第一話 婚約破棄を宣言いたします
第一話 婚約破棄を宣言いたします
白亜宮の大広間は、今夜も眩い光に満ちていた。
天井いっぱいに吊るされた水晶灯が黄金色の輝きを散らし、磨き抜かれた大理石の床には、幾千もの灯りが水面のように揺れている。甘い薔薇香油の匂い。絹が擦れる音。貴族たちの笑い声。楽団の奏でる弦楽器の旋律。
その全てを、セレフィナ・アシュクロフトは静かな目で見渡していた。
——東側回廊、湿度が高い。
呼吸と同時に、異能が無意識に働く。
壁の内側を走る古い配管。熱を持ち始めている魔導圧縮管。今夜の使用量では、大浴場側の水圧が少し危うい。三階客室の排水勾配も、そろそろ限界だ。
セレフィナはわずかに視線を伏せた。
今夜の夜会が終われば調整しなければならない。地下水路の逆流も気になる。西棟厨房の油脂除去も——。
「……セレフィナ様?」
給仕の少女が、おずおずと声をかけてきた。まだ十五ほどの小柄な侍女だった。銀盆を持つ手が緊張で震えている。
「どうしました」
「地下使用人室の水場が、また少し詰まり気味で……」
「あとで見ます。熱湯は流しましたか?」
「は、はい……ですが臭いが」
「換気窓を半刻ほど開けなさい。湿気が籠もっています」
侍女はぱっと表情を明るくした。
「ありがとうございます……!」
頭を下げて去っていく小さな背中を見送り、セレフィナは微かに息を吐いた。
本当は今すぐ地下へ行きたかった。今ならまだ軽度だ。放置すれば配管内壁に油膜が固着する。
だがその時。
突然、楽団の演奏が止んだ。
ざわり、と空気が揺れる。
大階段の上に立っていたのは、第一王太子ルシアンだった。
深紅の礼装に金の肩章。隣には、淡い桃色のドレスを纏った少女——聖女ミレイユ。
彼女は怯えたようにルシアンの腕へ身を寄せている。
広間中の視線が集まる中、ルシアンはゆっくりと口を開いた。
「皆に聞いてもらいたい」
よく通る声だった。
「私は本日をもって、セレフィナ・アシュクロフトとの婚約を破棄する」
一瞬、静寂が落ちた。
次いで広間が爆発したようにざわめく。
「まあ……!」
「婚約破棄だと?」
「なぜ今さら——」
セレフィナは瞬き一つしなかった。
ただ静かに、ルシアンを見上げる。
彼は冷え切った目をしていた。
「理由は明白だ。セレフィナは長年にわたり王宮財政を私物化し、過剰な緊縮で使用人たちを虐げ、さらには聖女ミレイユへ陰湿な嫌がらせを続けていた」
ミレイユがか細い声を漏らす。
「わ、私はただ……皆さんのお役に立ちたくて……でもセレフィナ様に、身の程を弁えろって……っ」
白い指先で目元を押さえ、震える肩を演じる。
貴族たちの視線が一斉にセレフィナへ向いた。
非難。軽蔑。好奇心。
湿った熱気が肌へまとわりつく。
セレフィナは静かにミレイユを見た。
麻酔性魔力。持続時間、およそ半日。痛覚を鈍らせるだけの粗雑な術式。治癒ではない。
その程度のことは、最初から見抜いていた。
だが口には出さない。
言ったところで、誰も信じない。
人は奇跡を愛する。地味な現実よりも。
「何か言うことはないのか、セレフィナ」
ルシアンが言った。
広間中が返答を待っていた。
セレフィナはゆっくりと扇を閉じる。
ぱちり、と小さな音がした。
それだけで何人かの使用人が緊張したように背筋を伸ばす。
セレフィナは前へ進み出た。
白銀のドレスの裾が静かに揺れる。
そして優雅にカーテシーをした。
「承知いたしました」
場が静まり返る。
「では本日をもって、王宮管理権限を放棄いたします」
ルシアンの眉がぴくりと動いた。
「……何?」
「予算管理、魔導循環調整、地下水路維持、備蓄監査、使用人動線管理、厨房衛生監督、浴場圧力制御、客室環境調整。全権限を返上いたします」
淡々と告げる。
まるで事務報告のように。
だが数名の古参文官が青ざめた。
「お、お待ちくださいアシュクロフト様、それは——」
ルシアンが鋭く遮る。
「構わん!」
その声は妙に苛立っていた。
「お前がいなくとも王宮は回る。いや、むしろ今までが異常だったのだ。数字ばかり並べ、人の心を理解しないお前など必要ない!」
ミレイユが涙声で囁く。
「ルシアン様……そんな、かわいそうです……」
その声に、彼は満足そうに彼女の肩を抱いた。
セレフィナはただ静かに見ていた。
広間の熱気。
香油の甘い匂い。
古くなった配管の奥から微かに漂う鉄錆の臭気。
——今夜は危ない。
ぼんやりと思う。
西側浴場の圧が高すぎる。
だが、もう自分には関係ない。
「失礼いたします」
セレフィナは再び一礼すると、そのまま踵を返した。
背後で誰かが笑った。
誰かが囁いた。
「冷たい女」
「可愛げがないから捨てられるのよ」
「聖女様のほうが愛らしいもの」
聞こえていた。
全部。
それでも足は止めなかった。
長い回廊を歩く。
窓の外には夜の王都。
噴水の水音が遠く響く。
使用人たちが不安そうな目で彼女を見ていた。
「セレフィナ様……」
老執事が震える声を漏らす。
セレフィナは少しだけ微笑した。
「今までありがとう」
それだけだった。
自室へ戻る。
扉を閉めると、急に静寂が耳へ刺さった。
机には未処理の書類が積まれている。地下水路図面。修繕申請。来月の備蓄表。
いつもなら今から徹夜だった。
だが、もう必要ない。
セレフィナはゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
その瞬間だった。
どこか遠くで。
ごぽり、と鈍い音がした。
排水管の逆流音。
セレフィナは目を閉じる。
癖で立ち上がりかけて、止まった。
胸の奥が、奇妙に空っぽだった。
安堵ではない。
喜びでもない。
まるで長年、自分の中を支えていた柱が抜け落ちたような感覚。
「……帰る場所が、ないのね」
ぽつりと呟く。
その声を聞く者はいなかった。
窓の外では、王宮の噴水がいつも通り美しく輝いていた。




