最大の敵
各個撃破の方針で信長は決して自分から不利な戦いを起こす事はしなかった。
信長と言う人は自分が不利なら平気で相手に頭を下げる事が出来る人であった。
しかし彼の最大のポリシーとでもいうべき、『宗教勢力は政治に関わるべからず』という信念は、当時一向宗と呼ばれ、各地で一揆を扇動していた『本願寺』との対決を決定的にさせていた。
当時の寺社勢力は朝廷、皇室、公家と密接な関係にあり、広大な寺領を擁し、一種の独立勢力として雄を誇っていた。
近畿圏の有力な寺社勢力は、本願寺、延暦寺、金剛峯寺、東大寺、根来寺などを合わせれば、実質収入は石高に直すと優に400万石を越していた。
であるから、信長という京の支配者にも強気な態度を取っていたし、三好家が全盛のころも決して機嫌を損なう事が出来なかったのである。
そして信長は柴田勝家、和田惟政を摂津に派遣し、三好軍の駆逐に乗り出す。
ここで信長最大の敵が決起したのである。
『石山本願寺』この一向宗の本山が蜂起した事により、伊勢長島、三河、越後など信長と誼を通じる勢力内で猛威を奮うのである。
しかし、浅井、朝倉勢を小谷城付近まで抑え込んでいた織田軍は、摂津においても広大な野戦陣地を築いて、抑えに和田惟政、松永久秀ら畿内衆を残し、伊勢一向一揆平定に向かう。
この時、願証寺証意は下間頼旦らに命じ、数万に及ぶ一揆衆をもって長島で唯一信長側についていた長島城主の伊藤重晴を攻め落とし城を奪い、長島より織田勢力を一掃したのである。
ここで信長は、柴田勝家、滝川一益ら総勢7万の軍勢を率い、長島に侵攻する。
ここでも信長は補給路を絶ち、毎晩きらびやかな宴をひらいた。
又戦闘捕虜達の武装だけを解き贅沢すぎるほどの食事、酒を取らせ解放している。
門徒衆は解放された門徒達を受け入れている内にたちまち兵糧が尽きていった。
織田軍が近隣の米食料を相場の倍の値段で買い取っていたため、門徒の中に横領するものが相次いだのである。
元々一向宗に帰依する者たちは、この時代の言わば最下層の人たちであり、念仏を唱えて死ぬと極楽浄土にいけるとの教えに沿って死に幸せを見出して戦闘するのである。
文字通り『死兵』を相手に戦う恐怖は想像に絶する。
しかし、彼らは見てしまった。
そして、一部の門徒は知ってしまったのである。
それは今まで見た事も無い音楽や、舞台、山海の御馳走、上等な酒。
今まで死ぬより酷い扱いを受けるのが当たり前だと思っていた織田勢は実は極楽からの使いなのでは?
と思う物も多数出てきた。
洗脳を解くのには、それ以上の快楽を与えればよい。
そして、死に対して恐怖を与えればよい。
この時の信長の思考には見せしめで押さえるのではなく内部崩壊にて一気に制圧するプランが出来ていた。
「そろそろ頃合いだのん・・・・。」
ここに信長は触れを出す。
『坊主、浪人衆の首を取ってくれば、長島にて田畑を与える』との触れである。
長島に蜂起した本願寺の坊官、浪人衆はあらかた門徒であった貧民達によって討たれたのである。
自分の土地が持て、地主になれる。
これこそが実は貧民層の切実な願いであったのかもしれない。
これにより約半年の時間で領内の一揆勢力を平定し、新たに20万石にも及ぶ願証寺寺領を手に入れたのである。
「このまま何も生まない土地よりは民草に与えて年貢をもらう方がどれだけ得かだわ」
本願寺坊官たちは初めて敵対した『織田信長』を知り戦慄したのである。。。