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泡のゆくえ、その先へ  作者: 冬馬美沙
第1章 受け継がれる場所
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第2話 小さな手

 午後の光が、サロンの窓からやわらかく差し込んでいた。

 平日の昼下がりは、朝の慌ただしさがひと段落し、夕方の予約が始まるまでのあいだだけ少し呼吸がゆるむ時間だ。温めたタオルのほのかな湯気と、スタッフたちの控えめな声が、午前中よりひとつ低い温度で店の中に流れている。


 美咲は使い終えたタオルをたたみながら、受付の時計に目をやった。

 次のお客様までは、あと少し。

 その静かな合間に、扉のベルが小さく鳴った。


「こんにちは」


 聞き慣れた声に、美咲が顔を上げると、五条が立っていた。

 その隣には、小さな女の子がいる。

 未輝だった。


「あ、こんにちは」

「少しだけ寄ってもいいかな」

「もちろんです」


 五条はそう言って、未輝の手を軽く引いた。

 未輝は店の中をきょろきょろと見回している。受付の棚、整えられたリネン、やわらかな照明、奥へ続く施術スペース。見慣れているはずなのに、来るたびに少しずつ違って見えるのかもしれないと、美咲は思った。


「こんにちは、未輝ちゃん」


 美咲がしゃがんで目線を合わせると、未輝は少しだけ五条の脚に隠れた。

 けれどすぐに、そっと顔をのぞかせる。


「……こんにちは」

「ちゃんとごあいさつできてえらいね」


 そう言うと、未輝は少し照れたように笑った。

 その様子に、近くにいたスタッフたちの頬もふっとゆるむ。


「かわいい……」

「今日も来てくれたんだ」

「ちっちゃいなあ」


 声をひそめて交わされる言葉に、店の空気が少しだけやわらかくなる。

 さっきまで仕事の段取りを考えていた頭の中に、ふっと別の温度が差し込んでくるようだった。


 奥から未沙が出てくる。

 手にはまだペンが残っていた。


「来たの」

「近くまで来たから。少しだけ」

「そう」


 未沙の返事はいつも通り短い。

 けれど、その目が未輝に向いたときだけ、少しやわらいだように美咲には見えた。


 未輝は未沙の姿を見つけると、ぱっと表情を明るくした。

 けれど駆け寄るというよりは、少しだけ様子をうかがうように立ち止まる。

 未沙もまた、すぐに抱き上げたりはしない。


「こんにちは」

「……こんにちは」

「いい子にしてた?」

「うん」

「そう」


 短いやり取りだった。

 それでも未沙の声は、いつもお客様に向けるものとも、スタッフに向けるものとも少し違って聞こえた。


 未輝は未沙の近くまで来ると、そっと服の裾をつまんだ。

 小さな指先が布を握る。

 未沙は一瞬だけその手元を見て、それから何でもないような顔で未輝の頭を軽く撫でた。


「今日は髪、きれいにしてもらったの?」

「うん」

「……似合ってる」


少し間が空く。


「ありがとう」


未輝はそれだけでうれしそうに笑った。


美咲は、その様子を見ながら思う。

言葉は少ない。けれど、その手つきだけで十分だった。


 そのやり取りを見ていたスタッフのひとりが、思わず小さく笑う。

 未沙は普段、店では無駄なことをあまり言わない。仕事中は特にそうだ。だからこそ、こういう何気ない会話がかえって目に残るのかもしれないと、美咲は思った。


 五条は少し離れたところで、その様子を静かに見ていた。

 急かすでもなく、ただ待っているような立ち方だった。


 未輝は受付横の小さな椅子にちょこんと座った。

 足は床に届かず、ぶらぶらと揺れている。


「未輝ちゃん、ジュース飲む?」


 美咲が声をかけると、未輝は五条を見上げた。

 五条が小さくうなずく。


「ありがとうございます」

「いえ、すぐお持ちしますね」


 美咲はバックヤードへ向かいながら、胸の奥に小さなあたたかさが広がるのを感じていた。

 サロンに子どもがいる。

 それだけで、こんなにも空気が変わるのかと思う。

 いつもは整えられた大人の空間に、小さな存在がひとつ混ざるだけで、店全体が少しだけ呼吸を変える。


 ジュースを持って戻ると、未輝は両手でコップを持ちながら、そっとストローに口をつけた。

