表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/11

第一話 婚約破棄を宣言いたします

第一話 婚約破棄を宣言いたします


 白亜宮の大広間は、今夜も眩い光に満ちていた。


 天井いっぱいに吊るされた水晶灯が黄金色の輝きを散らし、磨き抜かれた大理石の床には、幾千もの灯りが水面のように揺れている。甘い薔薇香油の匂い。絹が擦れる音。貴族たちの笑い声。楽団の奏でる弦楽器の旋律。


 その全てを、セレフィナ・アシュクロフトは静かな目で見渡していた。


 ——東側回廊、湿度が高い。


 呼吸と同時に、異能が無意識に働く。


 壁の内側を走る古い配管。熱を持ち始めている魔導圧縮管。今夜の使用量では、大浴場側の水圧が少し危うい。三階客室の排水勾配も、そろそろ限界だ。


 セレフィナはわずかに視線を伏せた。


 今夜の夜会が終われば調整しなければならない。地下水路の逆流も気になる。西棟厨房の油脂除去も——。


「……セレフィナ様?」


 給仕の少女が、おずおずと声をかけてきた。まだ十五ほどの小柄な侍女だった。銀盆を持つ手が緊張で震えている。


「どうしました」


「地下使用人室の水場が、また少し詰まり気味で……」


「あとで見ます。熱湯は流しましたか?」


「は、はい……ですが臭いが」


「換気窓を半刻ほど開けなさい。湿気が籠もっています」


 侍女はぱっと表情を明るくした。


「ありがとうございます……!」


 頭を下げて去っていく小さな背中を見送り、セレフィナは微かに息を吐いた。


 本当は今すぐ地下へ行きたかった。今ならまだ軽度だ。放置すれば配管内壁に油膜が固着する。


 だがその時。


 突然、楽団の演奏が止んだ。


 ざわり、と空気が揺れる。


 大階段の上に立っていたのは、第一王太子ルシアンだった。


 深紅の礼装に金の肩章。隣には、淡い桃色のドレスを纏った少女——聖女ミレイユ。


 彼女は怯えたようにルシアンの腕へ身を寄せている。


 広間中の視線が集まる中、ルシアンはゆっくりと口を開いた。


「皆に聞いてもらいたい」


 よく通る声だった。


「私は本日をもって、セレフィナ・アシュクロフトとの婚約を破棄する」


 一瞬、静寂が落ちた。


 次いで広間が爆発したようにざわめく。


「まあ……!」


「婚約破棄だと?」


「なぜ今さら——」


 セレフィナは瞬き一つしなかった。


 ただ静かに、ルシアンを見上げる。


 彼は冷え切った目をしていた。


「理由は明白だ。セレフィナは長年にわたり王宮財政を私物化し、過剰な緊縮で使用人たちを虐げ、さらには聖女ミレイユへ陰湿な嫌がらせを続けていた」


 ミレイユがか細い声を漏らす。


「わ、私はただ……皆さんのお役に立ちたくて……でもセレフィナ様に、身の程を弁えろって……っ」


 白い指先で目元を押さえ、震える肩を演じる。


 貴族たちの視線が一斉にセレフィナへ向いた。


 非難。軽蔑。好奇心。


 湿った熱気が肌へまとわりつく。


 セレフィナは静かにミレイユを見た。


 麻酔性魔力。持続時間、およそ半日。痛覚を鈍らせるだけの粗雑な術式。治癒ではない。


 その程度のことは、最初から見抜いていた。


 だが口には出さない。


 言ったところで、誰も信じない。


 人は奇跡を愛する。地味な現実よりも。


「何か言うことはないのか、セレフィナ」


 ルシアンが言った。


 広間中が返答を待っていた。


 セレフィナはゆっくりと扇を閉じる。


 ぱちり、と小さな音がした。


 それだけで何人かの使用人が緊張したように背筋を伸ばす。


 セレフィナは前へ進み出た。


 白銀のドレスの裾が静かに揺れる。


 そして優雅にカーテシーをした。


「承知いたしました」


 場が静まり返る。


「では本日をもって、王宮管理権限を放棄いたします」


 ルシアンの眉がぴくりと動いた。


「……何?」


「予算管理、魔導循環調整、地下水路維持、備蓄監査、使用人動線管理、厨房衛生監督、浴場圧力制御、客室環境調整。全権限を返上いたします」


 淡々と告げる。


 まるで事務報告のように。


 だが数名の古参文官が青ざめた。


「お、お待ちくださいアシュクロフト様、それは——」


 ルシアンが鋭く遮る。


「構わん!」


 その声は妙に苛立っていた。


「お前がいなくとも王宮は回る。いや、むしろ今までが異常だったのだ。数字ばかり並べ、人の心を理解しないお前など必要ない!」


 ミレイユが涙声で囁く。


「ルシアン様……そんな、かわいそうです……」


 その声に、彼は満足そうに彼女の肩を抱いた。


 セレフィナはただ静かに見ていた。


 広間の熱気。


 香油の甘い匂い。


 古くなった配管の奥から微かに漂う鉄錆の臭気。


 ——今夜は危ない。


 ぼんやりと思う。


 西側浴場の圧が高すぎる。


 だが、もう自分には関係ない。


「失礼いたします」


 セレフィナは再び一礼すると、そのまま踵を返した。


 背後で誰かが笑った。


 誰かが囁いた。


「冷たい女」


「可愛げがないから捨てられるのよ」


「聖女様のほうが愛らしいもの」


 聞こえていた。


 全部。


 それでも足は止めなかった。


 長い回廊を歩く。


 窓の外には夜の王都。


 噴水の水音が遠く響く。


 使用人たちが不安そうな目で彼女を見ていた。


「セレフィナ様……」


 老執事が震える声を漏らす。


 セレフィナは少しだけ微笑した。


「今までありがとう」


 それだけだった。


 自室へ戻る。


 扉を閉めると、急に静寂が耳へ刺さった。


 机には未処理の書類が積まれている。地下水路図面。修繕申請。来月の備蓄表。


 いつもなら今から徹夜だった。


 だが、もう必要ない。


 セレフィナはゆっくりと椅子へ腰を下ろした。


 その瞬間だった。


 どこか遠くで。


 ごぽり、と鈍い音がした。


 排水管の逆流音。


 セレフィナは目を閉じる。


 癖で立ち上がりかけて、止まった。


 胸の奥が、奇妙に空っぽだった。


 安堵ではない。


 喜びでもない。


 まるで長年、自分の中を支えていた柱が抜け落ちたような感覚。


「……帰る場所が、ないのね」


 ぽつりと呟く。


 その声を聞く者はいなかった。


 窓の外では、王宮の噴水がいつも通り美しく輝いていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