第2話 小さな手
午後の光が、サロンの窓からやわらかく差し込んでいた。
平日の昼下がりは、朝の慌ただしさがひと段落し、夕方の予約が始まるまでのあいだだけ少し呼吸がゆるむ時間だ。温めたタオルのほのかな湯気と、スタッフたちの控えめな声が、午前中よりひとつ低い温度で店の中に流れている。
美咲は使い終えたタオルをたたみながら、受付の時計に目をやった。
次のお客様までは、あと少し。
その静かな合間に、扉のベルが小さく鳴った。
「こんにちは」
聞き慣れた声に、美咲が顔を上げると、五条が立っていた。
その隣には、小さな女の子がいる。
未輝だった。
「あ、こんにちは」
「少しだけ寄ってもいいかな」
「もちろんです」
五条はそう言って、未輝の手を軽く引いた。
未輝は店の中をきょろきょろと見回している。受付の棚、整えられたリネン、やわらかな照明、奥へ続く施術スペース。見慣れているはずなのに、来るたびに少しずつ違って見えるのかもしれないと、美咲は思った。
「こんにちは、未輝ちゃん」
美咲がしゃがんで目線を合わせると、未輝は少しだけ五条の脚に隠れた。
けれどすぐに、そっと顔をのぞかせる。
「……こんにちは」
「ちゃんとごあいさつできてえらいね」
そう言うと、未輝は少し照れたように笑った。
その様子に、近くにいたスタッフたちの頬もふっとゆるむ。
「かわいい……」
「今日も来てくれたんだ」
「ちっちゃいなあ」
声をひそめて交わされる言葉に、店の空気が少しだけやわらかくなる。
さっきまで仕事の段取りを考えていた頭の中に、ふっと別の温度が差し込んでくるようだった。
奥から未沙が出てくる。
手にはまだペンが残っていた。
「来たの」
「近くまで来たから。少しだけ」
「そう」
未沙の返事はいつも通り短い。
けれど、その目が未輝に向いたときだけ、少しやわらいだように美咲には見えた。
未輝は未沙の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。
けれど駆け寄るというよりは、少しだけ様子をうかがうように立ち止まる。
未沙もまた、すぐに抱き上げたりはしない。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「いい子にしてた?」
「うん」
「そう」
短いやり取りだった。
それでも未沙の声は、いつもお客様に向けるものとも、スタッフに向けるものとも少し違って聞こえた。
未輝は未沙の近くまで来ると、そっと服の裾をつまんだ。
小さな指先が布を握る。
未沙は一瞬だけその手元を見て、それから何でもないような顔で未輝の頭を軽く撫でた。
「今日は髪、きれいにしてもらったの?」
「うん」
「……似合ってる」
少し間が空く。
「ありがとう」
未輝はそれだけでうれしそうに笑った。
美咲は、その様子を見ながら思う。
言葉は少ない。けれど、その手つきだけで十分だった。
そのやり取りを見ていたスタッフのひとりが、思わず小さく笑う。
未沙は普段、店では無駄なことをあまり言わない。仕事中は特にそうだ。だからこそ、こういう何気ない会話がかえって目に残るのかもしれないと、美咲は思った。
五条は少し離れたところで、その様子を静かに見ていた。
急かすでもなく、ただ待っているような立ち方だった。
未輝は受付横の小さな椅子にちょこんと座った。
足は床に届かず、ぶらぶらと揺れている。
「未輝ちゃん、ジュース飲む?」
美咲が声をかけると、未輝は五条を見上げた。
五条が小さくうなずく。
「ありがとうございます」
「いえ、すぐお持ちしますね」
美咲はバックヤードへ向かいながら、胸の奥に小さなあたたかさが広がるのを感じていた。
サロンに子どもがいる。
それだけで、こんなにも空気が変わるのかと思う。
いつもは整えられた大人の空間に、小さな存在がひとつ混ざるだけで、店全体が少しだけ呼吸を変える。
ジュースを持って戻ると、未輝は両手でコップを持ちながら、そっとストローに口をつけた。
