた自分の手を見る。
この手で、これまでたくさんの人に触れてきた。
緊張した肩、冷えた指先、疲れのたまった背中。
そのたびに、自分にもできることがあるのだと知ってきた。
その実感を、これから先の人生から切り離したくはなかった。
結婚することは、誰かと生きていくことだ。
けれどそれは、自分が空になることではない。
誰かを大切にしながら、自分の人生も持っていていい。
その当たり前のことを、美咲はようやく自分のこととして受け取れた気がした。
「ありがとうございます」
美咲がそう言うと、未沙は少しだけ首を振った。
「お礼を言われることじゃないよ」
「でも、言いたいです」
「そう」
未沙はそれ以上何も言わなかった。
けれどその横顔は、どこかやわらかかった。
閉店の時間が近づき、店の灯りが少しずつ落ち着いた色になる。
美咲は予約表をもう一度見た。
そこに並ぶ予定は、さっきまでとは違って見えた。
不安が消えたわけではない。
これから先、迷う日もきっとある。
うまくいかないことだってあるだろう。
それでも、自分で選んだ道なら、そのたびに考え直して進んでいける気がした。
幸せになることと、自分の人生を持つことは、両立していい。
その言葉を胸の中でそっと繰り返しながら、美咲は静かな店内に立っていた。
雨上がりの夜は、少しだけ澄んで見えた。
新しい暮らしの先にも、自分の手で触れていく時間が続いていくのだと信じながら、美咲はゆっくりと明日の準備を始めた。