 その様子を見ているだけで、また店の空気がやわらぐ気がした。


 ちょうどそのとき、次のお客様が来店した。

 未沙はすぐに表情を切り替え、いつもの落ち着いた声で迎える。


「いらっしゃいませ」


 その一言で、空気がまた仕事の顔に戻る。

 けれど完全に元通りになるわけではなかった。

 店のどこかに、さっきまでの小さなぬくもりが残っているように、美咲には感じられた。


 未沙はお客様をカウンセリングスペースへ案内しながら、一度だけ振り返る。

 未輝がちゃんと座っているのを確かめて、それから何事もなかったように施術へ入っていく。

 その視線はほんの一瞬だったが、美咲の目には残った。

 未沙は、ああいうふうに見るのだと思う。

 大げさに構うわけではないのに、ちゃんと気にかけていることが伝わる見方だった。


 施術のあいだ、未輝は驚くほどおとなしかった。

 ときどき五条に小さな声で何かを話し、絵本をめくり、飽きると店の中を少しだけ見回す。

 五条はそのたびに声をひそめて応じていた。未輝が椅子から降りようとすると、そっと手を添える。その様子を見ていると、店の流れを邪魔しないようにしているのが美咲にもわかった。


 この人もまた、この場所の空気をよく知っているのかもしれない。

 そんなふうに思う。


 しばらくして、未輝が小さくあくびをした。

 五条は時計を見て、立ち上がる。


「そろそろ帰ろうか」

「かえるの?」

「うん。お母さん、お仕事中だからね」

「……うん」


 少しだけ名残惜しそうな声だった。

 けれど駄々をこねることはしない。

 五条に手を引かれながら、未輝は未沙のほうを見る。


 未沙はちょうど施術の手を止められないところだったが、その視線に気づくと、小さく言った。


「またね」

「またね」


 未輝はそれだけで満足したようにうなずく。

 五条は受付で軽く会釈をした。


「お邪魔しました」

「いえ、またいつでも」


 美咲がそう返すと、五条は少しだけ笑った。


 扉が閉まり、小さなベルの音が消える。

 ほんの短い滞在だったのに、店の中にはまだ未輝の気配が残っているようだった。

 さっきまでそこにいた小さな手、小さな声、小さな笑顔。

 それらが、仕事の場であるはずのこの空間に、やわらかな余韻を残していく。


 夕方の予約が始まり、店はまたいつもの流れに戻っていく。

 控えめな会話、リネンの触れ合う音、足音を忍ばせる気配。

 けれど美咲の中には、さっき見た光景が静かに残っていた。


 未沙が未輝の頭を撫でた手。

 服の裾をつまんだ小さな指。

 五条の、出過ぎることなくそばにいる静かな気配。


 この場所には、仕事だけがあるわけではないのだと、美咲は思う。

 技術を磨くこと。

 お客様に向き合うこと。

 店を整えること。

 もちろんそれらは大切だ。

 けれど、それだけではない。


 誰かを大切にする日々。

 その積み重ねが、ここに流れる空気を作っている。


 未沙がお客様に向けるやさしさも、スタッフに向ける厳しさも、未輝に向ける不器用なまなざしも、きっとどこかでつながっている。

 そう思うと、サロンの空気がただ洗練されているだけではなく、もっと暮らしに近いぬくもりを持っているように感じられた。


 美咲はふと、自分の手元を見る。

 仕事をするための手。

 誰かの身体に触れ、少しでも軽くするための手。

 けれど本当は、それだけでは足りないのかもしれない。


 この場所を支えているのは、技術だけではない。

 誰かを大切に思う気持ちが、毎日の小さなふるまいになって積み重なっていくこと。

 その暮らしの温度のようなものが、サロンの空気を作っている。


 まだ自分には、そこまでわかっていなかった気がする。

 仕事を覚えることに必死で、うまくなることばかり考えていた。

 けれど今日、ほんの短い時間だけ訪れた小さな来客が、そのことをそっと教えてくれた気がした。


 夕方の光が少しずつ傾いていく。

 サロンの中にはまた、いつもの一日が流れている。

 その中にたしかに混ざっていた、小さな手のぬくもりを思いながら、美咲は次の仕事へ向かった。


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