その様子を見ているだけで、また店の空気がやわらぐ気がした。
ちょうどそのとき、次のお客様が来店した。
未沙はすぐに表情を切り替え、いつもの落ち着いた声で迎える。
「いらっしゃいませ」
その一言で、空気がまた仕事の顔に戻る。
けれど完全に元通りになるわけではなかった。
店のどこかに、さっきまでの小さなぬくもりが残っているように、美咲には感じられた。
未沙はお客様をカウンセリングスペースへ案内しながら、一度だけ振り返る。
未輝がちゃんと座っているのを確かめて、それから何事もなかったように施術へ入っていく。
その視線はほんの一瞬だったが、美咲の目には残った。
未沙は、ああいうふうに見るのだと思う。
大げさに構うわけではないのに、ちゃんと気にかけていることが伝わる見方だった。
施術のあいだ、未輝は驚くほどおとなしかった。
ときどき五条に小さな声で何かを話し、絵本をめくり、飽きると店の中を少しだけ見回す。
五条はそのたびに声をひそめて応じていた。未輝が椅子から降りようとすると、そっと手を添える。その様子を見ていると、店の流れを邪魔しないようにしているのが美咲にもわかった。
この人もまた、この場所の空気をよく知っているのかもしれない。
そんなふうに思う。
しばらくして、未輝が小さくあくびをした。
五条は時計を見て、立ち上がる。
「そろそろ帰ろうか」
「かえるの?」
「うん。お母さん、お仕事中だからね」
「……うん」
少しだけ名残惜しそうな声だった。
けれど駄々をこねることはしない。
五条に手を引かれながら、未輝は未沙のほうを見る。
未沙はちょうど施術の手を止められないところだったが、その視線に気づくと、小さく言った。
「またね」
「またね」
未輝はそれだけで満足したようにうなずく。
五条は受付で軽く会釈をした。
「お邪魔しました」
「いえ、またいつでも」
美咲がそう返すと、五条は少しだけ笑った。
扉が閉まり、小さなベルの音が消える。
ほんの短い滞在だったのに、店の中にはまだ未輝の気配が残っているようだった。
さっきまでそこにいた小さな手、小さな声、小さな笑顔。
それらが、仕事の場であるはずのこの空間に、やわらかな余韻を残していく。
夕方の予約が始まり、店はまたいつもの流れに戻っていく。
控えめな会話、リネンの触れ合う音、足音を忍ばせる気配。
けれど美咲の中には、さっき見た光景が静かに残っていた。
未沙が未輝の頭を撫でた手。
服の裾をつまんだ小さな指。
五条の、出過ぎることなくそばにいる静かな気配。
この場所には、仕事だけがあるわけではないのだと、美咲は思う。
技術を磨くこと。
お客様に向き合うこと。
店を整えること。
もちろんそれらは大切だ。
けれど、それだけではない。
誰かを大切にする日々。
その積み重ねが、ここに流れる空気を作っている。
未沙がお客様に向けるやさしさも、スタッフに向ける厳しさも、未輝に向ける不器用なまなざしも、きっとどこかでつながっている。
そう思うと、サロンの空気がただ洗練されているだけではなく、もっと暮らしに近いぬくもりを持っているように感じられた。
美咲はふと、自分の手元を見る。
仕事をするための手。
誰かの身体に触れ、少しでも軽くするための手。
けれど本当は、それだけでは足りないのかもしれない。
この場所を支えているのは、技術だけではない。
誰かを大切に思う気持ちが、毎日の小さなふるまいになって積み重なっていくこと。
その暮らしの温度のようなものが、サロンの空気を作っている。
まだ自分には、そこまでわかっていなかった気がする。
仕事を覚えることに必死で、うまくなることばかり考えていた。
けれど今日、ほんの短い時間だけ訪れた小さな来客が、そのことをそっと教えてくれた気がした。
夕方の光が少しずつ傾いていく。
サロンの中にはまた、いつもの一日が流れている。
その中にたしかに混ざっていた、小さな手のぬくもりを思いながら、美咲は次の仕事へ向かった。




